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第74話 水番の前砦

 朝の記録室に、三枚の紙が並んでいた。


 一枚はクルン村からの水質報告。リクが昨日の夕方に走って届けたものだ。井戸は四日連続で澄んでいる、と素直な字で書いてある。一枚はグニェルの精算記録。先日の初回正式利用分が、過不足なく清算されている。もう一枚は第五沈殿槽の水位表。昨夜の計測値まで、正常の範囲で並んでいた。


「変化なし、ですね」とミレアが言った。


「ああ。今日は静かだ」


 ユークは三枚を順に見た。水位は安定し、村の井戸は濁らず、商人の利用は事故なく終わっている。何も起きていない。報告すべき異常がない。


 戸口で、リクが返事の紙を待っていた。昨日は遅かったので、前砦に泊めたのだ。


「管理人さん、今日も澄んでた!」とリクが言った。「母ちゃんが、洗い物が楽になったって」


「そうか。村に戻ったら、報告をくれて助かると伝えてくれ」


「俺が、また書かれるのか」


「ああ。井戸が澄んだ日を数えてるのは、お前の紙だ。立派な記録だ」


 リクは嬉しそうに紙を受け取り、駆けていった。ユークはその背を見送った。村の子供が、毎朝のように水の様子を届けに来る。半年前には、考えられなかった光景だった。


 だが、その静けさが、妙に重く感じられた。


 半年前、この迷宮は立入非推奨の野良ダンジョンだった。水は濁り、流路は塞がり、誰も近づかなかった。今は、村が水を当てにし、商人が枠を欲しがり、毎朝こうして三枚の紙が机に並ぶ。


「平穏だな」とユークは言った。「ただ、この平穏は、勝手に成り立っているわけじゃない」


「そうですね」とミレアが頷いた。「仮濾過列の石は、あと一日か二日で交換です。第五沈殿槽の補水も、三日に一度は要ります。モルト処理場の汚泥も、定期的に出さないと詰まります」


「何もない日は、何もしていない日じゃない。全部回し続けて、やっと何もない日になる」


 ユークは紙を揃えて置いた。静けさは成果だ。ただし、止めれば一日で崩れる成果だった。


――――――


 朝のうちに、ユークは地下へ下りた。何もない日ほど、回っているものを確かめておく必要がある。


 仮濾過列の前に立つと、グランが石の列の脇で待っていた。掘角竜の太い前肢が、詰まりかけた石の一つを軽く小突く。崩落検知の感応を通じて、ここが近く交換だ、という確認するような感触が返ってきた。


「分かってる。明日には替える」


 ユークが言うと、グランは小さく頭を下げるような動きをして、補修用の岩を運びに戻った。言葉はない。だが、何をすべきかは互いに分かっている。


 モルト処理場では、泥食い獣が汚泥を黙々と分解していた。今朝は量が少ない。満足そうな、しかしまだ眠りに落ちる前の、緩い感触だけが伝わってきた。食べ過ぎると眠ってしまう。処理が止まらない程度に、量を見ておく必要があった。


 ルーメの灯苔が、第五沈殿槽へ続く通路を淡く照らしていた。湿度は安定している。シルクスの糸が天井の隅で細かく震えて、水位の微かな変化を拾い、異常なしの軽い感触を返してきた。


 一体ずつ役割が違う。強い一体がいるわけではない。索敵のシルクス、処理のモルト、掘削のグラン、照明のルーメ。それぞれが自分の持ち場を回して、ようやく「何もない朝」が成り立っている。


 ユークは通路を一周して、地上へ戻った。異常なし。報告に書くことは、今日も何もない。


――――――


 昼前、ドーランの荷馬車が前砦に着いた。


 定期便はもう当たり前の風景になっていた。ドーランは荷を下ろし、空いた木箱に村への返送分を積み替えていく。


「ラスティアで、お前さんとこの話が出てる」とドーランがぶっきらぼうに言った。


「どんな話だ」


「水だ。クルン村の水が良くなったって話が回ってる。商人の何人かが、ここの水を使えないか聞いてきた」


「グニェルさん以外に、ということか」


「ああ。枠が欲しいって言ってる奴がいる。おれは運び屋だ。仲介はしねえ。ただ、聞かれたから伝えるだけだ」


「助かる」


 ドーランは「次に来たときも、また聞かれるだろうよ」とだけ言って、馬の口を取った。


 ユークはその背を見送りながら考えた。利用したい者が増えている。それ自体は悪いことではない。だが、第五沈殿槽はまだ仮稼働だ。今の水路で捌けるのは、せいぜいグニェル一人分。枠を増やせば、村の井戸に戻る余裕がなくなる。


 誰に、どれだけ回すか。


 昨夜、管理盤に出ていた語が、頭をかすめた。配分。今はまだ、配分する仕組みがない。だが、配分を求める声の方は、もう外から来ている。


――――――


 午後、ミレアが一枚の大きな表を作っていた。


「何をまとめている」


「章の頭から今日までの運用記録を、一枚に直しています」とミレアが言った。「利用枠、地下水位、仮濾過列の修繕費、クルン村からの報告。今までは別々の帳面でした。でも、繋げて見た方がいい気がしたんです」


 ユークは覗き込んだ。週ごとに区切られた表に、利用、水位、費用、村側報告が横並びに記されている。一目で、どの週に何が起きたかが分かる。


「これは見やすい」


「利用が増えた週は、水位が遅れて上がっています。修繕費もその後に増えています。全部、繋がっていました」


「週次の運用表だな。これは続けてくれ」


「はい。次に枠の相談が来たときも、この表があれば、受けられるか受けられないかを数字で答えられます」


 ユークは表の余白に、小さく一行書き足した。「灰環前砦・週次運用表」。


 入口、とはもう呼べなかった。水を捌き、人を通し、物資を回す。村と商人と迷宮の間で、毎週の数字を突き合わせる場所。気づけば、ここは前線の拠点になっていた。


 水番の前砦。誰が言い出したわけでもないが、ラスティアではそう呼ばれ始めているらしい、とドーランが言っていた。悪くない呼び名だ、とユークは思った。水を番する場所。今のここに、合っている。


――――――


 同じ頃、王立迷宮監督院の保存庫で、エルリオは古い棚の間にいた。


 ユークから届いた時系列表——接続、循環、配分。あの「配分」という語の用例を確かめるため、許可を取って古文書庫に入っていた。


 埃をかぶった目録をたどり、ようやく一冊の古い管理書式集を見つけた。地方迷宮の旧運用に関する記録だ。索引の片隅に、見覚えのある語があった。


 配分槽。


 エルリオは指を止めた。配分、ではなく、配分槽。槽という一字がついている。第五沈殿槽。ユークの報告にあった、旧図から抜けていたあの槽。


 該当の記録がある棚へ向かった。番号を照らし合わせ、目当ての段に手を伸ばす。


 そこで、手が止まった。


 その棚の縁に、赤い印が押されていた。閲覧制限印。古い迷宮の運用記録に、なぜ閲覧制限がかかっているのか。エルリオには分からなかった。


 エルリオは制限印を、しばらく見つめた。誰が、いつ、何のためにこの印を押したのか。目録には書かれていない。許可を取って入った庫の中に、許可だけでは届かない段がある。それが何を意味するのか、今は分からなかった。


 手帳に、棚の番号と「配分槽/閲覧制限」とだけ書き留めた。ユークに伝えるにしても、確かめてからにしよう、とエルリオは思った。憶測を先に送れば、相手の判断を狂わせる。それは、かつて生態維持課で先輩から教わったことだった。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 灰環迷宮のコアが示した「配分」という語は、迷宮の中だけの言葉ではなかった。監督院の、鍵のかかった棚の奥にも、同じ言葉が眠っていた。

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