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第65話 刻印はまだ読めない

 朝一番に、ミレアが観測孔の漏れ量を測定した。

 前日の夕方に設けた基準に合わせ、石蓋の縁から一時間あたりに染み出す量を小瓶で計測した。昨夜から今朝にかけての量が、昨日の倍になっていた。


「増え方が早いです」


「今日中に削りを入れなければ、孔が広がる前に堰が動く」


「堰が動くというのは」


「内側からの圧力が石蓋の保持力を超えれば、石片が外れる。そうなれば一気に流れ込む。今日の削り作業は午前中に入れる」


 計算表をミレアが広げた。前日仕上げておいたものだった。流速の推定値と処理量の余力から、削り量の上限が出ている。


「一回目の削りで開けていい面積は、今のモルトの処理余力に対して、縦横それぞれ指二本分の幅が上限です。それ以上開けると処理量を超える可能性があります」


「指二本分か」


「今の処理量と仮板の組み合わせで、余力が一割あります。その一割を全部使う削り量です。もし処理余力が今日の調子によって変わるなら、それより少なめに抑えた方が安全です」


「グランに伝える。指一本半から様子を見てほしいと。削ってから流量を確認して、問題なければもう少し削ることができる」


「了解しました。グランへの指示は私が出します」


 ミレアがパスを通じてグランに伝えた。ユークは紙と炭を受け取った。今日の拓本用の道具だった。


  *


 地下奥の通路は昨日より通り慣れた感じがした。

 五十歩ほどの距離で旧堰に到着した。昨日見た時より、継ぎ目からの水が増えていた。細い筋が三本になっていた。


 ルーメが先に近づいて光を当てた。灰青と蒼の混じった色が出た。昨日と同じ色だったが、少し深みが増している。


「濃くなっている」


「増えた分だけ色も変わりますか」


「量が増えれば成分の濃度も変わる可能性がある。ルーメの色はそれを反映しているのかもしれない」


 ミレアが手帳に書いた。


「旧堰近傍のルーメ色。前日と同様の灰青蒼混合。ただし彩度が昨日より高め」


 グランが堰の左下の継ぎ目に前脚を当てた。削り作業の準備に入っている。


「拓本を先にとる。グランが削り始める前に形を記録する。削った後で刻印が見えにくくなる可能性がある」


「分かりました」


 ミレアが堰の表面に紙を当てた。炭を横に持ち、紙の上から擦っていく。刻印の凹凸が紙に転写されていく。

 ユークは横でルーメに光量を調整してもらいながら、刻印の形を目で確かめた。


 三つが縦に並んでいた。上から順に、一番目が縦線主体の形。二番目が縦横ほぼ等分。三番目が横線主体の形。三つそれぞれで縦横の比率が異なっていた。


「やはり施設番号ではない」


「どうしてそう見えるんですか」


「施設番号は通し番号か記号で付ける。同じ系統の形が、内部の比率だけ変えて並ぶことはない。これは何かの量を三種類で表している。比率か、優先度か、流量の割合か」


「三方向への配分を示すなら。三つのうちどれが最大でどれが最小かは、今見える範囲で分かりますか」


「縦線が多い方が大きい比率だとすれば、上の刻印が最大になる。横線主体の下の刻印が最小になる。ただし縦線の多さが比率を意味するかどうかは確認できていない」


「三方向のうち、今分かっている方向はどれですか」


「前砦の処理構成の方向が一つ。クルン村の方向が一つ。あと一つは分からない」


「三番目はどこだと思いますか」


 ユークは少し考えた。


「今は分からない。分からないまま推測を重ねても意味がない」


 ミレアが拓本から手を離した。紙の上に三つの刻印が転写されていた。細部まで出ている。


「もう一枚取ります。記録用と参照用で二枚あった方がいい」


「頼む」


 二枚目の拓本が取られていく間、ユークはルーメの色と刻印を交互に見ていた。

 三つの刻印が何を意味するのか、今すぐ解析できれば第五沈殿槽の旧機能が見えてくる。村への配分の仕方も分かる。現在の水流の偏りの原因も読めるかもしれない。


 だがグランが待っている。今日の削り作業は流量が増え続けている今、一時間単位で状況が変わる。拓本の解析に時間を使えば、その間に石蓋が動く可能性がある。


「読みたいが、後にする」


「今は読まないんですね」とミレアが確認するように言った。


「拓本がある。今日読めなくても、明日読める。明日読めなくても、来週読める。だが今日の削りを今日入れなければ、明日は石蓋が動いているかもしれない」


「優先順位が決まっています」


「刻印はここにある。なくなるわけじゃない」


 ミレアが二枚目の拓本を手帳に挟んだ。


「記録完了です」


「グランに合図してくれ」


  *


 グランが削り始めた。

 左下の継ぎ目に前脚の先端を当て、石を少しずつかいた。力を入れすぎず、削り幅を指一本半に保ちながら進んだ。石の粉が水に混じって流れ出た。


 削り始めてから少しして、継ぎ目の水の量が変わった。

 少し増えた。


「水量が変わりました」


「削った分だけ流れ道が広がった。ルーメ、色を確認してくれ」


 ルーメが継ぎ目に近づいた。

 色が変わった。


 灰青と蒼の混合から、灰青が少し薄れた。蒼の割合が増えた。純粋な蒼ではなく、それに近づいた感触の色だった。


「水の性質が変わった」


「増えた水の方が、蒼の比率が高いということですか」


「堰の向こうに溜まっている水と、今まで漏れ出ていた水の成分が違う可能性がある。堰を削ることで出てくる水は、観測孔から出ていた水よりも蒼みが強い。より深いところの水だ」


「それは危険ですか」


「今は判断できない。ルーメが灰赤を出していない。白も出ていない。今見えている蒼は今まで出ていなかった色だが、すぐに有害とは言えない」


「観察を続けますか」


「続ける。グランの削り作業をいったん止めてくれ」


 ミレアがグランに伝えた。グランが手を止めた。

 一分ほど待った。


 流量が落ち着いた。削った継ぎ目から来る水の量が、削り始めより少し多いが、安定してきた。


「モルトの状態を確認する」


 パスを通じてモルトに聞いた。

 重いが眠りかけてはいない、という感触が返ってきた。削り前よりは増えたが、処理できている範囲だという感触だった。


「モルトは対応できている。仮板との組み合わせで今のモルトの余力に合っている」


「一段目の削りは成功ですか」


「成功だ。これ以上は今日は削らない。今日はここで様子を見る。一晩このまま流して、明日の朝の水位を確認してから次の段を考える」


「記録します。削り量、指一本半相当の開口。流量の変化、削り前の一割増し程度。モルトへの負荷、余力内。ルーメの色、灰青から蒼寄りに変化。以上でよいですか」


「合っている。ルーメの色変化は、今日の新しい記録として色見本表に追加してくれ」


「蒼の定義が必要です。どう書きますか」


「暫定で、「堰奥からの流水に反応する深色。組成未確定。処理可否不明」としてくれ。今日の段階でそれ以上の定義はできない」


「入れます」


  *


 地下から前砦に戻ると、拓本をもう一度広げた。

 三つの刻印が紙の上に並んでいる。昨日の手書き写しより正確だった。凹みの深さまで再現されている。


 ユークは拓本を見た。

 縦線と横線の比率。上から、縦優位、中間、横優位。三つの比率が三方向への何かを示しているとすれば、その何かは流量なのか、優先順位なのか、時間帯なのか。


 前砦への配分が最大で、村への配分が中程度で、三番目の方向が最小だとすれば話は通る。だが確認する方法が今はない。

 エルリオの地盤記録の写しはまだ来ていない。旧図の空白区域に関する追加資料も待っている状態だ。


「エルリオへの確認状を送ってあるか」


「送りました。地盤記録の写しを求める内容で。まだ返信が来ていません」


「今日の刻印の拓本も送る。エルリオが監督院の保存庫で同じ系統の刻印を探せるかもしれない。配分比率の読み方が分かる資料があれば、この刻印の意味が分かる」


「文面を起こします。ただし今回も地盤記録という名目にしますか」


「そうしてくれ。刻印の拓本を同封するが、「施設内で見つかった保守刻印の参照を確認したい」という言い方にする。直接的に旧堰の刻印と書くことは避ける」


「分かりました」


 ミレアが文面を書き始めた。拓本の写しを同封する準備も始めた。

 ユークは拓本から目を離した。


 今日できることはした。削りを一段入れた。流量は安定した。モルトが対応できている。刻印は記録した。エルリオへの確認も出す。

 読みたかった刻印は読めないまま残った。三番目の配分先がどこかも分からない。第五沈殿槽がどんな旧管理システムの一部だったのかも、今日は一歩しか進んでいない。


 だが一歩は進んだ。

 そう思っていた時、前砦の扉が叩かれた。


  *


 扉を開けると、リクが立っていた。

 走ってきた顔だった。頰が赤く、肩で息をしていた。


「管理人さん、井戸が濁った」


「今朝か」


「昨日の夕方から。今朝も同じです。底が見えなくなっています。お婆ちゃんが早く来いって」


 ユークはリクを中に入れた。


「昨日の夕方から、というのは、何時頃だ」


「夕方の明るいうちに確認した時はまだ澄んでいたけど、夕方の終わりに婆ちゃんが見たら変わっていたって。暗くなる前の時間です」


 昨日の夕方。グランが削り作業を入れたのは昨日の午前中だった。


「削り前後と、濁りの発生時刻の関係を確認する」


「昨日の削りは午前中ですね。削り完了は昼前。濁りが出たのは昨日の夕方。タイムラグが半日程度あります」


「削りから始まった可能性がある」


「でも、削りとはどこで繋がっているんですか。前砦の地下と村の井戸は」


「岩双点だ。昨日の削りで前砦地下への流量が増えた。その一部が、岩双点の方向にも流れた可能性がある。岩双点はクルン村の旧湧き水跡に繋がっている」


「旧湧き水跡から井戸へ」


「地下水が繋がっていれば、前砦地下の変化が村の井戸に届く。どれくらいのタイムラグかは今まで測っていなかった。半日というのが今日初めて出た数字だ」


 リクが話を聞きながら立っていた。


「削ったのが原因ですか」


 とリクが言った。声に責めるような感触はなかった。事実を確認しようとしている声だった。


「可能性がある。今は可能性の段階だ」


「止めてほしいですか」


「止める前に確認する。今日の水位と岩双点の土の湿り具合を教えてくれ。今夜また来られるか」


「来られます」


「頼む」


 リクが出ていった。

 ミレアが手帳に書いた。


「クルン村からの報告。昨日夕方より井戸の濁り再発。底が見えない状態。昨日の堰削りとのタイムラグは半日程度。因果は現時点で可能性の範囲。今夜リクが岩双点の状態を報告予定」


「グランへの追加の削りは今日は入れない」


「今夜の様子を見てから判断しますか」


「そうだ。削りを増やす前に、今日の一段が村に何を引き起こしたかを確認する。処理量が余力内に収まっていても、村側への影響が出るなら次の削りの計算が変わる」


「削り量と村側への影響を同時に見ながら調整するということですね」


「そうなる。これが配分管理だ」


 ミレアが少し手を止めた。


「先輩が「詰まりを抜けば解決ではない」と言っていた意味が、今日分かった気がします」


「どういう意味で」


「詰まりを取れば水は流れます。でも、流れた水がどこへどれだけ行くかを管理しないと、どこかで別の問題になる。流すことと、流し方を制御することは別のことです」


「そうだ」


「それが「配分管理」ということですか」


「旧堰が最初から流量調整のために作られていたとすれば、そういうことだ。誰かが、どこへどれだけ送るかを考えて設計した。その設計が刻印に残っている」


「読めれば分かるんですね」


「読めれば分かる」


 ユークは拓本を手帳に挟んだ。

 今日は読めなかった。明日も読めないかもしれない。エルリオの返信が来れば、読むための手がかりが増える。


 刻印はまだある。なくなるわけじゃない。

 前砦の外では、夕方の光が石壁を斜めに照らしていた。今夜リクがまた来る。村の井戸の様子が届く。その数字と今日の削りの結果を照合すれば、明日の判断の材料が揃う。


 地下では、グランが今日の削り口を確認している低い振動が伝わっていた。ルーメが観測孔の近くで、今夜も灰青と蒼の間の色を出し続けているはずだった。

 刻印の意味は今日分からなかった。


 だが第五沈殿槽は、複数の方向への配分を設計されていた施設だった。誰かが作り、誰かが管理し、誰かが閉じた。その痕跡が石の表面に残っていた。

 それだけは、今日確認できた。

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