第6話 塞がれた帰り道
ユーク・フェルドは、つい数秒前まで自分が歩いてきた「帰り道」だったものを、ただ静かに見つめていた。
床から天井まで、およそ数十トンは下らないであろう巨大な岩盤と土砂が、隙間なく通路を埋め尽くしている。素手で掘り返せるような量ではないことは一目瞭然だった。仮に強力な爆発魔法を使える魔術師がいたとしても、下手に衝撃を与えれば、脆くなっている天井全体が連鎖的に崩れ落ちてくるだけだ。
完全に、物理的に分断された。
「……見事なもんだな」
ユークの口からこぼれたのは、絶望の叫びではなく、ひどく乾いた自嘲だった。
迷宮探索において「退路を絶たれる」ことは、死に直結する。特に、索敵網が死に絶え、いつどこから汚泥が逆流し、天井が落ちてくるか分からないこの灰環迷宮の入口層においては、その意味合いはさらに重い。
有能なレスキュー隊が駆けつける可能性など皆無。ここはすでに王立迷宮監督院から「完全停止」の烙印を押され、見捨てられた未登録の野良ダンジョンなのだ。
常の冒険者であれば、パニックに陥ってもおかしくない。塞がれた壁を叩いて指から血を流すか、あるいは恐怖から逃れるように奥の暗闇へと無計画に走り出してしまうだろう。
だが、ユークはどちらの行動も取らなかった。
彼はゆっくりとその場に座り込むと、深く息を吐き、そして吸い込んだ。土埃が喉を刺激したが、気にせず肺の奥まで空気を入れる。
「焦っても岩は退かない。まずは現状の整理だ」
監督院の保全運用部で長年培った職業病とも言える癖が、極限状態の中で彼を冷静に保たせていた。ユークは背負っていたリュックを下ろし、手持ちの物資――自分の命をつなぐ『資源』の棚卸しを始めた。
「水は水筒に半分。三日は持たないが、二日なら切り詰めればいける。携行食糧は干し肉が数切れと、硬パンが一つ。これも腹の足しにはなるが、長期戦の備えじゃない」
呟きながら、足元に広げた布の上に手持ちの道具を並べていく。
「魔力灯の出力は安定しているが、予備の魔力石はない。俺自身の魔力でどこまで補填できるか。……武器は護身用の短剣が一本と、簡易杖。魔獣との正面戦闘になれば、良くて相打ち、悪ければ一瞬で肉塊だ。あとは、縄代わりになる補修用の丈夫な布が数メートル、記録帳、予備のチョーク」
並べ終えた物資を見て、ユークは現状の厳しさを正確に数値化した。
戦って切り抜けるための装備ではない。そもそも彼は討伐適性を持たない、現場の裏方なのだ。この貧弱な装備で未知の迷宮を奥へ進むなど、自殺行為に等しい。
しかし、後ろへは戻れない。
ユークは記録帳を開き、書き留めることで思考を視覚化し、恐怖の入り込む隙間を埋めていった。
『一、三次崩落による圧死の危険(極大)』
『二、汚泥の逆流による有毒ガス・足場喪失(大)』
『三、迷宮内の未知の魔獣との遭遇(中)』
『四、食料と水の枯渇(小・猶予あり)』
優先すべきは、一と二だ。特に崩落は予測がつかない。だが、なぜ予測がつかないのか。
ユークは顔を上げ、魔力灯の光で塞がれた岩壁を照らした。
「……不自然な崩れ方だ」
ただ地盤が老朽化して落ちたのなら、もっと細かい土砂が混ざるはずだ。だが、ここを塞いでいるのは、元々どこかの区画を支えていたような巨大な一枚岩の破片だった。
「圧力が偏っている。それも、下から上、あるいは内から外へ向かって、強烈な魔力か水圧の乱れが岩盤を押し剥がしたような……」
複合型ダンジョンである灰環迷宮は、鉱脈型の坑道と水脈型の湿路が複雑に絡み合っている。本来なら、迷宮の中枢にあるコアが魔力と水分を適切に循環させ、全体のバランスを保っているはずだ。
その循環システムが、どこかで致命的に詰まっている。行き場を失った圧力が、弱い岩盤を内側から破壊し、崩落という形で表面化しているのだ。
「自然崩落じゃない。これは『配管の破裂』だ。だとすれば、この周辺の岩盤はすべて破裂の予備軍ということになる」
ここに留まれば、いずれまた頭上から岩が降ってくる。かといって、正規のルートを奥へと進めば、行き場を失った汚泥の逆流に飲み込まれるか、狂乱した魔獣の群れに遭遇する確率が高い。
進むことも、戻ることも、留まることも死を意味する。
ユークは立ち上がり、魔力灯を手に壁際を歩き始めた。
視線を床から壁、そして天井へと這わせる。彼の目は、敵を探す剣士の目ではない。構造物の継ぎ目、材質の変化、そして『造り手の意図』を探る管理者の目だった。
正規ルートがダメなら、別の道を探すしかない。
「迷宮が完全に自然発生したものならお手上げだが、ここは違う。かつて人間が干渉し、あるいは迷宮自身が機能として『管理するための道』を造った痕跡があるはずだ」
監督院の古い資料が正しければ、灰環迷宮には採掘や生態調査のために、かつて多くの人間が出入りしていた時期がある。そして、どんな施設にも必ず「表の通路」とは別に、保守点検のための「裏道」が存在する。
ユークは岩壁の表面を手で撫でながら、微かな違和感を探った。
苔の生え方、湿気の染み出し方。そして、崩落の影響で表面の土が剥がれ落ちた壁の一角に、それはあった。
「……傷じゃない。文字か?」
魔力灯を近づけると、石を削って作られた小さな刻印が浮かび上がった。冒険者が迷わないために残すような、矢印や記号ではない。
円の中に、直線と点が組み合わさった幾何学的な模様。一般の人間が見れば、ただの古代文字か、魔獣の引っかき傷にしか見えないだろう。
だが、ユークはその刻印の意味を知っていた。
「王立迷宮監督院、旧式第六種……『保守用支柱・負荷逃がし』の標識」
ユークの声が、微かに震えた。
間違いない。それは、彼が前職で何度も目にし、自らも削り込んだことがある、迷宮保守員のための共通言語だった。
「こんなところに残っていたのか。……いや、違う」
ユークは刻印の向きと、周囲の岩の継ぎ目を確認した。
「この標識は、単なる注意書きじゃない。保守員が、緊急時に別の区画へ逃げるための、あるいは点検用の狭い通路の『入り口』を示すものだ」
保守導線。
それは、迷宮の正規ルートに並行して走る、あるいは各区画を最短距離で結ぶ、人間が管理のために無理やり通したか、迷宮がそれに同調して形成した裏道だ。一般の冒険者は絶対に見つけられないし、見つけたとしても狭く、暗く、魔獣も寄り付かないような無愛想な空間であるため、入ろうとはしない。
だが、今のユークにとっては、これ以上ない生存への希望だった。
「戻れないなら、進むしかない。だが、表のルートは死の罠だ。なら……裏から回る」
ユークの頭の中で、論理のパズルがカチリとはまった。
退路が塞がれた今、彼が目指すべきは出口ではない。迷宮の異常の根源であり、すべてのシステムを統括する場所――『中枢』だ。
そこへ到達し、この狂った循環システムに何らかの干渉を行わない限り、遅かれ早かれ自分は死ぬ。この保守導線がどこへ繋がっているかは分からないが、少なくとも、崩落の危険が連鎖する表の通路よりは、保守のために強固に造られているはずだ。
「やるしかないな」
ユークは短剣を抜き、刻印のすぐ横にある、一見するとただの岩の亀裂に見える隙間に刃を差し込んだ。
監督院の古い規定では、保守通路の入り口は、外からの物理的干渉や魔獣の侵入を防ぐため、巧妙に偽装された石板で塞がれていることが多い。
刃先が、硬い岩とは違う、わずかな『隙間』の感触を捉えた。
「ビンゴだ」
テコの原理を利用して体重をかけると、ゴキリという重い音とともに、壁の一部と思われていた長方形の石板が、内側へ向かってズレた。
長年の埃と湿気で癒着していた石板を、ユークは全身の力を振り絞って押し込んだ。
人間が一人、体を横にすればようやく通れるほどの、暗く狭い穴がぽっかりと口を開けた。
穴の中から吹き出してきたのは、表の通路のような腐敗臭の混じった淀んだ空気ではない。ひんやりと冷たく、わずかに乾いた、長い間密閉されていた『古い空気』だった。
「……空気の通り道は生きている。完全には死んでいない」
ユークは額の汗を拭い、リュックを背負い直した。
迷宮は彼を殺そうとしている。だが同時に、かつてこの場所を管理しようとした先人たちの痕跡が、彼に生き残るための道を提示していた。
「行くぞ」
己に言い聞かせるように呟き、ユークは狭い穴の中へ身を滑り込ませた。
背後で、再び遠くの岩盤が崩れる鈍い音が響いたが、彼はもう振り向かなかった。
前へ。中枢へ。
冷たい石の壁に両肩を擦りながら進むユークの視界の先。
割れた壁の奥深くから、完全に停止したはずの迷宮がまだ脈打っている証拠のような、かすかな淡い光が瞬いていた。




