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第80話 誰のものでもない、という穴

 ミレアの予感は、思っていたより早く、形になった。


 モルガンとの一件から数日後、ラスティアの定期便に紛れて、一通の書面が灰環前砦へ届いた。封の蝋に、見覚えのある印が押されていた。王立迷宮監督院。ユークを追放した、あの組織の印だった。


 ミレアが封を切り、中の文面に目を走らせて、表情を硬くした。


「来ました」と彼女は言った。


「灰環迷宮の、管理実態の照会です。差出は、監督院の運用監査部。わたしが、いた部署です」


「照会、ってのは」とユークは聞いた。


「形の上では、ただの問い合わせです」とミレアは言った。


「未登録のダンジョンについて、安全と管理の状況を確認したい、と。文面だけ読めば、丁寧な確認です。でも――」


 彼女は、書面の一点を指でなぞった。


「この問いの並びが、おかしい」


---


 ユークは、ミレアの隣で文面を読んだ。


 照会は、いくつかの項目に分かれていた。立ち入りの安全、事故の有無、防衛機構の状態。そこまでは、確かに「危険な野良ダンジョンの確認」らしい問いだった。だが、項目の後ろに行くほど、問いの色が変わっていった。


「迷宮が周辺地域へ供給している水・資材の量と、その配分先の一覧」とユークは、読み上げた。


「配分を、誰が、どの権限で、決定しているか。配分機能の制御権の、現在の所在」


「ここです」とミレアが言った。


「安全の確認なら、防衛と事故で済む。なのに、項目の半分が、配分のことを聞いている。それも、量や先じゃなく――誰が決めているか、です。安全を心配しているんじゃない。配分を、誰が握っているかを、知りたがっている」


 ユークは、しばらく書面を見つめた。


 灰環の配分機能が見えてきたのは、ついこのあいだのことだ。第五沈殿槽が配分槽だと分かり、枝をたどり、ハウル坑区まで繋がっていると確かめた。その価値が、もうラスティアの商人にまで漏れている、とザグレスは言った。漏れた先は、商人だけではなかったのだ。


「価値が、見えたんだ」とユークは言った。


「灰環が、ただの危険な穴だったうちは、誰も照会なんてよこさなかった。配分の機能が見えた途端、これだ。安全の確認は口実で、本当は――放置できない資産になったから、回収しに来た」


---


 その夜、エルリオから、別便で短い文が届いた。


 監督院の内部に、まだ残っている後輩。表立っては動けないが、旧記録や内部の温度感を、慎重に流してくれる、数少ない味方だった。


 文は、要点だけだった。照会は、現場の安全担当が出したものではない。配分機能の存在を知った上層が、急いで出させたものだ。部署では「未管理の重要インフラを、無資格者が私的に運用している」という言い方がされ始めている。そして――近いうちに、ただの書面では終わらせず、現地を直に確かめる動きになる。


「無資格者の、私的運用」とユークは、その一語を繰り返した。


「言い方を、うまく選んでくる」


「ええ」とミレアは、苦い顔をした。


「あなたは、コアから仮管理者として認められています。でも、それは監督院の制度の中には、ない立場です。コアが認めた、と言っても、あの人たちの台帳には、その欄がない。台帳にない以上、向こうの理屈では、あなたは『勝手に居座っている無資格者』になる」


「灰環は誰のものでもない」とユークは言った。


「モルガンは、それを『だから先に金を積んだ者が得をする』と使った。監督院は、同じ言葉を、『だから正式な機関が管理すべきだ』と使ってくる。誰のものでもない、ってのは――こういう穴なんだな。誰でも、自分のものだと言い張れる」


---


 ザグレスは、壁にもたれて話を聞いていた。


「で、どうする」と彼は言った。


「昔のお前なら、門前で追い返す手もあった。第一層を死なせない迷宮にしたとき、最初の役人を入口で突っぱねただろう。同じことを、もう一回やるか」


「それは、もう効かない」とユークは言った。


「あのときは、相手が現場を見もせずに、危険だ閉鎖しろ、と言ってきただけだった。だから、現場を見せて黙らせられた。でも今度は、相手は灰環に価値があると分かってて来る。追い返したら、『無資格者が査察を拒んだ、やはり隠している』と書かれて終わりだ。門前払いは、向こうに口実をやるだけになる」


 ザグレスは、少し意外そうに眉を上げた。


「ずいぶん、丸くなったな」と彼は言った。


「丸くなったんじゃない」とユークは言った。


「相手の手が、変わっただけだ。力で押してくる相手は、現場の壁で止められる。でも、制度で来る相手を、現場の勢いで追い返すと、その勢いが、向こうの理屈の燃料になる。だから――今度は、こっちも、向こうの土俵で受ける」


---


「記録と、実績だ」とユークは、ミレアを見て言った。


「灰環の配分が、事故なく、地域へ回ってる。それを、勢いじゃなく、紙で示す。誰が困ってて、何をどれだけ配って、結果どうなったか。クルン村の井戸が戻り始めたこと。モルガンとの契約を、独占させず、公開記録で結んだこと。全部、台帳にある」


「それなら、組めます」とミレアの目に、ようやく光が戻った。


「わたしが、いちばん得意なところです。照会の項目に、一つずつ、記録で答える。配分を誰が決めているか、と聞かれたら――『一人の独断ではなく、維持分・地域分・余剰分に分け、公開記録に基づいて運用している』と、その規則ごと見せる。隠すから怪しまれる。全部見せれば、私的運用ではなく、制度として回っていると示せます」


「それでいこう」とユークは言った。


「向こうは、無資格者が勝手にやってる、という絵を描きたい。なら、こっちは、無資格でも、制度より丁寧に回してる、という実物を、机に並べる。コアの認証は、向こうの台帳にはない。だが、井戸が戻った村は、ある。配られた水は、ある。それは、誰にも消せない」


 ミレアは頷き、さっそく照会の項目を、回答できるものと、慎重に扱うべきものに、仕分け始めた。配分の実績や利用規則は、堂々と開く。だが、コアの仮認証の中身や、配分の最終的な調整をどう握っているかは、簡単には渡さない。見せる記録と、守る制御。その線を、一項目ずつ引いていった。


---


 仕分けが半ばまで進んだころ、シルクスの糸が、外縁で一度、細かく震えた。


 ルーメの光が、それに応えて、入口方向へにじんだ。誰かが、街道を前砦へ向かってくる。だが、商人の足取りでも、村人の足取りでもなかった。隊列を組んだ、慣れた歩き方。


 ほどなく、前砦の物見から、声が上がった。監督院の意匠を掲げた一団が、街道の先に見えた、と。


 ユークは、仕分けの途中の記録を、卓の上で揃え直した。書面の照会に、紙で答える準備をしていた矢先に、相手は、紙より先に、足で来ていた。


「照会の返事を、待つ気はない、ってことか」とユークは言った。


 ミレアが、届いたばかりの別の一枚を、卓に置いた。先触れの通告だった。現地確認のため、立会いのもとで査察を行う――そう、短く記されていた。


「来ます」とミレアは言った。


「机の上の話じゃ、なくなりました。あの人たちは、配分槽を、自分の目で見に来ます」


 ユークは、街道の先に揺れる意匠を、しばらく見ていた。


 逃げも、隠しもしない。だが、何でも見せるわけにもいかない。査察役が真っ先に向かうのは、防衛でも入口でもなく、配分槽だろう。エルリオの文も、ザグレスの読みも、そこを指していた。見せる配分の実績と、渡さない配分の制御。その境目に、向こうは、まっすぐ手を伸ばしてくる。


「シルクスを、外縁に厚く張る」とユークは言った。


「誰がどこへ入ったか、全部、見えるようにしておく。隠すためじゃない。こっちが、全部把握した上で迎えてる、と分からせるためだ。査察は、受ける。ただし、灰環の土俵で、受ける」


 契約個体たちが、静かに配置へ動き始めた。書面で来た問いに、ユークは足で来た相手で答えることになった。配分は誰のものか――その問いを、今度は、向こうが手に握って、坂を上ってくる。

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