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第79話 枠を金で買えるか

 灰環前砦に戻った翌日、モルガンは約束の刻限よりも早く来ていた。


 乾物と資材を扱うラスティアの商人だった。身なりは派手ではないが、革袋の口を縛る紐の結び方まで無駄がない。商いの場数を踏んできた手だ、とユークは思った。


「単刀直入に言います」とモルガンは卓に革袋を一つ置いた。


「灰環の水と資材が、これから安定して回ってくる。その枠を私に恒久で確保させてほしい。額はそちらの言い値に近いところまで出します」


「恒久で」とユークは聞き返した。


「ええ」とモルガンは頷いた。


「毎度申請して、その都度いくらでは、商いの計画が立たない。先に枠を押さえておきたい。早く手を挙げた者が得をする。商いとはそういうものでしょう」


---


 ミレアが記録帳を開いて、既存の契約と並べた。


「今、灰環前砦の利用は採集枠と、配分恩恵枠を分けて運用しています」と彼女は言った。


「採集枠は迷宮の外縁で素材を採る権利。配分恩恵枠は迷宮が地域へ回している水や資材の分け前を受け取る枠です。モルガンさんが求めているのは、後者ですね」


「そうだ」とモルガンは言った。


「水と資材が安定して来る。それが欲しい」


 ユークはしばらく黙っていた。


 昨日見たばかりのハウル坑区の乾いた水路が頭から離れなかった。配分の枝が一本死んだだけで、街が一つ枯れた。あの分け前は誰かが恒久で押さえていたから、止まったわけではない。だが、もし今、配分恩恵枠を一人の商人に丸ごと売り切れば、結果は同じことになる。


「枠を恒久で売ることはできない」とユークは言った。


---


「なぜです」とモルガンは声を荒げはしなかったが、目を細めた。


「金は出す、と言っている。灰環は国の迷宮でも、誰かの持ち物でもない。野良の迷宮だ。先に金を積んだ者が分け前を得る。それのどこが間違っている」


 その問いはまっとうだった。だからこそ、ユークは慎重に答えた。


「間違ってはいない」とユークは言った。


「あんたの言う通り、灰環は誰のものでもない。でも、だからこそ誰か一人のものにもできない。配分恩恵枠を恒久であんたに売ったら、その水と資材はあんたのものになる。来年も再来年も。じゃあ、その分が今まで流れてた先はどうなる」


「今まで流れてた先とは」とモルガンが聞いた。


「クルン村だ」とユークは言った。


「井戸が濁って、困ってる村がある。あそこの分け前は迷宮の配分が細ったせいで止まりかけてる。今、やっと戻し始めたところだ。配分恩恵枠を全部金で押さえられたら、あの村の井戸は二度と戻らない。村が一つ枯れる」


---


 モルガンはすぐには言い返さなかった。


 商人だが、人でなしではない、とユークは見ていた。村を枯らしてまで儲けたい男の顔ではない。ただ、商いの計画が立たない不安が先に立っているだけだ。


「ではこうしよう」とユークは言った。


「配分は三つに分ける。一つは、迷宮そのものを維持するための分。これは何があっても、削らない。二つ目は、クルン村みたいな生活がかかってる地域の分。これも売らない。最後に、残った余剰分。これだけは取引の対象にしていい。あんたが押さえられるのは、その余剰の枠だ」


「余剰だけ」とモルガンは不満そうに繰り返した。


「その余剰も恒久じゃない」とユークは続けた。


「期間を区切った限定契約にする。そのかわり、契約の中身は全部公開の記録に残す。誰が、どれだけの枠を、いくらで持ってるか。隠さない。そうすれば、あんたが不当に押さえてる、と陰口を叩かれることもない。商いの計画も契約期間のぶんはちゃんと立つ」


 ミレアがすかさず補った。


「独占ではなく、限定契約と公開記録」と彼女は言った。


「これは灰環前砦が最初の商人さんと交わしたときからの、変わらない運用です。グニェルさんも同じ条件で利用なさっています」


---


 ちょうどそのグニェルが定期の納品で前砦に来ていた。


「俺はこの条件でもう半年やってる」とグニェルは横から口を挟んだ。


「最初は窮屈だ、と思った。枠も、期間も決まってて、記録に全部残る。だがな、おかげで誰も俺に文句を言わん。村の分を横取りしてるって噂も立たん。商いってのは、信用が続いてこそだ。一度きりで枯らすより、よっぽど長く稼げる」


 モルガンはグニェルの顔をしばらく見ていた。


 同じ商人の言葉は、ユークの理屈よりもこたえたらしかった。


「……余剰の限定契約か」とモルガンはようやく言った。


「恒久で押さえるより利は薄い。だが、村を枯らした商人だ、と言われて、街道で物が売れなくなるよりはましか」


「賢明だと思う」とユークは言った。


「あんたの分はちゃんと守る。そのかわり、村の分も、迷宮の分も守らせてもらう」


 モルガンは革袋を半分だけ卓の上に残して、引いた。残した額は余剰枠の限定契約に見合う分だった。商人として、線を引き直したのだ。


---


 モルガンが帰ったあと、壁際で一部始終を聞いていたザグレスがようやく口を開いた。


「あの商人は悪い奴じゃねえ」と彼は言った。


「だが、一つ引っかかった。あいつ、ラスティアの一商人にしては、灰環の配分のことをよく知りすぎてる。水と資材が『これから安定して回ってくる』――まだ前砦の中でしか言ってねえ話を、なんで外の商人が当てにしてる」


「誰かが外に話してるってことか」とユークは言った。


「そう見るのが筋だ」とザグレスは言った。


「灰環の価値が、もうラスティアあたりまで漏れてる。商人が嗅ぎつけたんなら、その上の連中もじきに嗅ぎつける。金で枠を買おうって話で済んでるうちは、まだ可愛いもんだ。問題は金じゃなくて、管理権そのものを欲しがる手が出てきたときだぞ」


 ユークは何も言わずに頷いた。ザグレスの読みは、たいてい当たる。それも、当たってほしくないほうに。


---


 その夜、ミレアは配分枠の運用ルールの初版を書き上げた。


 維持分・地域分は売らない。余剰分のみ、期間を区切った限定契約で取引する。すべて公開記録に残す。短いが、灰環の配分が「誰か一人のもの」にならないための最初の歯止めだった。配分は増やせる量に限りがある。だからこそ、誰に先に配るかの順番を金の多寡ではなく、暮らしがかかっているかどうかで決める。その一線だけは譲れなかった。


「これで当面は捌けます」とミレアは言った。


「ただ」と彼女は少し声を落とした。


「気になることがあります。モルガンさんが言った『灰環は誰のものでもない野良の迷宮だ』という言葉です。あれは商人の理屈としては、まっとうです。でも――同じ言葉を別の人たちが使えば、まったく違う意味になります」


「監督院か」とユークは言った。


「ええ」とミレアは頷いた。


「誰のものでもないということは、裏を返せば、誰が管理権を主張してもいいということです。灰環の配分にこれだけの価値がある、と分かれば……あの人たちは、きっとその『誰のものでもない』を自分たちの口実に使ってきます」


 ユークは書き上がったばかりの運用ルールをもう一度見た。


 配分を商人一人の独占からは守った。だが、その同じ「誰のものでもない」という一言が、もっと大きな手をこちらへ引き寄せ始めていた。手の中の地図にはまだ書き込まれていない行き先と並んで、書き込みたくない名前が一つ増えようとしていた。

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