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第10話 糸で測る

 旧保守導線の狭く冷たい空間を抜け、再び表の通路――崩壊した入口層へと戻ってきたユークの鼻腔を、強烈な腐敗臭と鉱物混じりの淀んだ空気が打った。


 中枢コアで部分的な機能凍結を行い、最低限の魔力流を整えたとはいえ、現場の物理的な惨状がすぐに魔法のように直るわけではない。相変わらず足元の床には灰色の汚泥が這い回り、頭上の岩盤からは不吉な砂がパラパラと落ちてきている。


「……やっぱり、ここは酷いな」


 ユークは魔力灯を掲げ、塞がれた退路の土砂の山を振り返りながら呟いた。


 だが、先ほどまでの「目隠しをして歩かされている」ような絶望感はなかった。仮認証を通じた魔力パスの繋がりが、彼とこの迷宮を確かな糸で結んでいる。


 ユークは口笛を吹くように、魔力パスを通じて特定の波長を鳴らした。


『来い、シルクス』


 数秒後。岩壁の暗がりから、カサカサという微かな音を立てて、灰色の体毛に覆われた手のひらサイズのクモ型魔獣が姿を現した。


 索敵種、シルクスだ。


 中枢から送った『休め』の指示に従い、無駄な糸の展開をやめていたおかげで、出会った時のような干からびた様子はない。体毛には微かな艶が戻り、八本の脚は機敏に動いている。


 シルクスはユークの足元まで来ると、スルスルとズボンの生地を這い上がり、器用に肩の上へと陣取った。


「よしよし。ちゃんと指示通り休んでいたな」


 ユークが指の腹で背中を撫でると、シルクスは前脚を擦り合わせて小さく震えた。嬉しそうにも見えるが、周囲の不安定な環境に対する根強い不安も混ざっている。


「さて、仕事の時間だ。お前の目と耳が、この入口層を死なせないための第一歩になる」


 ユークはシルクスを肩に乗せたまま、泥の浅い場所を選んで歩き始めた。


 最初の課題は、完全に崩壊した『索敵網』の再建だ。


 どこが崩れるか、どこから泥が溢れるか。その予兆を掴めなければ、他の魔獣たちに仕事をさせることすらできない。


「まずは、今の自分の力を試してみろ。周囲の状況を俺に教えてくれ」


 ユークがそう命じると、シルクスは肩からピョンと飛び降り、壁際を素早く駆け上がった。


 そして、体から次々と細い魔力の糸を吐き出し、通路の壁、天井、床の岩角へ向かって放射状に張り巡らせていく。


 あっという間に、半径十メートルほどの空間に、目に見えない無数のセンサー網が構築された。


『……ッ!』


 その瞬間、魔力パスを通じて、ユークの脳内に膨大な量の『振動情報』が流れ込んできた。


 足元の泥が弾ける微細な音。岩壁の奥で水脈が流れる音。数メートル先の天井から小石が落ちる音。さらに遠くで他の魔獣が動く気配。


「ぐっ……ちょっと待て、多すぎる!」


 ユークは顔をしかめ、こめかみを押さえた。


 シルクスの索敵能力自体は非常に優秀だ。しかし、優秀すぎるが故に、環境が最悪な今の入口層では拾うノイズが多すぎるのだ。


 常に大音量で警報が鳴り響いているような状態で、何が致命的な危機で、何がただの環境音なのかの区別がつかない。


 しかも、広範囲に高密度の網を張ったことで、シルクス自身の魔力消費も跳ね上がっている。見れば、シルクスの動きが急激に鈍り、糸の張りが弱くなっていた。


「ストップだ、シルクス。糸を引け」


 ユークの指示で、シルクスはシュンとした様子で張ったばかりの糸を切断し、すごすごとユークの足元へ戻ってきた。


「お前が悪いんじゃない。俺の指示が雑だった」


 ユークはしゃがみ込み、シルクスの前に指を差し出した。シルクスがちょこんと指に乗ると、ユークはそれを目の高さまで持ち上げた。


「いいか、シルクス。索敵網っていうのは、広く張ればいいってもんじゃない。全部を見ようとすれば、本当に大事なものを見落とすし、何よりお前の体が持たない」


 かつて冒険者たちが索敵種を嫌ったのは、「自分たちが近づくのを広範囲の敵に知らせるから」だった。だが、それは自然状態での話だ。


 運用として索敵を使うなら、情報の取捨選択が必須になる。


 ユークは記録帳を取り出し、チョークで岩の壁に簡単な図を描いた。


「俺たちが今知るべきことは三つだけだ。

 一つ、俺たちが歩く『退避路』の安全。

 二つ、崩れるかもしれない『崩落予備線』の軋み。

 三つ、汚泥が逆流してくる『流入点』の圧力変化」


 ユークは図の特定の箇所をチョークで叩いた。


「それ以外の壁のシミや、泥の泡立ち、遠くの虫の足音なんかはどうでもいい。全部見なくていい。この三箇所にだけ、一番強くて感度のいい糸を、一本ずつ、ピンポイントで張れ」


 情報量を絞り、優先順位をつける。


 これが管理者の仕事だ。


 シルクスはユークの言葉と魔力波長を理解したように、八本の脚をバタバタと動かして気合を入れた。


 再びユークの手から離れると、今度は無闇に糸を吐き散らすことはなかった。


 壁際を走り、ユークが指定した『崩壊寸前の天井の亀裂』を跨ぐように、太く強靭な糸を一本だけピタリと張る。


 次に、汚泥がジワジワと染み出している床の割れ目に沿って、もう一本。


 最後に、ユークが通るであろう安全な導線の岩角を繋ぐように、少し長めの一本。


 合計三本。


 たったそれだけの糸の配置。


「……よし。情報を俺に繋げ」


 ユークが魔力パスを開くと、先ほどのノイズの嵐が嘘のように、クリアで静かな情報が脳に届いた。


『亀裂、変動なし』

『汚泥の流入、微増』

『退避路、安定』


「素晴らしい……。これなら俺の脳もパンクしないし、お前の魔力消費も最小限で済む」


 ユークの感嘆の声に、シルクスは誇らしげに前脚を高く上げた。


「だが、まだ終わらないぞ。ここからは『振動の分類』だ」


 ユークは小石を拾い上げ、シルクスが張った糸のすぐ近くの壁に、軽くコツンと当てた。

『コン』という小さな振動がパスを通じて伝わる。


「これはただの石が当たった音だ。無視していい」


 次に、ユークは魔力灯の光を強め、壁の湿り気を炙るようにした。微細な水滴が落ちる感覚。


「これは水の音だ。崩落とは違う。これも重要度は低い」


 ユークとシルクスの二人三脚による、地道なキャリブレーション(調整)作業が続いた。


 シルクスは優れた感覚器を持っているが、「何が危険か」を判断する知能までは持っていない。だから、ユークが管理者として「この揺れは安全」「この軋みは危険」というタグ付けを行っていくのだ。


 これを繰り返すことで、シルクスは単なる「音を拾うマイク」から、危険を知らせる「警報装置」へと進化していく。


 数十分の試行錯誤の末。


 ユークが泥を避けて新しい通路へ進もうと足を踏み出した、その時だった。


『――ッ!』


 パスを通じて、これまでとは全く違う、鋭く不快な振動がユークの脳を突き抜けた。


 シルクスが張っていた『崩落予備線』の糸からの強烈な警告。


 岩の亀裂が、内側の圧力に耐えきれず、ミリ単位で横にズレた音だ。


「下がるぞ!」


 ユークは躊躇することなく、前へ出しかけた足を強く引き戻し、後方へ大きく跳躍した。


 直後。


 彼が数秒後に足を踏み入れていたはずの場所の頭上から、ドゴォン!という重低音とともに、数百キロはあろうかという岩の塊が泥の床に叩きつけられた。


 泥が爆発したように跳ね上がり、通路を汚水で染め上げる。


 もし警告がなければ、間違いなく直撃コースだった。


「……ははっ」


 土煙と泥の飛沫を浴びながら、ユークは思わず短い笑いを漏らした。


 冷や汗が背中を伝うが、それ以上の強烈な安堵感と達成感が胸を満たしていた。


「最高だ、シルクス。完璧なタイミングだった」


 崩落の『現象』が起きるより前に、確かな『予兆』を掴んだのだ。


 視界のない闇夜を歩かされていた状態から、はっきりと足元の危険が見える状態へと、状況が劇的に好転した瞬間だった。


 肩に乗ったシルクスを指で撫でると、シルクスもまた「自分の仕事が役立った」という手応えを感じたのか、満足げに身を震わせた。


「これで、突然死ぬ確率は格段に下がった。見えない死神に怯える必要はもうない」


 ユークは記録帳を開き、入口層の簡単な見取り図を書き込んだ。


 そして、シルクスが糸を張った場所、そして先ほど崩れた場所にチョークで印をつける。


「索敵網の第一段階はクリアだ。次は、この溢れ続ける泥の処理だ。安全が確認できたからには、あいつを叩き起こして仕事場を作るぞ」


 ユークの視線の先。


 崩落箇所を越えた奥の暗がりで、ドロドロの汚泥に半ば沈みながら、グゥグゥと不快な音を立てて丸まっている影があった。


 モルト。


 入口層の致命的な障害である汚泥逆流を解決するための、重要な清掃役の出番だった。

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