第11話 泥を食わせる順番
崩落の土煙が完全に収まると、張り詰めていた通路に再び、じゅるり、じゅるりという粘り気のある音が戻ってきた。
床の亀裂や壁の隙間から絶え間なく押し上がってくる、灰色の汚泥。
それが入口層全体に広がり、足場を奪い、強烈な腐敗臭を撒き散らしている。迷宮の正常な魔力循環と水脈が死んでいる証拠であり、放置すればいずれこの層全体が有毒ガスで満たされるか、泥に棲む凶暴な虫系魔獣の温床となるだろう。
ユーク・フェルドは、チョークで岩壁に『×(崩落危険)』の印を書き込むと、肩に乗るシルクスに短く労いの言葉をかけ、奥の暗がりへと歩を進めた。
魔力灯の光が、泥の浅瀬で丸まっているずんぐりとした影を照らし出す。
体長一メートルほど。オオサンショウウオと巨大なナメクジを足して二で割ったような、分厚い皮膚に覆われた魔獣。
泥食い種、『モルト』だ。
中枢からの『休め』の指示を受け、モルトは泥の流入が比較的少ない壁際で、グゥグゥと低い喉鳴りを響かせながら丸まっていた。
「……ひどい顔色、というか泥色だな」
ユークが近づき、そのぬめりのある背中に手を触れると、モルトは薄く目を開け、鈍い動きでユークの方へ頭を向けた。
敵意はない。ただ、圧倒的な疲労感と不快感が、魔力パスを通じてユークの手に伝わってくる。
「無理もない。お前はただのゴミ箱じゃないからな」
泥食い種は、迷宮内の老廃物や過剰な魔力溜まりを食べて浄化する、生態系における重要な『分解者』だ。
だが、今の入口層の泥は異常だ。水脈の詰まりによって発生した高濃度の魔力残滓、腐敗した他の魔獣の死骸、そして砕けた鉱物の粉末がすべてごちゃ混ぜになっている。
生きるためにそれらを手当たり次第に飲み込んだ結果、モルトは重度の消化不良を起こし、胃もたれで動けなくなっていたのだ。
「食えるものなら何でも食っていいわけじゃない。それに、今のここの泥の全量を、お前一匹で処理するのは物理的に不可能だ」
ユークは泥の海を見渡した。
冒険者なら、魔法で泥を焼き払うか、あるいは避けて通るだろう。
だが、管理者は違う。この泥もまた、迷宮という施設が吐き出している『現象』の一部だ。止めることができないなら、制御し、処理可能な流れに変える必要がある。
「モルト。お前の仕事は『食うこと』だ。だが、これからは俺が『食わせる順番』と『量』を決める」
ユークはリュックを下ろし、周囲の地形を観察した。
まずは、無秩序に広がっている泥の流れを制御しなければならない。
ユークは手頃な大きさの石や、先ほどの崩落で散らばった土砂の塊を拾い集め始めた。
力仕事だ。だが、シルクスの索敵網が「ここは崩れない」と保証してくれているおかげで、足元と頭上に気を取られずに作業に没頭できる。
「よっ、と……」
泥が床全体に広がらないよう、ユークは石と土を使って簡易的な『堰』と『水路』を作っていった。
入口層の床には、わずかな傾斜がある。泥が湧き出す亀裂から、その傾斜に沿って石を並べ、泥の流れを幅三十センチほどの細い一本道に制限する。
泥は石の隙間から多少は漏れ出すが、大部分はユークの作った即席の水路に沿って、ゆっくりと、しかし確実に一定の方向へ流れ始めた。
「よし。これで『散らばった泥』が『ベルトコンベアに乗った処理物』に変わった」
額の汗を拭い、ユークは水路の終点にモルトを誘導した。
モルトはのっそりと動き、ユークが指示した水路の末端に大きな口を開けて陣取った。
「待て。まだ食うなよ」
ユークは水路の上流へ戻り、持参した簡易杖の先で泥をかき混ぜながら、その質を分類していく。
彼の目と鼻、そして前職の知識が、泥の成分を的確に見分けていく。
「こっちのどす黒い部分は、有機系の腐敗泥だ。悪臭の元で、放置すれば疫病の原因になるが、消化は早い。あっちの灰色が強い部分は、砕けた岩盤と魔力が混ざった鉱物泥。硬くて消化に時間がかかる。そして、亀裂の奥から湧いている緑がかった泥は……水脈のよどみで発生した微毒を含んでいるな」
これらを全部混ぜて食わせるから、モルトは胃を壊すのだ。
「まずは、悪臭の元を絶つ。腐敗泥からだ」
ユークは杖を使って、鉱物泥や微毒の泥をせき止め、どす黒い腐敗泥だけを優先的に水路へ流し込んだ。
「食え、モルト」
魔力パスを通じてゴーサインを出すと、モルトは大きな口で、流れてくる腐敗泥をズズズッと吸い込み始めた。
有機泥は柔らかく、モルトの強力な胃液なら容易に分解できる。モルトの喉が波打ち、順調に泥が体内に収まっていく。
「よし、いいペースだ。次は鉱物泥を少し混ぜるぞ。……毒のある部分は、あとで手持ちの水で薄めてからだ」
ユークはまるで、精密な工場のライン長のように、泥の成分を見極め、石の堰を開け閉めして流量と種類をコントロールしていった。
モルトの腹は丈夫だが、それでも限界はある。
泥食い種特有の生態として、一定量の泥を食べると、強力な胃酸で消化・浄化するために深い眠りにつく必要がある。無計画に腹一杯にさせてしまえば、肝心な時に寝こけてしまい、処理ラインが完全にストップしてしまう。
「……そろそろ腹八分目か」
モルトの吸い込む速度が落ち、まぶたが重そうに下がり始めたのを見て、ユークは水路を石で完全に塞いだ。
「ストップ。今日はここまでだ」
モルトは名残惜しそうに口を閉じたが、すぐに強い眠気に襲われたらしく、その場でコロンと横になろうとした。
「そこはダメだ。泥が溢れたら溺れるぞ」
ユークはモルトの鈍い背中を押し、水路から少し離れた、一段高くなっている乾いた岩棚の上へと誘導した。
「ここで寝ろ。消化が終わるまで、起こさない」
岩棚に上がったモルトは、安心したように短く鳴くと、目を閉じて深く規則正しい呼吸を始めた。
モルトの体内で、強烈な魔力と胃酸が働き、取り込んだ汚泥を無害な土砂と澄んだ水へと分解していく作業が始まったのだ。
「食う、休む、排泄する。このサイクルを一定に保つのが俺の仕事だ」
ユークは泥で汚れた手を布で拭いながら、モルトの寝顔を見下ろした。
これで泥の逆流が完全に止まったわけではない。中枢が本格的に復旧しない限り、根本的な水脈の詰まりは解消されないからだ。
だが、状況は確実に変わった。
ユークは深く息を吸い込んだ。
「……匂いが、変わったな」
数十分前まで入口層を満たしていた、あの鼻を突く強烈な腐敗臭。それが、明らかに薄らいでいた。
悪臭の元凶であった腐敗泥を優先的にモルトに処理させた結果、空気の質が一段階引き上げられたのだ。淀んで死にかけていた空気に、わずかながら『呼吸できる余地』が生まれた。
そして、ユークの足元。
モルトが処理しきれなかった泥は、水路をせき止めたことで一時的に水溜まりのようになっているが、その泥の表面に、小さな変化が起きていた。
チョロチョロと、微かな音がする。
岩の亀裂から、泥に混じって、ごく少量の水が染み出していた。
モルトが周囲の魔力残滓を食らい、環境の負荷をわずかに下げたことで、完全に詰まっていた迷宮の毛細血管(水脈)の一部が、息を吹き返したのだ。
泥の表面を、久しぶりに澄んだ水筋が一本、静かに流れていった。
「……上出来だ」
ユークは思わず口元を緩めた。
魔法で一瞬にして綺麗にしたわけではない。石を積み、泥を分け、魔獣の胃袋の具合を調整するという、地味で泥臭い作業の結果だ。
だが、その小さな水筋は、この死にかけた迷宮が再び『循環』という機能を取り戻し始めた、何よりの証拠だった。
「索敵が戻り、泥の処理ラインができた。これで足元と頭上の安全はある程度確保できたが……」
ユークは魔力灯を掲げ、入口層のさらに奥、中枢や旧保守導線へ続く通路の方へ視線を向けた。
暗い。
魔力灯の光が届く範囲はせいぜい数メートル。その先は、物理的な闇と、魔力のよどみが混ざり合った濃密な暗がりが広がっている。
シルクスの糸があれば、見えない危険を察知することはできる。
だが、「見えない」という事実そのものが、活動の大きな制限になる。どこまでが安全な床で、どこからが泥の深い沼なのか。どこを通れば崩落箇所を避けられるのか。
いちいち糸の振動を確認しながら進むのでは、効率が悪すぎるし、いずれこの迷宮を本格的に運用する際、他の者を通すことができない。
「安全な道と、危険な場所。それを一目で『見える化』する必要がある」
ユークは記録帳を取り出し、新しい課題を書き込んだ。
照明ではない。状態を可視化するための装置。
それを担うべき契約個体の波長を、ユークは魔力パス越しに探った。
「起きろ、ルーメ。次は、ここを歩ける道にする仕事だ」
暗闇に沈む入口層に、ユークの静かな声が響いた。




