第71話 三日濁らない
リクが来たのは、朝の霧がまだ残っている時間だった。
前日と同じ山道を、今日も走ってきた足音だった。ユークが扉を開ける前に、ドアの外から声がした。
「管理人さん、今日も澄んでた!」
リクが立っていた。息を切らしているが、昨日よりは少し落ち着いた顔をしている。走り慣れてきた、という感じだ。
「三日目か」
「うん。朝に確認に行ったら、底まで見えた。おばあちゃんが、もう間違いないって言ってた」
ユークは手帳に書き留めた。三日目、澄み、村の確認あり。
「湧き水の跡は確認できたか」
「あ、それ、来るときに見たんだけど……」
リクが靴の先を指で示した。靴の甲に、泥がついている。山道の泥ではなく、水気のある柔らかい泥だ。
「湧き水の跡のそばを通った?」
「うん。いつも乾いてる場所に、水がじわじわしてて、踏んだ」
ユークは手帳を閉じた。
三日、というのはひとつの閾値だ。一日目は記録になる。二日目は偶然になれる。三日目は、同じ条件が三回続いたことになる。今のところ、仕様が持っている。それだけは言える。
湧き水の跡に水気が戻っていることも、一つ前進だ。地下が安定してきているのか、別の変化が起きているのかは、まだ分からない。でも、変化がある。変化は記録できる。
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ミレアが戻ってきたのは午前の半ばだった。クルン村の村長補佐のオドルへ確認に行っていた。
顔つきが少し違った。記録帳を抱えたまま、うまく言葉を選んでいる顔をしている。
「オドルさんは何と言っていたか」
「三日を認めてくれました。ただ……」
「ただ、何か」
「礼を言うのはまだ早い、と言っていました。一週間続けば本物だと思っている、と」
ユークは少し考えた。
「村長補佐の見方としては正しい」
「でも、三日は三日ですよ。それなりの証拠じゃないですか」
「証拠ではあります。ただ、地下水は季節でも変わる。三日続けばうちの仮濾過列が持っていると言える。一週間続けば、仕様が安定していると言える。村側が一週間待つのは、別に疑っているわけじゃないです」
ミレアは記録帳を開いた。
「オドルさんから、もう一つ話がありました」
「何ですか」
「今回のことで、村として何か礼をしたいと言っていました。ただし礼は礼であって、取引ではないと念を押して。……それで、古布と桶を少し貸し出したいと。前砦で使えるものがあれば持っていく、ということです」
ユークは手帳を取り出した。古布と桶。
「地下の作業に使える」
「私もそう思いました。ただ、オドルさんは『貸し出し』と言っています。贈り物ではない。記録として残すかどうか聞かれました」
「残します。記録のない受け取りは、後で揉める。村からの貸し出し、受領日、用途、返却予定日を書いておきます」
「私が書きます」
「書いてください。それと、貸し出しの記録は、オドルさんにも控えを渡してください。お互いに持っていた方が、後で何かあったときに確認できます」
ミレアが記録帳に書き始めた。
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午後、ドーランの定期便が来た。
ドーランは荷を下ろしながら、今日は珍しく自分から話しかけてきた。
「村の方、水が澄んでいるとか聞いたが」
「三日続きました」
「ほう」
ドーランは荷を整えながら、特に驚いた顔はしなかった。ただ、少し間を置いてから続けた。
「村の婆さん連中が、水番が来てから変わったと言っている。井戸の底が見える日がなかった時期があって、あの頃は米を洗うのも汚い気がしたと。今は、洗い物にも炊事にも気兼ねなく使えると言っている」
「婆さん連中とは」
「クルン村の年寄りだよ。俺が荷を届けるたびに話す。今日はその話が多かった」
ユークは何も言わなかった。ドーランも何も続けなかった。
荷の受け渡しが終わって、ドーランが馬車に戻りかけたとき、ユークは声をかけた。
「記録に残しておきます。今日の日付で、三日連続の水質改善確認。村側証言、クルン村の複数住民から」
「書き留めるのか、そういうことを」
「残さないと、後で何が起きても分からなくなります」
「……そうだな」
ドーランは手綱を取りながら、短く言った。
「次に来たときも聞いてくる」
ドーランの馬車の音が遠くなってから、ユークは手帳を開いた。
今日だけで、立場が違う三人から同じ方向の証言が集まった。リクの目視確認、オドルの判断、ドーランが伝えた村の住民の言葉。三つとも、別の場所から同じ結果を言っている。
数字では残せないものもある。洗い物に気兼ねなく使えるようになった、というのは台帳に書ける形ではない。でも、それが変わったことを、ユークは知っている。
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夕方、オドルの使いが古布と桶を二つ持ってきた。
ミレアが受領記録を二枚書いて、一枚を使いに持たせた。使いは若い男で、受領書を受け取ると少し驚いた顔をした。
「書類まで作るんですか」
「貸し出しですから、双方の記録が必要です」
「村の人間に、こんなことをされたのは初めてで」
「これが正規の受け取り方です」
使いは頷いて、帰っていった。
ミレアが、控えの書類を記録帳に挟んだ。
「これで、こっそり助けてもらっている、という状態が変わりましたね」
「変わりました。記録のある協力になりました」
「何が違うんですか」
「こっそりは、どちらかが嫌になったらそれで終わりです。記録のある協力は、何かあったときに『こういう経緯でこうなっている』と説明できる。説明できると、次に相談しやすくなります」
ミレアは記録帳を閉じた。
「……次の相談というのは」
「水がこれで安定するか、それとも別の問題が出るかで変わります。今のところ、仮濾過列は三日持ちました。石が詰まるまでの時間と、詰まったときの交換手順は、これから決めなければならない」
「それを、村側とも相談しますか」
「必要があれば。地下水は前砦と村で共有しています。問題が出たとき、村側に何が起きているかを教えてもらえると、こちらの判断が早くなります」
ユークは窓の外を見た。日が傾き始めていた。
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夜、ミレアが一枚の書類を持ってきた。
「グニェルさんから、精算の依頼が来ています。来週、初回利用の採集量と費用の確認をしたいということです」
「来週か」
「採集期間が終わったので、最初の精算をしたいということです。精算の場所と時間を調整してほしいと」
ユークは手帳を取り出した。精算。採集量、協力金、修繕費、荷運び費。数字を一つずつ出して、合わせて確認する。
「前砦で受けます。来週の中ほどで、ミレアが日程を調整してください」
「分かりました。採集量の記録は、こちらでも持っていますか」
「ミレアが記録していたはずです」
「昨日確認しました。三回分の採集記録があります。一回目は量が少ない。二回目と三回目が増えています」
「増えた理由を確認しておきたいです。利用者が慣れて効率が上がったのか、採れやすい箇所を繰り返して負荷がかかっているのか、で次回の対応が変わります」
「確認してから精算の場を設けます」
三回分の採集記録がある。一回目より二回目・三回目の量が増えている。最初は場所の選び方が分からないから量が少ない。一度やれば次に活かせる。それが普通だ。ただ、良い場所を繰り返して負荷をかければ、続けるほど採れなくなる可能性もある。どちらかは、話してみれば分かる。精算前に確認できれば、今後の利用条件の設定に使える。
グニェルが正式に精算を求めてきたということは、次も前砦を使う気があるということだ。それだけは、今日の依頼から読み取れた。
ユークは手帳を閉じた。
今週の仕事は、仮濾過列が三日持ったこと。記録のある協力関係が一つできたこと。次の精算が決まったこと。
一つひとつは小さい。ただ、三日前と比べると、少し動いている。動いている間は、次の手が打てる。打っていけば、また動く。今週はそれでいい。




