第66話 濁りを戻さないために
夜が明ける少し前に、リクが来た。
前話の夜に「今夜また来る」と約束していた通りだった。
「昨夜遅くに婆ちゃんが確認した。井戸の底が少し濁ってるって。全部じゃない。底の方だけ、一筋だけ」
「全体じゃないのか」
「うん。桶で汲んだら上は透明なんだけど、底の方だけ薄く茶色い。婆ちゃんが、昼間みたいに底が見える澄み方じゃないって言ってた。でも前みたいに全部が茶色い感じでもないって」
「岩双点の土はどうだった」
「夕方見てきた。かなり湿ってた。踏んだら水が滲んでくるくらい。前より沈む感じがした」
ユークは受付台の前で少し考えた。ミレアがすでに手帳を開いていた。
「昨日の昼前に削りを入れた。夕方に村の井戸が濁り始めた。今朝の段階では底の一筋だけ。岩双点は大量に湿っている」
「タイムラグが半日で、到達量は今日の朝の時点ではまだ少ない」とミレアが書いた。
「直接見に行く。今日の朝のうちに村へ行って、井戸と岩双点を確認する」
「私も行きます」
「リク、案内してくれるか」
「うん」
*
村の共同井戸は広場の端にあった。
リクが先に桶を降ろした。引き上げると、水が揺れながら上がってきた。ユークはその桶を受け取り、光に透かした。
水の上の方は透明だった。底に近い部分に、薄い茶色が溜まっていた。一筋というよりも、底面から三分の一ほどが薄く変色している感じだった。匂いを嗅いだ。腐臭はない。泥の成分が混じっている匂いだった。
「飲んでいるか」とユークはリクに聞いた。
「昨夜から止めてる。婆ちゃんが止めろって」
「正しい判断だ。今は飲まない方がいい。汲み置きの水はあるか」
「夕方に変わる前に汲んでおいたのが少し残ってる」
「それを使いながら、今日の夕方に改めて確認してくれ。上がっているか、下がっているか、変化を教えてほしい」
ミレアが桶の水の状態を書き取った。「底部三分の一程度に薄い濁り。腐臭なし。泥由来と推定。飲用停止中」
「次に岩双点へ行く」
*
村の裏手を歩き、岩双点へ着いた。
岩が二つ並ぶ場所の土を踏むと、リクが言っていた通りだった。踏んだところから水が滲んだ。普通の地面の湿り方ではなかった。地下に水が満ちていて、体重をかけると表面に出てくる。
ユークは岩の間の地面にしゃがんだ。手で土を少し掘った。深さ一握りほどで指先が湿った。さらに少し掘ると、指の隙間から水が滲んできた。
「ここに水が来ている」
「前砦のせい?」とリクが言った。
「可能性が高い。前砦地下への流量が増えた。その一部が地下を伝ってここへ来た。ここから村の井戸の底へ、さらに流れ込んでいる」
「止められる?」
「削りをこれ以上増やさなければ、今来ている量は徐々に落ち着く可能性がある。ただし、今日の朝の時点で岩双点がこれだけ湿っているということは、今夜の井戸がどうなるかまだ分からない」
「悪くなる?」
「今日の夕方以降の変化を見る。今日の変化が昨日より大きければ、一晩で全体に広がるかもしれない。昨日より小さければ、底の一筋のまま落ち着く可能性がある」
「どうすれば分かる?」
「ここの変化を正確に知りたい。リクが三日おきに来て確認しているだけでは、今日から明日の変化を追えない。今日から当面の間、毎日来てほしい」
「来る」
「ただしそれだけでは不十分だ。夜の変化はリクが来ない間に起きる」
ユークはルーメの方を向いた。今日はルーメも連れてきていた。
「一つ試したいことがある」とユークはリクに言った。
「何?」
「ルーメは体の一部を分けることができる。欠片を一つここに置いておけば、夜の間もここの変化を拾える。欠片自体に意思はないが、水の成分に反応して色が変わる。明朝来た時に色を記録してくれれば、夜に何が来たか分かる」
リクがルーメを見た。ルーメが青緑の光を穏やかに出していた。
「魔獣のものを置いておくってこと?」
「そうだ」
「……危なくない?」
「欠片に危険はない。光るだけだ。反応が変わった時に知らせてくれる装置として使う」
リクは少し考えた。
「俺は別にいいけど、婆ちゃんたちは違うかもしれない」
「聞いてみてくれ。断られたら別の方法を考える」
*
井戸のそばに戻ると、ネラ婆がいた。朝の水汲みに来ていたのか、桶を手に持ったまま立っていた。ユークとミレアの顔を見て、目を細めた。
「来てくれたか」
「確認しました。底に少し濁りが出ています。今日の夕方以降の変化を見る必要があります」
「昨夜から汲むのを止めていた」
「正しい判断です。今は汲み置きで凌いでください。今日の夕方の状態を確認して、どうするか判断します」
ネラ婆が井戸を見た。
「また前砦のせいか」
「前砦の作業が岩双点を通じて影響している可能性があります。ただし全開にするよりは小さい影響のつもりで進めた。詰まりを抜けば解決という話ではなかった」
「詳しいことは分からないが。少しずつ改善していたのに、また濁ったというのは残念だ」
「そうです。対応を誤りました。今後の削りは今日の変化を確認してから決めます」
ネラ婆が少し黙った。
広場の向こうに、ユークを遠巻きに見ていた男の姿があった。今日も同じ場所に立って、こちらを見ていた。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「岩双点に、魔獣の灯りの欠片を置いて夜の変化を観測したい。リクに色を確認してもらいながら使う。欠片自体に危険はないが、見た目は光る生き物のようなものです」
「うちの近くに魔獣のものを置くのか」
「置くのは岩双点です。井戸の隣ではなく、村の裏手の空き地です。ただし村の土地ですから、断ってもらえれば別の方法を考えます」
ネラ婆は少し考えた。
「村人の中には嫌がる者もいるだろう」
「それは分かります」
「特に食い物や水に関わる場所の近くには、魔獣由来のものを置きたくないと思う者が多い。昔、魔獣が出た時に水が汚れたことがある。体に染みついている怖さだ」
「その感覚は正当だと思います」
「ただ岩双点は、今は使っていない場所だ」
ユークはネラ婆が続きを考えているのを、邪魔せずに待った。
「岩双点であれば、水場からは離れている。そこに置くなら、私は構わない。ただし村の者に何かあった時は、すぐに引き上げること」
「そうします」
「村の全員に了解を取れるかどうかは分からない。あたしが構わないと言うだけだ。それで良ければ」
「それで十分です。ありがとうございます」
ネラ婆が桶を持って家の方へ戻った。広場の向こうの男は少し待って、歩いていった。こちらへは来なかった。
*
岩双点へ戻った。
ユークはルーメに向かって言った。
「欠片を一つ、ここに置いていけるか。岩の間の地面に近い場所がいい。水の変化を感じやすい位置に置きたい」
ルーメが岩の間に移動した。
ルーメの体の端が、少し分離した。指先ほどの大きさの欠片が、ゆっくりと岩の間の地面に降りた。落ち着くと、欠片は青緑に光った。穏やかで安定した光だった。ルーメ本体の光量は少し落ちたが、動きは変わらなかった。
「ずっとここにいられるの?」とリクが言った。
「長くはもたない。一週間ほどが限度だと思う。その間に変化が確認できれば、次の対応を考える」
リクが欠片に近づいた。しゃがんで、光を見た。目を細めた。
「何かある時は色が変わるんだっけ」
「そうだ。今の青緑は安全な状態だ。灰青や橙になったら注意が必要だ。記録帳に色と日時を書いてほしい。毎朝、来られる時は」
「記録帳は前砦からもらえる?」
「持ってきてある」とミレアが言い、小さな手帳を一冊リクに渡した。
「色の名前と見本をここに書いておきます。それを見ながら記録してください」
ミレアが手帳の最初のページに色の対応表を書いた。青緑、橙、灰、灰青。それぞれ横に意味を一言で書いた。「安全」「注意」「沈殿」「確認要」。
「これを毎朝見て、欠片の色と照らし合わせて書いてくれ。日付と時刻と色だけでいい」
「分かった」とリクが手帳を受け取った。ちらりと中身を見て、また閉じた。
欠片が岩の間で静かに光っていた。
ユークはもう一度、欠片の周囲の土を触った。湿っている。欠片がここに置かれたことで、水の変化が夜の間も分かるようになった。
「ここで何かあった時、前砦に来なくていい。手帳に書いておいてくれれば、俺が確認しに来る。ただし橙や灰青が出た時は早めに知らせてほしい」
「走ってくる」
「ありがとう」
リクが手帳を外套の内側にしまった。
*
村から前砦への帰り道を歩きながら、ミレアが言った。
「村との関係が変わりましたね」
「何が変わった」
「以前は前砦が何か変わった時に村から知らせが来る、という形でした。今日からは村の側で欠片の色を記録して、前砦が確認しに行く、という形になります。前砦が村側に出向く理由ができた」
「出向く理由、か」
「管理者としての仕事の範囲が、前砦の外まで広がっています。以前は前砦地下と外縁区画だけが現場でした。今は岩双点と村の井戸も現場になっています」
「水が繋がっている限り、そうなる」
「それは意図していましたか」
「水脈を管理するなら、水が行く先まで見ないといけない。前砦の地下だけ見ていても、下流で何が起きているか分からない。ただ、ここまで早く繋がるとは思っていなかった」
「早すぎましたか」
「いや、早い方がいい。知らないまま削りを増やしていたら、もっと大きな問題になっていた」
ミレアが手帳を開いた。
「今日の整理をしてもいいですか」
「どうぞ」
「前砦地下の堰削りが岩双点を通じてクルン村の井戸底に影響した。影響の規模は底の一筋程度で、全体的な濁りではない。岩双点に欠片を設置、リクが毎朝色を記録。今後の削りは今日から明日の変化を確認してから判断。以上です」
「追加でもう一点。今日の対応で、村の了解なしに欠片を設置しなかった。ネラ婆の了解を取ってから設置した。これを記録に入れてくれ。どういう形で了解を取ったかも含めて」
「入れます。『岩双点への欠片設置、ネラ・ダールの了解のもとに実施。井戸への設置は住民の感情的懸念を踏まえ見送り。妥協案として岩双点への設置を選択』という形でいいですか」
「それでいい」
「村との信頼関係の記録として残します」
山道を登りきると、前砦が見えた。
*
前砦に戻ると、受付台の前で何かの感触があった。
パスを通じてフェズの状態を確認した。
フェズから返ってきたのは、いつもの外縁区画の警戒とは違う種類の信号だった。外縁の奥ではなく、前砦の周辺。人間の動き。ただし利用者でも来訪者でもない。
「フェズが何かを拾っている」
「侵入者ですか」とミレアが立った。
「侵入者の信号とは違う。外縁への侵入パターンなら、もう少し緊張した信号が来る。これは……前砦の周囲で、こちらを見ている感触だ」
「誰かが見ている」
「利用者の帰り道にしては遅い時間だ。グニェル一行はいない。ドーランの定期便でもない」
ユークはパスを通じてフェズに聞いた。いつからだ、と。
フェズから返ってきたのは、昨夕から、という感触だった。
昨夕。グランの削り作業の後、前砦に戻った時間帯から。
「昨日から来ている」
「見ているだけですか」
「今のところ動きはない。ただし、フェズが注意信号を送っているということは、前砦の導線から外れた動き方をしている人間がいる」
「商人側の誰かですか」
「分からない。ただフェズが「既知の利用者ではない、だが顔に見覚えがある」という含みの信号を送っている。完全な見知らぬ者ではないらしい」
「商人側の関係者かもしれない」
「今夜確認する。フェズに動きを続けて追ってもらう。明日の朝に状況を聞く」
「記録に入れますか」
「今日の日付で、フェズの観測として入れてくれ。前砦周辺に既知ではない人間の動き、昨夕から、現在も継続中。商人関係者の可能性。詳細は明日の朝の確認待ち。以上で」
「了解しました」
前砦の扉を閉めた。
岩双点では、ルーメの欠片が青緑に光っているはずだった。リクが明朝見に行く。その色が変わっていなければ、今夜の変化は小さかったということになる。変わっていれば、堰の状態を見直す必要がある。
村との間に、新しい観測点ができた。
前砦の周囲に、正体の掴めない動きがある。
二つのことが同時に動いていた。




