第69話 第五沈殿槽、仮開放
夜明けに地下へ降りた。
今日の作業を前にして、一度全体を確認した。第一沈殿槽の底の堆積、第二薄め槽の灰泥、モルト処理場の水量。グランが仮板を昨夜入れてくれていたおかげで、水位は四番目まで下がっていた。だがこれは仮板を入れてのことで、抜けばまた五番目に戻る。
モルトに今日の状態を聞いた。
重い、という感触が返ってきた。昨日より少し余裕があるが、まだ軽くはない。
「今日の削りで水量が増える。増えた分を今日中に処理しきれないかもしれない。限界を感じたら止まっていい。処理が止まっても、今日は構わない」
モルトから短い返答が来た。やってみる、という感触だった。
「無理はするな。それだけ守ってくれれば十分だ」
旧堰の通路へ向かった。
*
フェズを前砦周辺に先に出した。
「今日は前砦の外周を人払いしてくれ。作業中は外縁への入場を止めたい。来訪者がいたら、前砦の入口前で止まるように仕向けてくれ。今日の利用予約は入っていない。ドーランの便もない。不審な人間が来た時だけ知らせてくれ」
フェズから了解の感触が返ってきた。幻惑の準備に入る気配が広がった。
シルクスには旧堰の通路に糸を一本伸ばすよう頼んだ。振動の変化を拾えるように、堰の前の床面近くに張ってほしいと。今日はその糸を通じて堰の状態をリアルタイムで知らせてもらう。
シルクスが了承して動いた。
ルーメには一緒に来てもらった。今日は色の変化が最も重要な情報になる。
通路を五十歩進んで旧堰の前に立った。昨日と同じく石蓋の縁から水が滲んでいた。観測孔は仮止めのまま維持されている。
「グラン」
パスを通じて呼んだ。グランが通路を進んできた。その重みが床を通じて先に届いた。
「二段目の削りに入る。前回と同じ、左下の継ぎ目から始めてくれ。ただし今日は一段深く入れる。前回の削り口の下に、指二本分を追加する」
グランが堰の前に回り込んだ。前脚を継ぎ目に当て、前回の削り口を確認した。
「右手側に水抜き用の溝を作っておいてくれ。水が来た時に横へ逃げるように。前回は正面だけ削ったが、今日は横の流路も用意したい」
グランが少し動いた。堰の右手側の石組みの下部に、爪で浅い溝を作り始めた。横へ水を逃がすための水路だ。狭い通路の中でグランが体を折り曲げながら作業していた。
溝が出来上がると、グランが削り本体に取りかかった。
*
削り始めて数分で、水が来た。
前回と同じく、最初は細い筋だった。継ぎ目の隙間が広がり、そこから水が押し出される。
だが今日は、その水量が前回の倍を超えた速度で増えた。
ユークはルーメを前に出した。
「色を見てくれ」
ルーメが水流の中へ光を入れた。
灰青だった。前回と同じ色だった。ただし今日は揺れていた。
周期的な揺れだった。明るくなり、深くなり、また明るくなる。波のように繰り返していた。
「揺れている」
シルクスのパスが届いた。床面の振動に変化がある。一定の間隔で押し返しが来ている。
「振動が来ている。ルーメの揺れと一致しているか」
確認した。一致していた。ルーメが明るくなる瞬間と、シルクスが振動を感じる瞬間が重なっていた。
「同期している」
ユークはその事実を受け取って、少し止まった。
今まで、シルクスの拍は「旧堰が水圧を受けて返している音」だと思っていた。外から来る圧力に対する反響だと読んでいた。だが今、水が流れ始めた直後にこの周期が出ている。外からではなく、内側から来ている。
「これは受動的な振動じゃない」
「どういうことですか」とミレアがパスを通じて前砦から聞いていた。今日は前砦で水位と処理槽を監視する役割だった。
「旧堰が外から来る水圧を受けて揺れているのなら、削りを始めた後で周期が不規則になるはずだ。それが一定の間隔を保っている。つまり第五沈殿槽の内側に、定期的に動いている構造がある」
「機械的な動き、ということですか」
「沈殿槽の中で、水の層を動かしている何かがある。重力だけで沈殿させるのではなく、能動的に分離させる構造だ。魔力残滓は比重が違う。高濃度と低濃度が混じった水を、振動を与えながら流すと、層ごとに分かれる。それをやっている」
「まだ動いているということですか。閉じた状態で、何年も」
「動かし続けるための仕組みがある。コアに繋がっているのかもしれない。あるいは水そのものの流れで動く仕組みか。今は見えていない。ただ、動いている」
ルーメの色が深くなった。蒼が強まった。水量が増えるにつれて色が変わっていく。
その時だった。
グランから、鋭い感触がパスを通じて届いた。
足元が崩れている、という感触だった。
*
ユークは通路を見た。
グランが堰の前で体勢を変えていた。後ろ側の脚が沈んでいた。床の石が一枚、水圧を受けて傾いたらしかった。その下が空洞になっていて、グランの重みと水の圧力が合わさって石がずれた。
「グラン、今すぐ止まれ。削るな」
グランが手を止めた。ただし前脚は継ぎ目に当てたまま、流れ出る水を押さえるようにしていた。完全に離せば水が一気に出る。押さえたまま動けない状態だった。
水量が増え続けていた。
ユークは状況を三秒で整理した。
グランが継ぎ目を押さえている。離せば水が増える。だが足元が沈んでいる状態で作業を続けると、さらに沈む。グランの体重は石台の地盤にとって許容範囲を超えかけている。
「グラン、前脚を継ぎ目から離せる位置まで体を右に動かしてくれ。一歩だけ右だ。水は増えるが、今より足場が安定する場所がある」
グランが少し動いた。一歩右へ体をずらした。沈んでいた後ろ脚が、硬い石の上に移った。
「そこでいい。止まれ」
グランが止まった。前脚は継ぎ目から半分離れた形になった。水が増えた。ただしグランの全脚が安定した石の上にある。
「次の指示を出す。削りの方向を変える。今まで縦に削っていたが、横に変える。右側の溝に向かって、継ぎ目の端を水平に削ってくれ。縦方向の圧を逃がしながら、水を横の溝へ誘導する」
グランが確認するような感触を返した。横方向の削りは力の入れ方が変わる。通路が狭いので体の向きを変えなければならない。
「体を入れ替えられるか」
できる、という感触が返ってきた。
グランが通路の中で体を横向きにした。前脚の角度が変わり、継ぎ目に対して水平方向から当たる形になった。
削り始めた。
縦への圧ではなく、横への誘導だった。堰の石組みの端を薄く剥がしながら、流れの方向を変えていく。削り口から出てくる水が、グランの作った右手の溝に向かって流れ始めた。
正面に来ていた水圧が横へ分散した。
「水位の変化を教えてくれ」とユークはミレアに向かって言った。
「処理槽の水位、五番目から動いていません。ただしモルトの処理が追いついていない感触があります。処理場の水量が増えています」
「モルトへ、今日は処理が間に合わなくていいと伝えてくれ。溢れない範囲で流してくれれば十分だ」
「伝えます」
グランの削りが続いた。横方向の削り口から、水が溝を伝って通路の端へ流れていく。縦の圧が落ちた。
ルーメの色を確認した。
蒼が安定してきた。揺れは続いているが、深さが落ち着いた。周期が一定になった。
「周期が安定している」
「振動も安定しています」とシルクスのパスが届いた。
「水が流れ道を見つけた。第五沈殿槽の中で水が動き始めた」
*
グランがゆっくりと削りから手を離した。
継ぎ目から水が出続けていたが、流れは安定していた。横の溝を通じて処理槽の方向へ流れていく。一気に来ていた感触が落ち着き、一定の量が続いて流れる形になった。
「足場を確認してくれ」
グランが前後の足で床を確認した。沈んだ石は安定していない。ただし今は水圧が分散したので、それ以上は沈まなかった。
「今日はこれ以上削らない。今の状態で様子を見る。水が安定して流れているなら、今日の作業はここで止める」
グランから了解の感触が来た。疲れている感触も混じっていた。
「ありがとう。戻っていい」
グランが通路を戻り始めた。
ユークはルーメと共に旧堰の前に残った。水が横の溝を流れる音が続いていた。周期的な揺れがルーメの色に出ている。蒼と灰青が混じりながら、一定のリズムで変化している。
第五沈殿槽が動いている。
何年、あるいは何十年、閉じられた状態で止まっていた構造が、今水を受け取って動き始めた。完全に開いたわけではない。削り口はまだ小さい。だが水が来て、内側の何かが応えた。
それが、今日起きたことだった。
*
前砦に戻ると、ミレアが記録帳を広げて待っていた。
「水位の確認ができました。削り開始から現在まで、水位は五番目を超えていません。横の溝が機能しています。モルトの処理も、限界ではないが重い状態で継続中です」
「今夜の水位が問題になるかどうかは、今日一日の流量を見てから判断する。明朝にもう一度確認する」
「グランの足場の件は記録しますか」
「記録してくれ。床の石が一枚沈んだ。現在は安定しているが、今後の作業前に確認が必要だ。グランに明日また確認に行ってもらう」
「記録します」
ミレアが書き続けた。ユークは受付台の前に立ち、今日の記録を確認した。
「今日分かったことを整理してくれ」
「第五沈殿槽の振動は外部からではなく内部からの周期的な動きによるものと判明。削り後の水流においてルーメの周期揺れとシルクスの振動が同期した。第五沈殿槽は沈殿だけでなく魔力残滓の層分離機能を持っている可能性が高い。堰の削り角変更により水圧を横方向に逃がすことに成功。現在、横の溝を通じて第五沈殿槽への水流を確保している。以上です」
「一点追加してくれ。今日の削りで第五沈殿槽が部分的に動き始めた。完全開放ではなく仮開放の状態。今後の追加削りは水量と処理量の確認後に判断する」
「記録します」
ユークは地下の方向を見た。今日の作業がまだ続いている。モルトが処理を続けている。水が流れている。第五沈殿槽の何かが動いている。
「モルトの状態を確認しに行く」
「一緒に行きます」
二人で地下に降りた。
モルト処理場では、モルトが通常より大きく動いていた。処理量が増えた分、ペースが速い。疲れているが眠りかけてはいない。
ユークがパスを通じて声をかけた。
「今日はここまでにしていい。今来ている分だけ処理したら、今夜は休んでくれ」
モルトから重い返答が来た。
それから、モルトが少し動いた。処理場の縁で何かを押し上げる動作をした。
縁の外に、小さなものが転がった。
石だった。
ユークは近づいた。拾い上げた。
拳ほどの大きさだった。表面が滑らかだった。石なのに不自然なほど表面が均一で、縁が丸かった。加工されていた。
光に透かすと、表面に規則的な小さな穴が並んでいた。自然の岩には出ない配置だった。
「モルト、これを処理できなかったか」
パスを通じて聞いた。
食べられない、という感触が返ってきた。泥の中にあったが、泥ではなかった。固くて、モルトが食べるものではなかった。だから外に出した。そういう感触だった。
ユークは石を手の中で確認した。
これは石ではなく、道具だ。
小さな穴が規則的に配置されている。水を通しながら何かを濾す仕組みだ。サイズは小さいが、複数個あれば層を作れる。
「濾過用の石だ」
「迷宮の施設に使われていたものですか」とミレアが言った。
「そうだ。第五沈殿槽の内部に使われていた濾過材だと思う。モルトが処理した泥の中から出てきた。槽が長年詰まっていた間に泥と混じっていたものが、今日水が流れ始めたことで処理槽まで来た」
「これが来たということは、第五沈殿槽の内部にある構造物の一部が崩れた可能性もありますか」
「可能性はある。あるいは詰まりの末端にあったものが水流で押し出されてきた可能性もある。今の段階ではどちらか判断できない」
ユークは濾過石を手の中で握った。
設計されたものだった。誰かが作った。穴の大きさと配置が均一で、工夫がある。自然に出来上がるものではない。
「記録に入れてくれ。モルト処理場で不明物を回収。拳大、表面加工あり、規則的な小孔多数。濾過機能の可能性。採取日と採取場所を入れておいてくれ」
「入れます」
地下の水音が続いていた。
今日、第五沈殿槽が動き始めた。その証拠が、小さな濾過石として手の中にある。




