第9話 最初の棚卸し
『仮認証』
中枢の黒曜石の盤面に浮かび上がったその文字を確認した直後、ユーク・フェルドの視界がぐにゃりと歪んだ。
「……ッ!」
脳髄に直接、熱した鉄串を突き立てられたような強烈な情報流が流れ込んでくる。
それは、灰環迷宮という巨大な複合施設が現在抱えている、すべての『痛み』だった。
第三区画の岩盤の軋み。第七区画の水脈の渇き。第十一区画に溜まった有毒ガスの圧力。外縁部の魔力流路の断裂。
迷宮全体の重さ、温度、湿度、そして絶え間なく続く自己崩壊の悲鳴が、ユークという一個人の感覚器官に接続され、無理やり共有させられようとしている。
「ぐっ、うおおお……っ!」
ユークは膝から崩れ落ち、両手で頭を抱え込んだ。
一般の冒険者であれば、この膨大な情報量に自我を押し潰され、廃人になっていただろう。迷宮の管理者になるということは、神のような全能感を得ることではない。巨大な病人の脈拍を、自分の心臓に直接繋がれるようなものなのだ。
「流し……込むな! 俺は、全部は、見ないッ!」
ユークは歯を食いしばり、必死に自らの魔力で『感覚の防波堤』を築いた。
コアに対して行ったのと同じトリアージだ。流れてくる情報を片端から遮断し、切り捨て、意識のピントを強引に絞り込んでいく。
第十二区画、遮断。第十区画、遮断。第四区画の湿路、遮断。
意識を削り落とし、今の自分に直結している場所だけを残す。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
数十秒の格闘の末、ユークはようやく肩で息をしながら顔を上げた。
視界の歪みは収まっている。脳を焼くような痛みも引いた。
代わりに残ったのは、先ほどまでとは全く違う解像度で世界を捉える、薄皮一枚を隔てたような不思議な感覚だった。
足元の岩盤がどれだけの重さを支えているかが、肌感覚で分かる。
空間を漂う魔力の粒子が、どこで滞り、どこへ流れたがっているのかが、目に見える『線』のように感じ取れる。
これが、システムとリンクした仮管理者としての視界。
「……ひどいもんだな。改めて感じると、本当にギリギリで首の皮一枚繋がっているだけだ」
ユークは自嘲気味に呟きながら立ち上がった。
全区画の情報を遮断し、彼が今『見ている』のは、自分が通ってきた【旧保守導線】、崩壊の起点となった【入口層】、そしてこの【中枢近傍】の三点だけだ。
それ以外の区画は、コアに指示した通り、最低限の休眠状態へと移行しつつある。
権限は得た。迷宮の感覚も部分的に共有した。
しかし、ユークの心に高揚感は微塵もなかった。
彼の中にあるのは、潰れかけの劣悪な商会を押し付けられた中間管理職のような、圧倒的な『資源不足』に対する頭痛だけだった。
「魔力も資材も、何一つ足りていない。できることを極限まで絞らないと、入口層の維持どころか俺自身が魔力枯渇で倒れるな」
ユークは盤面の前に立ち尽くしたまま、目を閉じた。
次に行うべきは、システムに仮登録した五体の『従業員』たちの状態確認――棚卸しだ。
意識を内に向け、システムを通じて繋がった五本の細い魔力パスにアクセスする。
目の前に呼び出すわけではない。彼らは今も、入口層のあちこちで生き残るために必死に隠れ潜んでいる。その彼らの現状を、パス越しに「診断」するのだ。
『シルクス』。索敵を担うクモ型の個体。
ユークの意識に、ビリビリと落ち着きのない振動が伝わってきた。
「……怯えすぎだ。崩落の恐怖から、無差別に糸を張り散らしているな」
安全を確保したい本能からか、シルクスは自分の周囲に無数の糸を張っては、わずかな泥の動きや空気の揺れに過剰反応し、無駄に魔力を消耗していた。情報を集めようとしすぎて、ノイズの海で自爆しかかっている状態だ。
『モルト』。汚泥の処理を期待する泥食い種。
こちらから伝わってくるのは、ひどい胃もたれと飢餓感が混ざったような不快な疲労感だった。
「泥なら何でもいいわけじゃないだろうに……」
モルトは生きるために、腐敗度が高すぎたり、有害な鉱物が混ざりすぎたりした『質の悪い泥』を手当たり次第に飲み込み、消化不良を起こして動きが鈍っている。処理ラインが整っていないため、ただのゴミ箱代わりになって苦しんでいるのだ。
『グラン』。地盤を支える土木系の個体。
「……こいつは、動けていないな」
グランからは、重く硬い、停滞した感覚だけが返ってきた。おそらく、崩落で歪んだ岩盤の隙間に挟まっているか、あるいは無計画に重い岩を支えさせられて、身動きが取れなくなっている。力を発揮する場所を間違えられ、放置された重機のようだ。
『ルーメ』。環境感知と光源を担う個体。
「干からびかけてる。魔力だけでなく、水分も足りていないのか」
ルーメの波長は弱々しく明滅していた。入口層は汚泥で溢れているが、それは有毒な『汚れ』であり、ルーメが生きるために必要な清浄な『湿気』ではない。環境の悪化が直撃し、今にも消え入りそうなロウソクの火のようだった。
最後は『フェズ』。幻惑と気配操作を持つ小型の迷い獣。
「……こいつもシルクスと同じか。いや、もっと悪い」
フェズからは、ヒステリックな警戒心が伝わってくる。泥の音、崩落の余波、あるいは他の弱った魔獣の気配に怯え、常に周囲に幻影を展開して自分の身を隠そうと魔力を垂れ流している。このままでは数時間で魔力切れを起こし、泥に沈むだろう。
五体全員が、ボロボロだった。
誰も万全ではなく、誰も自分の本来の『仕事』ができていない。環境の悪化に翻弄され、ただ生き延びるためだけに無駄なエネルギーを消費し、緩やかに死に向かっている。
「これが現実か」
ユークはゆっくりと目を開けた。
伝説のドラゴンがいれば、汚泥を一息に焼き払い、岩盤を腕力で持ち上げて解決するかもしれない。だが、ユークの手札にあるのは、怯え、飢え、疲れ果てた五体の下級魔獣だけだ。
「だが、お前たちはもう、無意味な生存競争をしなくていい」
ユークは盤面に手を触れ、魔力パスを通じて五体へ『最初の指示』を送った。
明確な言葉ではない。管理者の意思を乗せた、波長による方向性の伝達だ。
『シルクス。糸を広げるな。自分の巣の周囲、半径一メートルだけを残して他は全部切れ』
『モルト。無理に泥を食うな。今は消化に回して、安全な岩陰で休め』
『グラン。支えている岩を少しずつズラして、自分の体を抜け。崩れてもいい』
『ルーメ。光を落とせ。ギリギリの命だけ保って、俺の魔力が届くまで耐えろ』
『フェズ。幻影を解け。今は誰も追ってこない。気配を消すことだけに集中しろ』
それは「働け」という命令ではなく、「休め」「力を抜け」という制限の指示だった。
不安に駆られて無駄な動きをしている彼らに、管理者が責任を持つから今は何もしなくていい、と伝えたのだ。
パスの向こう側で、五体の波長がわずかに戸惑うように揺れた後、急速に落ち着きを取り戻していくのが分かった。無駄な魔力消費が抑えられ、彼らの命の火が細く、だが安定して燃え始める。
「よし。まずはこれでいい」
ユークはリュックから皮装丁の記録帳を取り出し、最初のページを乱暴に破り捨てた。そこにはかつての冒険者時代の未練や、監督院への愚痴が書かれていた。
新しい白紙のページを開き、短い鉛筆で現在の状況と方針を書き込んでいく。
『方針:一、人員(魔獣)は増やさない』
『方針:二、管理区画は広げない』
『方針:三、今ある機能を正常に戻すことだけを優先する』
新しい個体を登録する余裕はない。区画を広げればシステムが自壊する。
欲をかかず、できることを絞る。それが、どん底から物事を立て直す際の鉄則だ。ユークは前職で、欲をかいて崩壊していった迷宮や冒険者を腐るほど見てきた。
「全部は救わない。回るところから戻す」
記録帳を閉じ、ユークは背を向けた。
目の前の巨大な水晶体――コアは、先ほどまでの荒れ狂うような警告光を収め、今は弱々しくも規則正しい緑色の淡光を放ちながら休眠状態に入っている。
当面の間、こいつは放置でいい。
ユークが向かうべきは、中枢ではない。
すべてが壊れ、汚泥に沈みかけている『現場』だ。
彼が最初に通ってきた表の通路。
索敵が死に、汚泥が逆流し、天井が崩落して退路を塞いだあの空間。
あそこは灰環迷宮にとって、人間社会と接続するための唯一の喉首だ。あの入口層の循環と安全を回復させない限り、迷宮に未来はない。
「待たせたな。今行くぞ」
ユークは魔力灯を手に、再び狭く暗い旧保守導線へと足を踏み入れた。
行きとは違う。ただ逃げ込むための道ではなく、現場へ向かうための『出勤経路』だ。
彼の心には、恐怖も高揚感もない。ただ、目の前に積まれた膨大な仕事をどう処理していくかという、実務的な計算だけが静かに回っていた。
歩きながら、ユークは記録帳の隅に、今日なすべき一番最初の目標を短く書き殴った。
『入口層を死なせない』
王立迷宮監督院から追放された落第の保全運用部員が、未登録の崩壊ダンジョンを再生するための、地味で、果てしなく長い仕事が、ここから始まる。




