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第77話 配分槽はどこへ繋がっていたか

 翌朝、ユークは灯具と記録帳を手に、第五沈殿槽の奥へ降りた。グランとルーメ、それにミレアが続いた。


 昨日ルーメが目印を残した、まだ生きている一本の枝。そこから先を辿るのが、今日の仕事だった。


 枝の入口は、人ひとりがかがんで通れるほどの幅しかなかった。旧図には載っていない。配分槽の本体から、さらに奥へ、古い石組みの流路が続いている。


 グランが先頭に立った。前肢で天井の継ぎ目を、こつ、こつ、と叩きながら進む。重い音が返るうちは、頭上の岩は固い。軽く響けば、その先は危うい。グランは、軽い音のした場所の手前で必ず足を止め、ユークを通さなかった。


「無理はしないでいい」とユークは言った。


「崩れそうなところは、飛ばせ。全部を一度に見ようとしなくていい」


 グランが、低く唸って応えた。崩れかけた一角を、補修待ちとして前肢で一度叩き、印にする。それから、固い音の続く方へ、進路を選び直した。


---


 しばらく進むと、流路が開けた。


 石組みの天井がわずかに高くなり、足元の溝が、いくつかに分かれている。ルーメが、ユークの肩から床へ降りて、ゆっくりと這った。灯苔の光が強まると、溝の底に、淡い色の筋が浮かび上がる。


 筋は、ここでまた分かれていた。


「ここでも、分かれてる」とユークは呟いた。


「第五沈殿槽で三つに分かれて、その一本が、ここでまた枝分かれしてる」


 ミレアが、記録帳に石組みの形を写し取りながら言った。


「一本の流れが、何段にも分けられている。木の枝みたいに」


「ああ。下流に行くほど、細かく分かれていく」とユークは言った。


「これは……汚水を捨てる路じゃない」


「捨てるだけなら」とミレアが続けた。


「こんなに何段にも分ける必要はありませんね。一本、深い穴へ落とせば済む」


「分けるのは、配るためだ」とユークは言った。


「水を、あちこちの行き先へ、決まった量ずつ届ける。そのための仕組みだ」


---


 ユークは、ルーメの光が照らし出す筋を、一本ずつ目で追った。


 分かれた溝のうち、いくつかは、もう完全に乾いている。底に泥が固まり、魔力の色も残っていない。死んだ枝だ。


 だが、二本ほどは、まだかすかに色が残っていた。ルーメが、その上で光を強める。生きている、というより、死にきっていない、という程度の弱さだった。


「生きてるのは、これと、これか」とユークは、二本の枝を指でなぞった。


 乾いて死んだ枝のうち、一本は、はっきりと西を向いていた。クルン村のある方角だ。今は井戸の濁りに悩まされている、あの村へも、かつてはここから水が分けられていたのかもしれない。ユークは、その死んだ枝の向きを、記録帳の隅に書き留めた。


「クルン村の井戸が濁り出したのは、ここ何年かの話だと、前にザグレスさんが言ってました」とミレアが言った。


「もし、この枝が生きていた頃は、村にきれいな水が回っていたのだとしたら……」


「枝が死んだから、村の水が濁った」とユークは、その先を継いだ。


「決めつけはできない。でも、時期が重なるなら、調べる値打ちはある。配分が止まって困ったのは、迷宮の中だけじゃない」


 ルーメが、生きている枝の片方の先で、光をゆっくり明滅させた。そちらへ、わずかに魔力が流れている、と告げるような動きだった。


 ユークは、その枝が向かう方向を、灯具をかざして確かめた。流路は、前砦の真下から、北へ――灰環迷宮の外へ、ずっと伸びている。前砦の地下だけでは、終わっていない。


「迷宮の外まで、続いてる」とユークは言った。


「配分槽は、この迷宮の中だけで水を回してたんじゃない。外の、どこかへ、配ってた」


---


 もう一本の、生きている枝を辿ろうとして、グランが足を止めた。


 その先は、崩れていた。天井が落ち、石組みが半ばまで溝を塞いでいる。グランが前肢で崩れを叩いたが、重く、鈍い音しか返らない。奥は、完全に埋まっている。


「ここから先は、無理か」とユークは言った。


 グランが、唸って肯定した。掘り返せば崩落が広がる、という拒みの唸りだった。ユークは、それ以上を求めなかった。


「全容は、掴めないな」とユークはミレアに言った。


「枝の半分は、もう崩れてる。どこへ繋がってたか、全部は分からない。分かるのは、生きてる枝の、行き先だけだ」


「それでも、ゼロよりずっといい」とミレアは言った。


「記録の棚は、鍵がかかって開かない。でも、ここには、現物の枝があります。生きてる分だけでも、行き先を書き留めれば、それが棚の代わりになる」


---


 ユークは、北へ伸びる生きた枝を、もう少しだけ辿ってみることにした。


 だが、十数歩も進まないうちに、足元の石組みが、ぐらりと傾いた。古い流路の縁が、長い年月で脆くなっている。グランが、すかさず体を割り込ませ、傾いた石を背で支えた。


「グラン、無理はするな」とユークは言った。


 グランは、低く唸って、それでも動かなかった。崩れかけた縁を、前肢で器用に組み直していく。崩れた石を噛ませ、隙間を埋め、踏める足場に変えていく。掘削だけでなく、こうした補修こそ、グランの本領だった。


 しばらくして、グランが、進んでいい、と鼻を鳴らした。補修された足場の先で、流路は、なお北へ続いていた。


 ルーメが、その先の魔力の筋を照らした。北へ向かう流れは、ここまで来ても、まだ細く生きている。完全には死んでいない。何十年も、ほそぼそと、どこかへ水を送り続けてきた一本だった。


「ずっと、止まらずに流れてたのか」とユークは呟いた。


「誰も使ってないのに、水だけは、律儀に行き先へ向かってる」


 ミレアが、記録帳から顔を上げた。


「行き先に、誰もいなくても、ですか」


「ああ」とユークは言った。なぜか、その細い流れが、ひどく寂しいものに見えた。配る相手を失っても、配ることをやめられない仕組み。かつて、この水を待っていた誰かが、確かにいたはずだった。今はもう、いないのかもしれない。それでも、流れだけが、約束のように残っている。


---


 ユークは、ミレアと手分けして、辿れた枝の行き先を書き留めていった。


 第五沈殿槽から、北へ伸びる一本。前砦の外へ抜けて、まだ先がある。西を向いた、乾いた一本。クルン村の方角。それと、崩落で途切れた、もう一本。死んだ枝が、少なくとも四本。生きている枝が、二本。


 完全な地図にはほど遠い。だが、灰環迷宮が、かつてどこへ水を配っていたのか――その「行き先一覧」の、最初の数行が、記録帳に並んだ。


「配分槽は、どこへ繋がっていたか」とユークは、自分で書いた見出しを読み上げた。


「答えの全部じゃない。でも、最初の一行は、書けた」


 ミレアが頷いて、控えに日付を入れた。記録の棚に頼らず、自分たちの足で読み直した、最初の一枚だった。


---


 その晩、ユークは前砦の地図を広げて、北へ伸びる枝の方向を当てはめてみた。


 流路が向かう先に、何があるか。地図の北の端、灰環迷宮から街道を外れた場所に、古い印が一つ残っていた。今はもう、人の住んでいない場所だ。


「ハウル坑区」とユークは、その印を指で押さえた。


「旧鉱山街の跡か」


「鉱山が枯れて、廃れた場所ですね」とミレアが地図を覗き込んだ。


「もう、誰もいないはずです」


「その、誰もいない場所へ」とユークは言った。


「灰環の配分槽は、水を配ってた。生きてる枝の一本が、まっすぐそっちを向いてる」


 ユークは、地図の上の古い印を、しばらく見つめた。鉱山が枯れて人が去った街。その枯れた場所と、灰環迷宮の止まった配分槽が、一本の細い流路で、まだ繋がっている。


「明日、その先を確かめる」とユークは言った。


「ハウル坑区が、なぜ枯れたのか。配分が止まったことと、関係があるのかもしれない」


 灯具の灯りの中で、北へ伸びる枝の線が、地図の上で、静かに人の去った街を指していた。

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