第8話 仮管理者
ガキィン、という耳障りな金属音にも似た起動音が、広大なドーム状の空間に響き渡った。
ひんやりと冷たかった旧保守導線の空気とは打って変わり、中枢が鎮座するこの空間は、むせ返るような熱と、精製されていない荒々しい魔力の粒子で満ちていた。
空間の壁面に設置された、かつて正式な管理者が状態を確認するために使っていたであろう大型の黒曜石の表示板。それが、ユークの侵入に反応して強制起動し、血のように赤い警告光を放っている。
ひび割れた表示板の表面に、魔力の光が集束し、短い一語が浮かび上がった。
『警告』
言葉を発する人格など、そこには存在しない。
迷宮の心臓たるコアは、自立した意思を持った神や精霊のような便利な存在ではない。与えられた環境維持と防衛というプログラムをひたすらに実行する、巨大な生体演算装置にすぎないのだ。
それが警告を発しているということは、システムが致命的なエラーを起こし、どうにもならない限界点を迎えているという物理的な事実の羅列でしかない。
ユーク・フェルドは、ドームの中央を見据えた。
数メートルはあろうかという巨大な多面体の水晶。それが、灰環迷宮の中枢だった。
だが、その姿はかつて監督院の資料で見たような、神秘的な輝きを放つものではない。表面には無数の亀裂が走り、そこから漏れ出した魔力が、まるで血を流しているかのように赤い光を散らしている。さらに、水晶の下半分は、処理しきれなかった老廃物やエラーの蓄積である、ドロドロとした灰色の不純物に半ば埋もれかけていた。
明滅する光。不規則な脈動。そして、空間全体を震わせる低い地鳴りのような軋み音。
息絶え絶えの巨獣が、最期のあがきで暴れ回っているような惨状だった。
「……ひどい有様だな。よくこれで、今まで完全に崩壊しなかったものだ」
ユークは防壁の残骸を乗り越え、表示板へと近づいた。
警告光を放ち続ける盤面の前に立ち、彼は自らの魔力を薄く手に纏わせて、ひび割れた黒曜石の表面に押し当てた。
「敵対者じゃない。王立迷宮監督院の、元・保全運用部だ。防衛機構を動かそうとするな、お前にもうそんな余力はないはずだ」
ユークが魔力を通して呼びかけると、盤面の文字がノイズ混じりに切り替わった。
『排除』
『……実行不可』
『魔力不足』
『区画1〜12、異常』
『水脈圧超過』
『生態系維持率11%』
『崩壊率89%』
断片的なログが滝のように流れ、コアがいかに絶望的な状況にあるかを訴えかけてくる。人格的な対話は成立しない。だが、この数字とエラーコードの羅列こそが、ユークにとっては何よりも雄弁な「現場の声」だった。
ユークは盤面から伝わってくる魔力の流れを読み取り、迷宮全体のシステムが今どうなっているのかを把握しようと努めた。
そして数秒後、彼は信じられないものを見るような目で、中央のコアを睨みつけた。
「……バカか、お前は」
呆れを含んだ声が漏れる。
迷宮の崩壊率が約九割。水脈は逆流し、魔力は暴走し、入口層を含むあちこちで岩盤が耐えきれずに破裂している。
その原因は、コアの「意固地さ」にあった。
「これだけの致命傷を負いながら、第一区画の入口から最深部まで、全区画の機能を均等に維持しようとしているのか? 足りない魔力を無理やり全体に回そうとするから、圧力が乱れてあちこちで崩落が起きているんだろうが」
コアは愚直だった。
「迷宮全体を維持せよ」という初期の運用規定に従い、死にかけの体に鞭打って、すでに誰もいない深層部や、完全に機能停止した外縁の末端にまで、律儀に魔力と水分を送り込もうとしているのだ。
結果として、全区画が共倒れしようとしている。人間で言えば、全身から血を流しているのに、手足の指先にまで無理やり血を巡らせようとして心臓が破裂しかかっている状態だ。
『規定違反』
『全体維持を優先』
『防衛ライン再構築……失敗』
盤面に虚しい文字が浮かぶ。
「見栄を張るな! 規定なんか知るか!」
ユークは盤面に両手を叩きつけ、自身の魔力を強制的にコアの演算回路へ割り込ませた。
強引なハッキングに近い干渉。支配するための力ではなく、実務屋としての強烈な「指示」だ。
「監督院はもうここを見捨てた。書類上、お前はすでに死んだことになっている。お前を治しに来る奴は外には誰もいない。お前がこのまま規定にこだわって自滅すれば、入口層で必死に生き残ろうとしている魔獣たちも全員泥に沈むんだぞ!」
ユークの魔力が、赤い警告光とぶつかり合い、バチバチと火花のような放電を起こす。
「全部を救おうとするな! 切り捨てろと言ってるんじゃない。後で必ず機能を回復させてやる。だが今は、血を止めるのが先だ」
ユークは盤面を通じて、具体的な運用方針を叩きつける。
それは「止めるな」「減らせ」「負荷を散らせ」という、延命に特化したトリアージ(優先順位づけ)の判断だった。
「今すぐ、深層部と外縁の大半への魔力供給を切れ。最低限の休眠ラインまで落として『一時凍結』しろ。そして残った魔力を、入口層、俺が通ってきた旧保守導線、そしてこの中枢近傍の三点だけに集中させろ。いいか、この三点だけでいい。他は全部忘れろ!」
コアの明滅が激しくなり、ドーム内を赤と青の光が乱舞した。
自己の基本規定に反する「部分放棄」の指示に対し、システムが激しく葛藤しているのが分かる。
『……代替案、照合』
『部分凍結による崩壊遅延率の再計算……』
『区画2〜12、供給低下』
『凍結進行中』
やがて、狂ったように鳴り響いていた中枢の軋み音が、嘘のようにスッと引いていった。
暴走しかけていた魔力流が整理され、迷宮全体の圧力が一気に抜けたのだ。赤い警告光が徐々に落ち着きを取り戻し、盤面の光が淡い緑色へと変わっていく。
「……よし。それでいい」
ユークは深く息を吐き出し、額に浮いた汗を拭った。
これで迷宮全体がすぐに崩壊することはなくなった。だが、あくまで「死にかけていたのが、集中治療室に入った」程度の延命処置でしかない。
本題はここからだ。機能を取り戻すには、現場で動く手足が必要になる。
「次は棚卸しだ。生態系の生き残りはどうなっている? 休眠を免れた入口層周辺で、今すぐ機能可能な個体を出せ」
ユークが要求すると、盤面に微弱な魔力反応のグラフが五つ、ポンポンと浮かび上がった。
種族名ではなく、魔力の波長と特性のデータだ。
一つ目。微細な振動検知と糸の生成能力。崩落現場の裏にいた、あの索敵蜘蛛の生き残りの波長だ。
二つ目。高い消化能力と泥への耐性を持つ、泥食い種の波長。
三つ目。重量と地盤圧着の特性。土木系の魔獣だろう。
四つ目。光源と環境感知。灯苔の変異種か、発光性のスライムか。
五つ目。幻惑と気配操作。小型の迷い獣の波長。
伝説のドラゴンでもなければ、一騎当千の魔神でもない。冒険者が見れば「雑魚」と切り捨てるような、最弱クラスの下級魔獣たちの波長だった。
「たったの五体……」
ユークは盤面を見つめ、そして、フッと口元を緩めた。
「いや、上等だ。五体もいるなら十分回せる。正面切って戦う力は皆無だろうが、入口層を直すための『仕事』は全部こいつらで補える」
ユークは盤面に触れ、自らの魔力を通して彼らをシステム上で「契約個体」として登録する作業に入った。
個体を識別し、明確な役割を与えるための管理名の付与だ。これをしなければ、コアのシステムとユークの指揮が連動しない。
「振動検知の蜘蛛には『シルクス』」
「泥を食って処理する個体には『モルト』」
「地盤を支え、地形をいじる土木個体には『グラン』」
「環境を感知し、光を灯す個体には『ルーメ』」
「幻惑で危険をずらす個体には『フェズ』」
ユークが一つ一つ波長に名を打ち込んでいくと、盤面に五つの光の点が確かな輪郭を持って定着した。
これで彼らは、ただの野良魔獣から、迷宮を維持するための『正規の運用スタッフ』としてシステムに組み込まれたことになる。
「俺が現場でこいつらを指揮して、入口層の環境を安定させる。お前は中枢で、魔力の圧力調整と休眠区画の維持だけに集中しろ。お互い、余計な仕事はするな」
ユークがそう宣言すると、中央の巨大な水晶体が、呼応するように一度だけ大きく脈打った。
コアの表面にこびりついていた灰色の不純物が、魔力の循環が局所的に正常化したことで、パラパラと乾いて剥がれ落ちる。水晶体の奥底に、わずかながら本来の透明な青い輝きが戻っていた。
盤面の文字が、事務的なスピードで次々と切り替わっていく。
『個別権限、確認』
『指定個体5体、システムリンク完了』
『防衛・維持・補修の仮運用を承認』
そして、最後に画面の中央に、静かに一語だけが浮かび上がった。
『仮認証』
正式な管理者としての絶対的な権限ではない。あくまで「今の危機を乗り越えるための、暫定的な現地管理権」だ。
だが、ユークにとってはそれで十分だった。
「さて、契約成立だ」
ユークは盤面から手を離し、背後を振り返った。
自分が通ってきた旧保守導線、そしてその向こうにある崩壊した入口層へと思いを馳せる。
権限は得た。手札も五枚ある。
あとは、この手札をどう配置し、どう回すか。
すべてを救う魔法はないが、一つ一つの現象を観察し、役割を噛み合わせることで、死地は必ず「生きる場所」へと変わる。
「まずは、入口層を死なせないことだ。……忙しくなるぞ」
ユーク・フェルドは、再び魔力灯を手に取ると、崩れかけた防壁の隙間を抜け、果てしない現場の再建へと歩み出した。




