第84話 外から押す手
モルガンがラスティアへ戻って、数日が過ぎた。
最初に外の動きを伝えてきたのは、監督院の内側にいるエルリオだった。相変わらず慎重な書きぶりの便りに、こうあった。灰環前砦について、新しい訴えが、監督院と、その先の貴族筋へ、ほとんど同じ時期に持ち込まれている、と。
ミレアが、便りの写しを読み上げた。
「『無資格の者が、未登録の迷宮の配分機能を私物化し、正規に対価を払った商人を不当に後回しにしている。公正な配分のため、しかるべき機関の管理を求める』。……名指しはありませんが、灰環のことです」
「ずいぶん立派な訴えだな。公正のため、ときた」
ユークは、写しを受け取って、もう一度同じ箇所を読んだ。文面だけ見れば、私利私欲を質す、まっとうな申し立てに見えた。
---
ザグレスが、壁から背を起こして、写しを覗き込んだ。
「立派なのは言葉だけだ。中身を裏返してみろ。『正規に対価を払った商人を不当に後回しにしている』――これは、つまり」
「『俺の枠を先にしろ』だ」
ユークは、短く言った。
「モルガンの言い分そのものだ。余剰枠を後ろに回されたのが気に入らない。それを『公正』って言葉でくるんで、上に持っていった。公正を求めてるんじゃない。自分の順番を、上から覆させたいんだ」
「分かってるなら、話が早い」
ザグレスは、ニヤリともせずに続けた。
「だがな、ユーク。厄介なのは、これが一つの訴えに見えて、受け取る側が三つだってことだ。同じ紙でも、読む相手で、欲しがるものが違う」
---
ユークは、写しを卓に置いて、外から押してくる手を、一つずつ腑分けした。
一つ目は、モルガン。望みは、はっきりしている。後ろに回された自分の余剰枠を、取り戻したい。それだけだ。金で動く相手で、欲しいものも分かりやすい。
二つ目は、監督院。査察で配分の価値を見て帰った相手だ。彼らが「私物化」という言葉に飛びついたのは、公正のためではない。それを口実にすれば、配分槽の管理権そのものを、灰環から正式に取り上げられるからだ。
三つ目は、貴族筋。今はまだ、様子を見ている。どちらが勝ちそうかを測って、勝ちそうな側に乗る。自分から先に手を汚す気はない。
「三つとも、欲しいものが違う」
ユークは、指を三本立てた。
「モルガンは枠が欲しい。監督院は管理権が欲しい。貴族は、勝ち馬が欲しい。一つの訴えに見えて、押してくる理屈が、てんでばらばらだ」
---
ザグレスが、その三本の指を、危険な順に並べ直した。
「いちばん御しやすいのは、モルガンだ。枠で折り合えば、たぶん引っ込む。金で動くやつは、金の話に戻せる」
「いちばん厄介なのは」
「監督院だ。あいつらは、枠じゃ満足しない。配分そのものを握りたがってる。査察官が、あの『上位閲覧限定』の棚を見知った目で見ていったのを、忘れるな。価値を知った上で、回収に動いてる」
ザグレスは、最後の一本を、軽く弾いた。
「貴族は、今は数えなくていい。だが、監督院が勝ちそうだと見たら、すぐ乗ってくる。だから――監督院に勝たせないことが、貴族を動かさないことにもなる」
正面からぶつかって、片づく相手ではなかった。モルガンを言い負かしても、監督院は別の理屈で押してくる。三つを一度に相手取れば、どこかで足をすくわれる。
---
ユークが、便りの「無資格」という一語を、指で押さえた。
「この言葉が、いちばんよく効く。なぜなら、嘘じゃないからだ」
「嘘ではない、とは」
ミレアが、顔を上げた。
「コアが仮に認めただけの管理者は、監督院の台帳には、欄がない。正式な資格を持ってるかと問われたら、持ってない。だから『無資格』と言われたら、言い返せない。向こうは、その穴を狙ってきてる。資格の有無で押せば、こっちは制度の上で、最初から負けてる」
「では、何で返すのですか」
「実物だ」
ユークは、貼り出された順番表のほうへ、顎をしゃくった。
「資格の欄は、空っぽでいい。だが、クルン村の畑には水が戻った。坑区にも分け前が回り始めた。独占させない契約も、公開の記録もある。欄がなくても、配られた水は、現に流れてる。資格は紙の話だが、水は暮らしの話だ。紙で負けてても、暮らしで勝ってりゃ、私物化の絵は描けない」
---
その話を、受付の隅で聞いていた近在の利用者が、不安げに口を挟んだ。グニェルだった。規則を守って枠を使ってきた、堅い男だ。
「なあ、ユーク。もし、そのお上ってのが、配分を取り上げたら、どうなるんだ。クルン村の水は、今まで通り回るのか」
「回るとは、言い切れない」
ユークは、ごまかさなかった。
「管理を握ったやつが、村の畑より、金を積んだ商人を先にするかもしれん。誰の喉を後回しにするかを、ここを知らないやつが、ラスティアの机の上で決めるようになる。だから、管理権だけは渡さない。記録は、誰にでも開く。だが、誰の水を先に守るかを決める手は、現場に置いておく」
グニェルは、しばらく考えてから、低く言った。
「……俺は、お上の名前より、今年畑が枯れなかったことのほうを、信じるよ」
その一言は、どんな反論より、ユークには効いた。資格の欄ではなく、回った水を見ている人間が、現に一人、ここにいた。
---
ミレアは、台帳をすべて卓に積み上げていた。
「『私物化』と言われました。なら、その逆を、記録で見せます」
「逆?」
「私物化というのは、隠して、独り占めにすることです。誰にどう配ったかを、こっそり決めて、外に出さない。――でも、うちは、逆をやっています」
ミレアは、貼り出した順番表と、その理由を綴った公開記録を、写しの隣に並べた。
「最優先は生活必須、次が地域の復旧、余剰だけが取引枠。なぜその順番なのか、誰の枠がなぜ後ろなのか、理由ごと全部、貼り出してあります。隠していたら、こんな記録は残しません。私物化したい人間が、自分の決めた配分を、わざわざ全部見える所に貼り出すと思いますか」
「思わないな」
ユークは、初めて、口の端をわずかに緩めた。
---
「反論を、一つずつ書いて送り返すんじゃない」
ユークは、積まれた台帳を見渡した。
「向こうは三つの理屈で押してくる。こっちが一つずつ言い返してたら、追いつかない。やることは一つだ。配分の記録と順番を、誰が見ても、どこからどう辿っても、説明がつく形に整える。私物化ってのは、隠す者の罪だ。隠してない、を、隠しようがない形で見せる」
「査察に見せたのと、同じ手ですね」
「ああ。あのときは、現に回ってる運用を見せた。今度は、現に開いてる記録を見せる。欄がなくても水は配られた。記録があれば、私物化の絵は描けない」
ミレアが頷いて、台帳の整理に取りかかった。ザグレスは、まだ写しの一点を睨んでいた。
---
その日の夕方、エルリオから、二通目の便りが届いた。
一通目より、ずっと短かった。短いだけに、内容は重かった。監督院が、訴えを受理しただけでなく、その先へ進み始めた、というのだ。無資格運用を理由に、配分槽の管理権そのものを、灰環から正式に引き取る――そのための内部手続きが、もう動き出している、と。
ユークは、その一行を、しばらく見ていた。枠の話でも、査察の話でもなかった。配分を誰が握るか、という話に、相手は踏み込んできていた。
「枠を後ろにされた商人の文句が、いつのまにか、配分そのものを取り上げる話になってる」
ユークは、便りを置いた。
「順番が正しいかどうかじゃない。その順番を、誰が決めていいのか――それを、外から書き換えにきた。次に来るのは、もう訴えじゃない。管理権を寄こせ、って手だ」




