第85話 管理権という建前
ユークの読みは、数日で当たった。
監督院から届いた文書は、これまでの照会とは、紙の重みからして違っていた。封蝋も、書式も、堅い。ミレアが封を検めてから、声に出して読んだ。
「『灰環迷宮の配分機構は、地域の生命線に関わる重要施設である。重要施設は、しかるべき公的管理下に置かれるべきであり、その正式な管理権は王立迷宮監督院にある。よって、配分機構の制御を、速やかに監督院の指定する者へ移管されたい』」
「正式な管理権は、監督院にある、ときた」
ユークは、文書を受け取って、その一行をもう一度なぞった。言葉だけ追えば、まっとうな理屈に見えた。大事なものは、ちゃんとした所が管理すべきだ。誰も、表立っては反対しにくい。
「建前としちゃ、立派だ。重要だから、公的に管理する。――だが、その『ちゃんとした所』ってのが、ここを切り捨てた当人だってのが、引っかかる」
誰も使わなくなった迷宮を、群れと二人三脚で、井戸の濁り一つから直してきた。その水が、ようやく村の畑まで届くようになった途端、横から手が伸びてくる。腹は立つ。だが、腹を立てて怒鳴り返すのが、いちばん下手な返し方だということも、ユークはもう知っていた。
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ミレアは、卓に古い記録の写しを広げた。灰環迷宮が「低価値・維持費不相応」として放棄された、あの判断の記録だ。
「監督院は、この迷宮を一度、要らないと切り捨てています。維持する価値がない、と。その同じ監督院が、いま、価値があるから管理権を寄こせ、と言っています」
「言ってることが、まるで逆だな」
「逆です。ですが、制度の上では、逆でも通ってしまいます」
ミレアの声は、いつもの淡々とした調子のまま、しかし苦かった。
「放棄した記録も、いま管理権を主張する文書も、どちらも監督院が出したものです。出した側が上位機関である以上、矛盾していても、外からは『監督院の正式な判断』として扱われます。こちらのコア仮認証は――制度の台帳には、欄がありません」
「欄がない、か」
ユークは、低く繰り返した。資格の欄が空っぽだという話は、もう何度も突きつけられている。正面から制度で殴り合えば、こちらは最初から土俵に乗っていない。
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「じゃあ、渡すのか」
壁際のザグレスが、口を挟んだ。挑発ではなく、確かめる口ぶりだった。
「渡さない」
ユークは、即答した。だが、すぐに付け足した。
「ただ、全部抱えて『何も渡さん』と突っぱねるのも、違う。それは、かつて門前払いを食らわせたのと同じだ。向こうに、強引にやる口実をくれてやるだけになる」
ユークは、卓に指で線を引いて、二つに分けた。
「渡せるものと、渡せないものを、最初に分ける。これをごっちゃにすると、向こうのいいように崩される」
渡せるもの。配分の記録、水質の記録、利用枠の台帳。安全報告。求められれば、監督院の人間が現場を見て回る立会いも、範囲を決めて受ける。隠すものは、何もない。むしろ、全部開く。
「隠さないことが、こっちの強みだ。だから、見せられるものは、洗いざらい見せる」
渡せないもの。コアの制御権。配分を、最後に誰へどれだけ回すかを決める調整権。そして、契約個体の運用――シルクスやグランに、どこを見張らせ、どこを直させるかの差配。
「この三つだけは、渡さない。ここを握られたら、クルン村の喉を、ここを知らないやつが、ラスティアの机で決めることになる。記録は開く。だが、決める手は、現場に置く」
ミレアは、その線引きを、すぐに書き留めた。
「開くものと、守るものを、最初に文書で分けておきます。後から『これも寄こせ』と言われたとき、線がなければ、なし崩しに全部持っていかれます。線が先にあれば、向こうは線の外までは、踏み込む口実を作れません」
「頼む。それと、もう一つ」
ユークは、積まれた台帳の山を、顎で示した。
「移管しろ、の文書に、こっちは『はい』でも『嫌だ』でも返さない。返すのは、記録だ。この迷宮を、誰が、いつ、どう維持してきたか。配分が止まっていた頃と、回り始めてからで、クルン村の井戸がどう変わったか。それを、向こうの要求の隣に、ただ並べる」
「『管理権はそちらにある』に、『現に維持してきたのはこちらだ』を、ぶつけるのですね」
「言い負かすんじゃない。並べて、どっちが地域の役に立ってきたかを、見るやつに勝手に比べさせる。査察のときと、同じ手だ」
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夕方、エルリオから、また短い便りが届いた。立場を慮ってか、書きぶりはいつにも増して慎重だったが、伝えたいことは一つだった。
移管の内部手続きには、穴がある、と。
ミレアが、便りの要点を噛み砕いた。
「監督院の手続きでは、施設の管理権を移すとき、『現に誰が管理しているか』を確認する欄があるそうです。本来は形式だけの欄です。放棄された施設なら、管理者は『なし』と書いて、すぐ移管できる。――ですが、灰環は」
「『なし』じゃない」
ユークは、先を引き取った。
「現に、配分が回ってる。水が出てる。クルン村の畑が枯れてない。管理者なしの放棄施設だと書こうとしたら、現に管理してる実態と、食い違う」
「はい。エルリオさんは、そこだと言っています。『放棄した』という古い記録と、『現に回っている』という実態。その二つが、監督院自身の手続きの中で、ぶつかります。向こうが急いで移管しようとするほど、その矛盾が、書類の上で表に出ます」
ザグレスが、低く笑った。
「自分で切り捨てた紙が、自分の足を引っかけるわけだ。いい気味だな」
「気味がいいかは別として」
ユークは、笑わなかった。
「使える。正面から制度で勝てないなら、向こうの制度の中の、その食い違いを突く。『現に管理している者がいる施設を、管理者なしとして移管できるのか』――それを、こっちが声高に言うんじゃない。記録を全部開いて、向こうの手続きに、勝手にぶつからせる」
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その話を詰めている最中だった。
受付の奥、コアの安置された区画から、ルーメの淡い光が、いつもと違う明滅を伝えてきた。フェズが様子を見に走り、すぐに戻ってくる。
ユークがコアの前に立つと、表示が、一段、変わっていた。
これまで「配分」とだけ灯っていた箇所に、細い枝がいくつも描き足され、その分岐の一つひとつに、ユークの差配を受け付ける手応えが生まれていた。配分の制御が、一段、ユークの側へ開かれていた。
「……このタイミングでか」
ユークは、思わず呟いた。外から管理権を寄こせと押された、まさにその時に、コアは逆の答えを返してきた。誰に配分を託すかを、コアは、紙の管理権ではなく、現にここを維持している者へ――少しずつ、ゆだね始めていた。
ザグレスが、コアの表示を覗き込んで、唸った。
「機械の都合だ、と言われりゃ、それまでだがな。だが、覚えとけ。これは使い方を間違えると、毒にもなる」
「毒?」
「『コアが俺を選んだ』ってのは、裏を返せば『コアが選んだから俺のものだ』だ。それを振りかざせば、お前の言う私物化と、紙一重になる。監督院は、そこを突いてくる。『機械の気まぐれを、管理権の根拠にするな』とな」
ユークは、開かれた分岐の手応えを掌に感じながら、ゆっくり頷いた。
「分かってる。これは、俺のものだって証拠にはしない。『維持できる者に、現に回せている』って事実として使う。コアが選んだ、じゃない。コアが選ぶくらい、ちゃんと回してきた――その順番でだ」
ザグレスは、それ以上は言わず、壁に背を戻した。釘は刺した、という顔だった。
建前の管理権は、ラスティアの机の上にある。だが、現に水を配る手応えは、いま、ユークの掌の中で、確かに脈打っていた。どちらが本物かを、コア自身が、選び始めている気がした。




