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第72話 初めての正式精算

 精算の日は、思ったより静かに始まった。


 グニェルが来たのは朝の第二刻だった。今日はトルマも荷運びも連れていない。一人で、革張りの帳簿を一冊抱えていた。


「今日はお一人ですか」とミレアが受付台から聞いた。


「精算は商売の中身が見える場ですから。甥にもまだ見せていない数字があります」


 ユークは受付台の向かいに椅子を出した。グニェルが腰を下ろし、帳簿を開いた。


「こちらの記録と、合わせて確認したい」


「お願いします」


 ミレアが台帳を三枚並べた。一回目の利用、二回目、三回目。採取地点、品目、量、退場時の確認時刻。グニェルの帳簿には、ラスティアでの取引価格と運搬費が並んでいる。


「まず採集量から確認します」とミレアが言った。「一回目、灰鉱砂と崩落石材合わせて袋三本相当。二回目、四本相当。三回目も四本相当。前砦分類では採取地点ごとに分かれていますが、合算量はこの通りです」


 グニェルが帳簿の数字を見比べた。


「合っています。うちの記録もそうなっています」


「次に費用です」とユークが言った。「協力金は採集量に連動する形で取り決めました。一回目は半量制限がありましたので、利用料も半分です。二回目以降は通常の利用料に、環境異常時の中断による減額を適用しています」


「三回目の中断分の減額、覚えています。あの日は早期撤退になりましたから」


「ミレア、計算を」


 ミレアが手帳を見ながら数字を読み上げた。


「協力金、三回分の合計から中断減額分を差し引いた額。それに、荷下ろし場の設置と石台の新設にかかった修繕費の一部を、利用者負担分として加算します。荷運び費は前砦側の管理外なので、こちらでは計算しません」


「修繕費の一部、というのは」とグニェルが帳簿から顔を上げた。


「荷下ろし場の杭と縄、採集後処理用の石台です。今後も使う設備ですので、全額を一利用者に負担させるのは公平ではありません。今回の利用に応じた分だけを、設置費の四分の一として加算しています」


「四分の一の根拠は」


「設置のきっかけがグニェル商会の利用だったことと、今後の利用者にも使われる共用設備であることの両方を踏まえました。全額負担でも無負担でもない、中間の数字です」


 グニェルは少し考えてから、帳簿に書き写した。


「妥当な数字だと思います」


 ミレアが最終的な金額を提示した。グニェルが自分の帳簿の収益から差し引いて、残りを確認した。指先が紙の上を動く間、誰も声を出さなかった。


「……利益は小さいですね」とグニェルが言った。


 ユークは数字を見た。修繕費の加算と中断による減額を差し引いた後の利益は、確かに薄かった。だが赤字ではない。


「赤字ではありません」


「ええ。赤字ではない。ただ、三回分の手間と二人分の人件費を考えると、割に合っているかと聞かれたら、ぎりぎりです」


「それが今の灰環迷宮の実態です」とユークは言った。「大量採集ができる場所ではありません。水位の制約があり、環境異常時には中断する。荷馬車も縄の外までしか入れない。利益を最大化する場所ではなく、維持費込みで小口の利用を積み重ねる場所です」


「それを最初から言ってくれていれば」


「最初に言っても、実感はできなかったと思います。三回使って、初めて分かる数字です」


 グニェルは帳簿を閉じた。


「分かりました。では次回からは、この利益感覚を前提に動きます」


「次回枠の拡大を考えていますか」とミレアが尋ねた。


「正直に言えば、考えています。半量制限のままでは、運搬費を含めると割に合わない月も出てくる。枠を広げてもらえれば、こちらの計算も変わります」


 ユークは少し間を置いた。


「枠の拡大は、水位が安定している日に限って検討します。逆圧振動の記録が連続していない日、水位目盛りが五番目を超えない日。その条件を満たす日だけ、通常の三割増しまで認める方向で考えています」


「条件付き、ということですね」


「そうです。安定日が増えれば、枠も自然に広がります。今は水位がまだ落ち着いていない時期です」


 グニェルが帳簿に何か書き込んだ。


「安定日の判定は、どちらが出すんですか」


「前砦側です。シルクスの振動記録と水位目盛りから判断します。判定結果は、利用予約の確認時にお伝えします」


「それなら不満は出ません。データに基づく判断であれば」


 ミレアが台帳に追記した。「次回利用枠拡大の検討条件:水位安定日(逆圧振動非連続・目盛り五番目未到達)に限り、通常枠の三割増しまで許可。判定は前砦側が事前提示」


 グニェルが帳簿を閉じて立ち上がった。


「今日の精算、ありがとうございました。正直、最初の利用前は、もっと簡単に儲かる場所だと思っていました」


「そう見える広告の出し方をした覚えはありません」


「噂が先に来たんです。村の水が良くなった、迷宮が運用され始めた、という話が。商人の耳には、儲け話として届きやすい」


 ユークはその言葉を聞いて、少し考えた。


「噂と実態のずれは、こちらの説明不足でもあります。次回からは、利用申請の段階で今日の数字感を伝える資料を作ります」


「それは助かります。次に申請してくる商人にも、同じ説明が要るはずですから」


「グニェルさんが最初の利用者だったことが、今後の基準を作ることになります」


「光栄か、割を食ったかは、まだ分かりませんね」とグニェルは少し笑って言った。


 帰り支度をしながら、グニェルが最後に聞いた。


「次の予約はいつ入れられますか」


「水位の状態を見てから、ミレアが連絡します。仮濾過列がどれだけ保つかにもよります」


「分かりました。気長に待ちます」


 グニェルが荷馬車に戻り、縄の外から街道へ下っていった。


  *


 ユークは精算の記録を見直した。


 大量採集ではなく、維持費込みの小口利用。利益は薄いが、続けられる形。灰環迷宮が「採れる場所」ではなく「条件つきで使える施設」になった、という変化が、今日の数字の中に表れていた。


「これでいいんでしょうか」とミレアが聞いた。


「いいと思っている。大きく儲けさせる場所にする必要はない。続けて使ってもらえる場所であれば、それで十分だ」


「グニェルさんは納得していましたか」


「納得というより、現実を理解した、という感じだった。それで構わない」


 ミレアが台帳を閉じて、地下の方を見た。


「水位の確認に行きますか」


「行く」


 二人で地下へ降りた。

 仮濾過列を通った水が、モルト処理場へ静かに落ちていた。水位目盛りは四番目で安定していた。逆圧の振動も、今日は弱い。


 石の列を見た。九個のうち、色が変わらなくなっている石が一つあった。詰まりかけている。


「あれは交換が近いですね」とミレアが言った。


「そうだな。代わりの石がまだない。モルトが新しいものを出してくれるか、別の場所で探すかだ」


 ユークが水位目盛りに目を戻したとき、地下の奥、管理盤の方向で何かが点いた。


 ごく短い光だった。

 見間違いかと思うほど一瞬で、すぐに消えた。


「ミレア、今、管理盤の方を見たか」


「いえ、台帳を見ていました。何かありましたか」


「光った気がした。一瞬だけだ」


 ユークは管理盤に近づいた。表面は何の変化も示していない。普段通り、静かに沈んでいる。


「今は何も出ていない」


「気のせいでしょうか」


「分からない。だが、第五沈殿槽が動き始めてから、地下のあちこちで今まで眠っていたものが反応している。管理盤も、その一つかもしれない」


 ミレアが手帳に書いた。「管理盤、夜間に短時間の発光を確認(未確定・目視一回のみ)。継続観測の対象に追加」


 ユークは管理盤をもう一度見た。何も起きていない。だが、今の灰環迷宮は、もう「採れる場所」ではなく、もう一段先にある何かを抱え始めている。それだけは、確かだった。


「今夜、もう一度確認する」


「私も付き合います」


 地下の水音が、いつもと同じように続いていた。仮濾過列を抜けた水が、モルト処理場へ落ちる音だけが、規則的に響いていた。

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