第81話 査察は配分を見に来る
監督院の一団は、昼前に灰環前砦へ着いた。
先頭の査察官は、ヴェッセルと名乗った。痩せた中年の男で、物腰は丁寧だったが、目だけが、挨拶のあいだも前砦の造りを端から端まで測っていた。後ろに、記録係と、立会人の役人が二人。物々しくはないが、慣れた一団だった。
「危険な野良ダンジョンと聞いて来ましたが」とヴェッセルは、整えられた受付を見回して言った。
「ずいぶん、片付いていますね。受付があり、利用規則の掲示があり、台帳もある。話に聞いていた『無管理の穴』とは、だいぶ違う」
「中も、見てもらっていい」とユークは言った。
「隠すものはない。だが、案内はこっちでつける。勝手に歩かれて、事故られても困る。これは、安全のためだ」
「結構です」とヴェッセルは、薄く笑った。
「案内、ありがたく」
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査察は、入口から始まった。
ヴェッセルは、第一層の退避線や、危険区画の表示を、一通り見て回った。事故記録の有無を確かめ、防衛機構の状態を立会人に書き取らせた。だが、その足どりは、明らかに、どこか先を急いでいた。安全の確認を、義務として済ませているような歩き方だった。
そして、地下へ降りる分岐に来たとき、ヴェッセルは、迷わず一方を選んだ。
第五沈殿槽――配分槽のある方角だった。
「そちらの安全は、まだ説明していないが」とユークは言った。
「結構です」とヴェッセルは、足を止めずに言った。
「そちらより、奥の沈殿槽を、先に。あれが、地域へ水を配っている設備、と認識していますが。間違いありませんか」
ユークは、内心で、エルリオの文を思い出した。査察役の関心は、防衛でも入口でもなく、配分槽に向かう。その通りだった。ヴェッセルは、安全の確認に来たのではない。配分の機能を、自分の目で確かめに来ていた。
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配分槽の前で、ヴェッセルは、しばらく動かなかった。
幾筋にも枝分かれした流路と、それぞれの行き先へ静かに水を送る仕組みを、食い入るように見ていた。記録係に、流路の数と、おおまかな配分先を書き取らせた。
「これは……想像していたより、大きい」とヴェッセルは、低く言った。
「単なる排水ではない。複数の行き先へ、量を変えて配っている。これを、あなたが、制御しているのですか」
「灰環が配ってる」とユークは言った。
「俺は、その配り先と量を、決める手伝いをしてる。維持に要る分、地域に回す分、余った分。三つに分けて、記録に残してる。全部、そこのミレアが台帳にしてある」
ミレアが、すかさず台帳を開いて見せた。
「配分先と量、その日の水質、誰の申請でどれだけ動かしたか。すべて、日付つきで残っています」と彼女は言った。
「クルン村の飲用分は、生活必須として最優先。商人との取引は、余剰分だけ、公開記録で契約。独断では、一滴も動かしていません」
ヴェッセルは、台帳の几帳面さに、わずかに眉を動かした。元同僚の仕事だと、彼は気づいただろう。だが、それには触れなかった。
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ルーメの光が、流路の上で、静かに脈を打った。
配分の魔力流が、今この瞬間も、乱れなく各方向へ流れている。ルーメの可視化は、それが放置された残骸ではなく、現に制御下にあって動いている設備だと、誰の目にも分かる形で示していた。シルクスの糸は、査察団の動線に薄く張られ、誰がどこへ手を伸ばしたかを、ユークの側だけが把握していた。
「事故は、出ていません」とミレアが言った。
「配分を再開してから、クルン村の井戸は濁りが引き始めました。これは、村の証言も取ってあります。私的に握って利を貪っているのではなく、止まっていたものを、地域へ戻している。記録が、それを示しています」
ヴェッセルは、立会人に何かを書き取らせながら、ぽつりと言った。
「重要な地域インフラを、制度の外の者が運用している。本院の言い方では、そうなります」
「制度の外でも、井戸は戻った」とユークは言った。
「台帳にない、と言うなら、それはそっちの台帳の話だ。配られた水は、現にある。村の証言も、記録もある。それは、欄がないからって、消せるものじゃない」
ヴェッセルは、すぐには言い返さなかった。反論を探しているというより、何かを、内側で量っているような沈黙だった。
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やがて、ヴェッセルは、別の角度から手を伸ばしてきた。
「運用記録は、よく分かりました」と彼は言った。
「では、その配分を、最終的に誰が止め、誰が量を決めているのか。その権限の、現在の所在を。記録ではなく、制御そのものを、確認させてもらえますか。本院の照会の、核心はそこです」
ユークは、首を横に振った。
「記録は、全部見せた」と彼は言った。
「何を、いつ、どれだけ配ったか。隠してない。だが、配分を最後に握ってる手そのものは、見せない。それを渡したら、明日から、誰がクルン村の水を止めるかを、あんたの本院が決めることになる」
「私的運用を、認めろと」とヴェッセルは言った。
「逆だ」とユークは言った。
「制御を握ってるからこそ、優先順位を守れてる。生活の分は売らない。余った分だけ取引する。その線を引いてるのは、コアの仮認証で動いてる、この場の判断だ。それを台帳の都合で外部に移したら、線そのものが、金や権限で動くようになる。見せる記録と、渡さない制御。そこは、分ける」
ミレアが、静かに補足した。
「照会の項目は、開示できるものと、運用の根幹に関わるものに、こちらで仕分けてあります」と彼女は言った。
「実績・規則・水質は、すべて開きます。ですが、コアの認証の中身と、配分の最終調整権は、安全と地域への責任を負う現地が保持する。それが、私たちの回答です」
ヴェッセルは、その線引きを、しばらく咀嚼していた。元監督院の人間が引いた線だと、彼には分かっていただろう。崩しにくい、と顔に書いてあった。
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査察が終わりに近づいたころ、ヴェッセルは、配分槽の奥の棚に、目を留めた。
エルリオが「上位閲覧限定」の印を見つけた、あの旧記録の棚だった。ヴェッセルは、その印を、しばらく見ていた。初めて見る者の顔ではなかった。むしろ、見知ったものを確かめるような、静かな目だった。
「これは」とユークは言った。
「閲覧制限の、古い記録だ。俺たちにも、中身は読めない。あんた、それが何か、知ってるのか」
「……さあ」とヴェッセルは言った。
答えになっていない答えだった。彼は、棚から目を離し、何事もなかったように、立会人へ向き直った。
「査察は、ここまでとします」と彼は言った。
「運用は、聞いていたより、整っている。報告には、そう書きましょう。ただ――この設備の扱いについては、本院で、改めて協議が要る」
一団が引き上げていくのを、ユークは前砦の入口で見送った。
査察そのものは、悪くなかった。記録と実績で、私的運用という絵は、ひとまず描かせなかった。だが、ヴェッセルが最後にあの棚を見た目が、頭から離れなかった。あの男は、閲覧制限の記録が何なのかを、知っている。知っていて、知らないふりをして、帰っていった。
「ザグレス」とユークは、横にいた男に言った。
「あの査察官、配分槽を初めて見た顔じゃなかった。あの棚の中身を、たぶん、知ってる」
「だろうな」とザグレスは言った。
「だとしたら、面倒だぞ。知ってて放置されてた価値ってのは、いつか必ず、知ってた誰かの落ち度になる。向こうは、それを隠したいか――先に、握り直したいか。どっちにしろ、ただの査察じゃ、終わらねえ」
街道の先で、監督院の意匠が、坂を下って小さくなっていった。配分は誰のものか。その問いに、灰環は実物で答えた。だが、向こうは、その実物の値打ちを、たぶん、最初から知っていた。




