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第7話 旧保守導線

 重い石板を押し込み、わずかに開いた隙間から体を滑り込ませる。


 ユーク・フェルドが背後の石板を再び引き戻すと、ゴツンという鈍い音とともに、外の通路の崩落音や泥の蠢く気配が完全に遮断された。


「……よし、入れたな」


 魔力灯を高く掲げ、ユークは新たな空間を見渡した。


 そこは、冒険者たちが歩くことを前提とした「表の迷宮」とは全く異なる異質な空間だった。


 まず、極端に狭い。大柄な戦士であれば両肩が壁に擦れてしまうほどの横幅しかなく、天井もユークが少し背伸びをすれば頭がついてしまうほど低い。剣を振るう隙間など一切なく、大型の魔獣はもちろん、徒党を組んだゴブリンの群れすらまともに身動きが取れないだろう。


 だが、ユークはこの息苦しいほどの狭さに、確かな『意図』を感じ取っていた。


「見事なまでの合理性だ。余分な空間を削り落とし、岩盤の強度を極限まで保とうとしている」


 迷宮の中を通路としてくり抜けば、当然その分の負荷が天井や壁にかかる。広ければ広いほど崩落のリスクは高まるのだ。


 この旧保守導線は、見栄えや通りやすさなど一切考慮していない。ただ「人間が一人通って、迷宮の血管を点検する」という機能だけを追求し、それ以外の不純物を削ぎ落とした純粋な管理空間だった。


 ユークは魔力灯の光を足元へ落とした。


 表の通路はドロドロの汚泥に沈みかけていたが、ここの床は乾いている。よく見ると、通路の端に沿って浅い溝が真っ直ぐに彫られていた。


「排水逃がし、か。表で水脈が溢れた時、ここが水没しないように最低限の逃げ道を作ってある」


 歩みを進めると、今度は壁に埋め込まれた黒ずんだ金属の支柱が見えた。緊急時に岩盤の歪みを支えるための補強材だ。その横の壁には、当時の保守員が残したのであろうチョークの『負荷記号』が、かすれながらも残っている。さらに少し進めば、点検用の工具や予備の灯りを引っ掛けるための錆びた留め具が、等間隔で壁に打ち込まれていた。


「……丁寧に造られている」


 ユークは思わず、その冷たい岩壁を指先で撫でた。


 一般の冒険者は、迷宮を「神が創った試練の場」や「自然発生した宝物庫」だと信じて疑わない。そして、そこにあるすべてを敵か資源としてしか見ない。


 だが、現場で裏方として働いてきたユークには分かる。この無愛想な通路のあちこちに、かつてこの場所を設計し、維持しようと汗を流した先人たちの『保守思想』が息づいているのが。


 水が溢れるかもしれないから溝を掘る。


 岩盤が鳴るかもしれないから支柱を入れる。


 後任が迷わないように記号を残す。


 彼らは、迷宮を攻略するのではなく、共に生き、管理しようとしていたのだ。


「お前たちも、ここを死なせたくなかったんだな」


 誰にともなく呟いたユークの胸の内に、不思議な安堵感が広がっていた。


 ここは危険な未開の地ではない。かつての同業者たちが、自分と同じように「迷宮を維持する」という目的のために造り上げた仕事場なのだ。


 さらに奥へと進むにつれ、ユークは自分が完全に孤立しているわけではないことに気づいた。


 壁の継ぎ目や、足元のわずかな窪みに、微かな緑色の淡光が点在している。

灯苔ひかりごけ』だ。


「生きているのか……」


 迷宮の魔力を養分として微発光するこの苔は、環境の悪化に極めて弱い。表の入口層では、汚泥と魔力循環の不全によって完全に死滅していた。


 それが、ここでは微かとはいえ光を保っている。つまり、この旧保守導線には、まだ中枢コアからの魔力が細い糸のように繋がり、供給され続けている証拠だった。


 そしてもう一つ、ユークの目を引くものがあった。


 灯苔の近く、壁と天井の隅に、細い一本の糸がピンと張られていたのだ。


 魔獣の放った糸。だが、これは獲物を捕らえるための網ではない。振動を検知するための、索敵種の張った警戒糸だ。


 ユークはそっと指を近づけたが、すでに蜘蛛の姿はなく、糸自体も魔力を失って乾燥しきっていた。何年も、あるいは何十年も前に張られた古い残骸だ。


 だが、重要なのはそこではない。


「……糸が、緩んでいない」


 ユークは目を細めた。


 もしこの空間の岩盤が数ミリでも歪んだり、壁が沈み込んだりしていれば、この乾燥した糸は自重や張力の変化でとうの昔に切断されているはずだ。


 それが、張られた当時のままのピンとした状態を保っている。


 すなわち、この一本の糸が切れていないという事実そのものが、「この区画は過去から現在に至るまで、地形的な崩落や変動を一切起こしていない」という何よりの安全証明を果たしていたのだ。


「索敵種の糸を、地盤の定点観測に使っていたのか。……俺と同じことを考える奴がいたらしい」


 モンスターの役割を戦闘ではなく「環境の監視」として運用する。その思想の痕跡に、ユークは口元を少しだけ緩めた。


 完全に死んだわけではない。機能不全に陥りながらも、この迷宮はギリギリのところで首の皮一枚繋がっている。


 歩行の速度を少し上げ、さらに深く潜っていく。


 やがて、狭い通路がわずかに広がり、小さな中継部屋のような空間に出た。


 壁には無数の配管のような溝が走り、その中心に、一枚の石板が埋め込まれていた。表面には魔力伝導率の高い鉱石が幾何学模様に埋め込まれている。


『管理盤の残滓』だ。


 かつてはここで、各区画の魔力圧や水量を監視していたのだろう。今は表面に分厚い埃が積もり、何の光も発していない。ただの冷たい石の塊だ。


 ユークは立ち止まり、袖でその埃を丁寧に払い落とした。


 そして、手袋を外し、素手を石板の中央に押し当てる。


「中枢よ。まだ繋がっているなら、応えろ」


 静かな声と共に、ユークは自身の魔力をほんのわずかに、しかし明確な意思を持たせて石板へ流し込んだ。


 支配するための暴力的な魔力ではない。扉をノックするような、問い合わせの波長。


 数秒の沈黙。


 やはり完全に死んでいるか、とユークが手を離そうとした、その時だった。


 ――ジッ……。


 微小な魔力放電の音とともに、石板の表面に埋め込まれた鉱石の一部が、脈を打つように赤い光を放った。


 起動には至らない。だが、間違いなくユークの魔力に反応し、奥底にある『何か』が痙攣するように応答を返したのだ。


「……生きている。間違いない、中枢はまだ死に絶えていない」


 ユークの目に強い光が宿った。


 完全に機能停止した迷宮であれば、盤面が反応することはない。この赤い光は、瀕死の重傷を負いながらも、必死に助けを求めている迷宮の脈拍そのものだった。


 ユークは再び歩き出した。


 ここから先は、もう探索ではない。駆けつけるべき現場への急行だ。


 空気の密度が明らかに変わっていく。


 冷たく乾いていた空気に、重く、ざらついた魔力の粒子が混ざり始めた。呼吸をするたびに、肺の奥がチリチリと焼けるような感覚がある。精製されていない、迷宮の生の魔力が漏れ出しているのだ。


 耳を澄ませば、地鳴りにも似た低い唸り声のような音が、岩壁の奥から絶え間なく響いてくる。


 やがて、ユークの前に巨大な障害物が立ち塞がった。


 通路を完全に塞ぐように設置された、分厚い金属と石の複合防壁。中枢のすぐ手前に設けられた、魔獣の暴走や外敵からコアを守るための最終防衛線だ。


 だが、その防壁は無残な姿を晒していた。


 外からの攻撃によるものではない。内側から、とてつもない圧力でひしゃげ、ひび割れ、一部は溶解すらしている。


 コア自身の魔力暴走、あるいは循環不全による圧力の逆流が、自らを守るはずの壁を内側から破壊してしまったのだろう。


「……どれだけの負荷を、たった一つで抱え込んでいたんだ」


 ユークは崩れかけた防壁の隙間に体を滑り込ませた。


 隙間を抜けた先。そこは、これまでの狭い通路が嘘のように開けた、広大な円筒形のドーム状空間だった。


 ここが、灰環迷宮の心臓部。


 空間の中央には、巨大な水晶体のような『迷宮核コア』が鎮座しているはずだった。


 だが、ユークの目に飛び込んできたのは、ひび割れ、本来の輝きを失い、ドロドロとした灰色の不純物に半ば埋もれかけた、巨大な石塊の姿だった。


 その表面には、明滅する光の帯が不規則に走り、今にも完全に砕け散りそうなほどの痛々しい軋み音を立てている。


 ユークが一歩、その空間へ足を踏み入れた瞬間だった。


 中枢の入り口の壁面、かつて正式な管理者が状態を確認するために使っていたであろう大型の表示板が、ガキィン!と甲高い音を立てて強引に起動した。


 赤い、血のような警告光が空間全体を染め上げる。


 そして、ひび割れた表示板の表面に、魔力の光が集束し、短い一語だけが強烈に浮かび上がった。


『警告』


 言葉を発する人格も、状況を説明する余裕も、今のコアには残されていない。


 それは、死の淵に立つ巨大な施設が振り絞った、最期の悲鳴だった。

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