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第75話 二人目の申請者

 その男がラスティアから来たのは、朝の便がいつもより一つ早い時刻だった。


 ドーランの荷馬車に同乗してきたらしい。革の上着に、商人の徽章を留めている。前砦の受付台の前に立つと、男は丁寧に名乗った。


「モルガンと申します。ラスティアで乾物と資材を扱っております。こちらの灰環前砦で、利用の枠をいただけないかと」


 ユークは受付台の奥から男を見た。グニェルとは違う顔だ。利用希望者が一人から二人になった。それ自体は、悪い話ではない。


「採集の利用ですか」


「いえ」とモルガンは言った。「採集も興味はありますが、本命は水です。クルン村の井戸が、こちらのおかげで安定したと聞きました。あの安定を、うちにも分けていただきたい」


 ユークは少し黙った。男の言い方に、引っかかるものがあった。


「水を、買いたいということですか」


「正確には、安定して回ってくる権利を、です。一度きりではなく、毎月決まった量が、決まって届く。そういう枠が欲しい。値は相応に出します」


 話している間、ユークの感覚の隅で、シルクスの糸がかすかに震えた。モルガンの視線が、受付台ではなく、その奥の水路へ続く通路の方へ何度も向いている。確かめるような感触が、糸を伝って返ってくる。男の関心は、受付に並ぶ採集物ではなく、奥から聞こえる水の音の方にあった。


「先に申し上げておくと」とモルガンは続けた。「ここは登録されていない迷宮だと聞いています。誰のものでもない。であれば、先に手を挙げ、先に対価を出した者が枠を得る。それが筋でしょう。私は早く、確実に押さえたい」


 その一言で、男が何を狙っているかが、はっきりした。安定した分け前を、金で、恒久的に、独り占めに近い形で確保したい。そういう申し出だった。


「お話は承りました」とユークは言った。「ただ、枠を出せるかどうかは、金額では決めません。今この迷宮が、どれだけのものを、どこへ回しているか。それを確かめてからです」


「確かめている間に、他の者に出されては困るのですが」


「他の者にも、同じ条件で答えます。早い者勝ちにはしません」


 モルガンは少し不満げだったが、「では、よい返事を待ちます」と言って引き上げた。


---


 モルガンが帰ったあと、ユークは受付台に残って考え込んだ。


 ミレアが横で、申請の控えを書き終えた。


「グニェルさんの契約と、並べてみました」とミレアが言った。「グニェルさんは採集枠です。採った分を持ち帰り、修繕費を一部負担する。今回のモルガンさんは、採集ではなく、水と資材が安定して回ってくること自体を求めています。種類が違います」


「同じ『利用枠』でも、中身が別だ」


「はい。採集枠は、迷宮から何かを採る権利。モルガンさんが欲しいのは、迷宮が回しているものの、分け前です」


 ユークは管理盤の方を見た。盤面には、まだ「配分」と出ている。あの語が出てから、ずっと頭の隅に引っかかっていた。配分。どこへ、いくらを回すか。


「分け前、か」とユークは言った。「クルン村の井戸が澄むのも、グニェルさんの採集が続くのも、結局はこの迷宮が水や資材をどこかへ回しているからだ。モルガンさんは、その回ってくるものを、自分の店にも向けてほしいと言っている」


「人が欲しがっているのは、採集物そのものより」とミレアが続けた。


「この迷宮の『配分』だ」とユークは言った。初めて、それを言葉にした。管理盤の語と、目の前の申請が、同じ一点を指していた。


---


 昼、ユークは地下を一周した。


 仮濾過列を抜けた水が、いつものようにモルト処理場へ落ちていく。一方向の流れ。今はそれだけだ。だが、もしこの流れを複数の行き先へ割り振れるなら、それはまさしく「配分」になる。


 ルーメの灯苔が、水路沿いを淡く照らしていた。魔力の流れを確かめると、安定を示す静かな光だけが返ってきた。今は乱れていない。だが、配る先を増やせば、この流れは必ず揺れる。


 第五沈殿槽の手前で、グランが壁際の古い石組みを前肢で軽く叩いていた。重い感触が返ってくる。この奥に、塞がった流路がいくつもある、と確かめるような反応だった。


 ユークはしゃがんで、石組みの継ぎ目を見た。今は泥と崩れた石で塞がっているが、もともとは複数の方向へ枝分かれしていた跡がある。一本の流れを、いくつもの先へ分けるための造り。配分という語が示す機能は、こうして物理の形でもここに残っていた。


「今は、ほとんど塞がっているな」


 グランが、無理に掘るかと問うような感触を返した。ユークは首を振った。


「まだだ。どこへ繋がっていたかも分からないのに、掘り開けたら、止められなくなる。今日は見るだけでいい」


 グランは小突くのをやめ、補修待ちの場所へ戻っていった。


 受付に戻ると、ミレアが二枚の控えを並べて待っていた。


「申請を分けて記録します」とミレアは言った。「採集枠と、配分恩恵枠。今は同じ『利用枠』で処理していますが、性質が違う以上、最初から分けておいた方がいい。後で枠が増えたとき、混ざると捌けなくなります」


「それでいこう」とユークは言った。「採集枠は、採れる範囲で出せる。だが配分恩恵枠は、慎重に決める。誰かに多く回せば、別のどこかが減る。クルン村の井戸が減るようなことには、できない」


「モルガンさんには、どう答えますか」


「即答はしない。枠を出せるかどうか、まず今の配分でどれだけ余裕があるかを確かめてからだ。金額の多寡で先に決めることはしない」


 ミレアが頷いて、控えに「保留・配分余力の確認後に回答」と書き加えた。早い者勝ちでも、高い者勝ちでもない。維持できる範囲で、初めて配れる。それが、今のところユークの立てた線だった。


---


 夕方、ドーランが帰り便を出す前に、一通の封書を置いていった。


「ラスティアの宿で、お前さんあての文を預かった。監督院の若いのからだとさ」


 エルリオからだった。ユークは封を切った。


 短い文面だった。先日伝えた「配分槽」の語について、続報がある、と。保存庫であの語の載った棚を探し当てたが、棚には閲覧制限の印が押されていた。古い地方迷宮の運用記録に、なぜ閲覧制限がかかっているのか、自分にも分からない。確かめてから、また連絡する――。


 ユークは文面を二度読んだ。


 配分槽。閲覧制限。


 目の前では、商人が「配分の分け前」を求めて訪ねてくる。一方で、その配分の名を持つ古い記録は、監督院の鍵のかかった棚にしまわれている。


 人が欲しがり始めたものと、誰かが見えないようにしまったもの。それが同じ「配分」という一語で繋がっていた。


「ミレア」とユークは言った。「モルガンさんの件、急がないが、止めもしない。配分の余力を測りながら、エルリオさんの続報も待つ。両方が揃ってから、枠の話をする」


「分かりました」とミレアが言った。「二人目の申請者が来た日に、配分という言葉の重さが、一段増えましたね」


 ユークは管理盤の「配分」の文字を、もう一度見た。誰のものか、まだ誰も決めていない一語だった。決めていないからこそ、これから誰かが奪いに来る。グニェルのように規則を守って使う者もいれば、モルガンのように金で囲おうとする者もいる。そしてその先には、記録ごと配分を伏せた監督院がいる。


 水の音が、階下から規則正しく届いていた。今はまだ、一方向の細い流れ。それを誰に、どれだけ分けるのか。その問いが、灰環迷宮の次の重さになろうとしていた。

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