第73話 配分という一語
その日の夜、ユークはもう一度地下へ下りた。
三更を少し過ぎた頃だった。記録室でミレアが台帳をまとめているのを見て、「一緒に来るか」と声をかけた。ミレアは頷いて立ち上がった。
地下の水音は、昼間と変わらなかった。仮濾過列を通った水が、モルト処理場へ落ちる音が規則的に続いている。水位目盛りは四番目で安定していた。逆圧の振動も、今日は弱い。
「変化なし」とミレアが言った。
「ああ。水路は安定している」
ユークは石の列を確認した。昨日から気になっていた色の変わった石は、今日もくすんだままだ。詰まりかけているが、まだ交換が必要なほどではない。もう一日か二日は持つだろう。
第五沈殿槽の方向を見た。仮稼働を始めてから、こちら側の水流がわずかに変わった気がした。気のせいかもしれないが、水の重さが少し変わったように感じることが続いている。
「第五沈殿槽の今の水位は」
「今朝の計測で正常です。グニェルさんが使った分は予定範囲内でした」
「補水は」
「昨日の段階では必要なかったです。今夜はまだ確認していません」
「見てきてください」
ミレアが第五沈殿槽のある方向へ歩いていった。ユークは仮濾過列の前に立ったまま、水音を聞いた。
管理盤に近づいた。昼間確認したときは、表示は「循環」だった。今もそうかを確かめるだけのつもりだった。
盤面の文字を見た。
「配分」とあった。
ユークは少し立ち止まった。朝から変わっていたのか、夜になって変わったのかは分からない。ただ、「循環」ではなかった。
ミレアが戻ってきた。
「第五沈殿槽、水位は問題ありません」
「そうか」
「どうかしましたか」
「管理盤の表示が変わっている」
ミレアが横に立って盤面を見た。
「配分」
「そうだ。昨日も一昨日も循環だった」
「循環の前は接続でしたね。第五沈殿槽の仮濾過列を繋いだ日に変わりました」
ユークは「配分」という語を見続けた。水を流すだけでなく、どこへどれだけ回すかを管理する言葉だ。
「循環は水を回すことだ。配分は、どこへいくらを回すかということになる」
「そうですね。灰環迷宮に、そういう機能があったということでしょうか」
「あったのかもしれない。今は一方向にしか流れていない。どこへ配分するかを指定する仕組みが今の水路には存在しない」
「本来の水路が全部繋がっていれば、違っていたのかもしれません」
ミレアが手帳を取り出した。
「記録します。接続、循環、配分の順に表示が変わっています。それぞれの日付を並べます」
「できますか」
「記録には全部残っています。少し待ってください」
ユークは管理盤の前に立ったまま、表示を見た。コアに何か問いかけてみる気はあったが、言葉が出てこなかった。問いかけたところで、コアは答えない。それはすでに分かっていた。
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ミレアが時系列表を仕上げた。
「接続は、第五沈殿槽の仮濾過列設置直後に出ました。循環は、水路が安定して継続運用に入った日です。今日の配分は、精算が完了した後です」
「商取引が成立したタイミングで、表示が変わった」
「そう見えます。ただ偶然かもしれません」
「偶然でも、記録として残しておく価値はある」
ユークは表を見た。精算完了と表示変化が同じ日に起きている。利用が成立した、という事実をコアが何らかの形で認識しているなら、今日の「配分」という語にも説明がつくかもしれない。
「このコアは、利用状況を把握しているのかもしれない」
「それだと今日の表示とも合います。誰がどれだけ使ったかを把握していれば、配分を管理する機能があっても不思議ではない」
「ただし、配分先がない。今は一箇所から一箇所へしか流れていない」
「本来は、複数の場所に分けて流す設計だったのかもしれません」
ユークは仮濾過列の水を見た。岩盤の隙間から引き込まれた水が、石の列を抜けてモルト処理場へ落ちていく。今は一本の流れだ。灰環迷宮がかつて持っていたはずの幹線水路は、今はほとんど使えない状態にある。繋がっていたとすれば、それぞれの槽に向けて水を割り振る機能があった可能性はある。
表示が変わるのは、外の利用状況に合わせているのか、それともコア自身の内側で何かが動いているのかが分からない。どちらとも言えない。ただ、精算が終わった夜に「配分」と出たことは、記録に残しておく価値がある。
石の列の水音が続いていた。一方向だけの流れ。それが今の灰環迷宮にできることだった。「配分」という語が示す機能は、まだここには存在しない。
「第五沈殿槽を、正式な観測対象に昇格させます」
「今まではどういう扱いでしたか」
「候補点として観測しているが、定期記録の枠外だった。今日からは、管理盤の表示変化と連動させて記録する。精算記録とも照合する」
ミレアが台帳に書き加えた。「第五沈殿槽、正式観測対象として昇格。管理盤表示との時系列照合を開始。利用記録との対応確認を追加」
「表示が次に変わるとしたら、何が来ると思います」
「分かりません。ただ、接続・循環・配分と来たのであれば、次は何か別のものかもしれません」
「何を待てばいい」
「変わるのを見ている以外のことは、今は出来ません」
ユークは「配分」という語から目を離した。何かを期待して見ていても、コアは動かない。動くのを記録するだけが、今できることだった。
管理盤の盤面に、一度だけ手を当てた。温度はなかった。ただの石の盤が、言葉を出している。どこかに繋がっているのか、それとも自分の中で動いているのか。その理由を、まだ誰も知らない。
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地下から上がった後、ユークは記録室に戻った。
ミレアが時系列表を清書していた。横に並んで、出来上がりを確認した。
接続 → 循環 → 配分
三段階の変化。それぞれの日付が整然と並んでいる。偶然かもしれないが、そうでないかもしれない。何かが、水路の変化と表示の変化を結びつけている。
「エルリオさんに、この表を送ってみませんか」
「エルリオが、こういうものに詳しいのか」
「迷宮の古い記録に詳しいと聞いています。前回の問い合わせに返信をもらいましたが、まだこちらから返していない」
「送っておいてくれ。もし何か知っているなら、手がかりが出るかもしれない」
ミレアが写しを一枚作って封に入れた。
「明日の荷便に入れます」
「頼む」
ユークは記録を一度だけ閉じた。水音が階下から届いていた。第五沈殿槽が動いてから、灰環迷宮の地下は少しずつ変わっている。変わっている理由を、まだ誰も説明できていない。
翌日の午後、エルリオから短い返信が届いた。
「時系列の記録、拝見しました。一つ確認させてください。この『配分』という語ですが、こちらが持つ古文書の中にも同じ語が出てきます。ただし、用例の方向が少し違う。確認後にもう一度連絡します」
ユークはその一行を、二度読んだ。
古文書に、同じ語がある。
管理盤が何を示しているかを、迷宮の外側にある記録が知っているかもしれなかった。




