第64話 全開にしてはいけない堰
夜中に一度確認した観測孔の漏れ量は、昨夕より増えていた。
明け方にもう一度確認すると、さらに増えていた。細い筋が二本になっていた。石蓋の縁から染み出す量が、一日で目に見えて変わっていた。
「今夜のうちに変化した」とミレアが書いた。
「昨夕から今朝にかけて、一晩で倍近くになった。このペースが続けば、明日か明後日には量が問題になる」
「問題というのは、どの段階のことですか」
「前砦地下の処理槽に直接流れ込む量になった時だ。今は観測孔の縁から砂利に染みているだけだ。ただし縁の石片が今の圧に耐えられなくなれば、孔が広がる。そうなれば石蓋が開く」
「石蓋が開いたら」
「一気に流れ込む。量によってはモルトの処理が間に合わない」
ミレアが筆を走らせた。
「旧堰の対応を今日中に決める必要があります」
「そうだ」
ユークは観測孔の前から立ち上がった。砂利の上に膝をついていた時間が長く、足が少し冷えていた。
「グランに頼んでくれるか。旧堰を直接見てきてほしいと」
「地下の奥まで行かせるんですか」
「今まで行かせていなかった。だが今日は必要だ。第五沈殿槽系の方向に何があるか、グランならパスで伝えてくれる。目で見なくても、体で感じる情報がある」
ミレアがパスを通じてグランを呼んだ。
*
地下へ降りると、前砦地下の処理槽が朝の作業を続けていた。
第一沈殿槽の底に粒子が溜まっている。第二薄め槽の灰泥が均一に回っている。モルト処理場では、モルトが縁を動いていた。今朝のペースは通常範囲に見えた。
ユークはモルトに話しかけた。
「昨夜の量はどうだった」
パスを通じて聞いた。
モルトから返答が来た。夜の半ばから少し多くなった、という感触だった。昨夜グランが入れた仮板のおかげで流入量は抑えられているが、昨日の昼より全体的に重い。そういう感触だった。
「もう少し続くかもしれない。無理なペースにしないでくれ」
グランが来た。地下への入口から降りてくる振動が先に届いて、それからグランの巨体が通路に収まった。
「今から前砦地下の奥に行ってほしい。旧堰がある方向だ。今まで入ったことがない区画だが、感じたことをそのまま伝えてくれれば構わない。壊すことも、開けることもしなくていい。確認だけだ」
グランが低く返した。了解の感触だった。
「一つだけ頼む。観測孔の石蓋の先、つまり第五沈殿槽系の入口から奥に向かって進む。そこに旧堰がある。堰の状態、圧力の感触、石の様子を教えてくれ。危ないと感じたら戻ってきていい」
グランが動き始めた。処理槽の横を抜け、奥の石壁の方へ向かった。
ユークはその場で待った。ミレアも黙って手帳を持っていた。
*
十分ほど経って、グランからパスが届いた。
石の感触として来る情報だった。言葉ではなく、重さと硬さと圧力の組み合わせだった。
堰は詰まっている、という感触。詰まっているが壊れているわけではない。石組みの構造が今も原形を保っている。ただし内側から圧力がかかっていて、表面の石が少し押し出されている。
「詰まっている、か」とユークは言った。
「全部塞がっているんですか」
「詰まりというのは、完全に塞がっているわけじゃない。流れるべき量が流れていない状態だ。本来なら一定量を通していた堰が、長年の蓄積で流路を狭めている。だから圧が上がった」
「それなら詰まりを取れば水位は下がります。全部開ければいいのでは」
ユークはミレアの言葉を聞きながら、少し考えた。
今ミレアが言ったことは、正しい流れの一歩目だ。詰まりがある。詰まりを取れば流れる。水位が下がる。それは間違っていない。
「グランに、堰の向こう側にどれだけの水があるか確認してもらう」
パスを通じてグランに聞いた。
返答が来た。
堰の向こうは、かなりの量がある。という感触だった。水ではなく、水と泥と圧力が合わさった重みとして来た。グランが岩を通じて感じる「水の重さ」の表現だった。
「向こうには大量に溜まっている。長い時間をかけて、旧堰の手前に積み重なった水と泥だ。それが今、内側から圧を作っている」
「全部開ければ一気に出てきます」
「そうだ。一気に出てくる。その量はモルトが一日で処理できる量を超える可能性が高い。昨日の処理量と今の処理槽の容量を考えると、全開にした場合に来る量は、今の三倍以上になると見ている」
「三倍」
「三倍の量が来た場合、第一沈殿槽は溢れる。溢れた水は前砦地下全体に広がる。モルトは眠りかけではなく、完全に処理停止になる可能性がある。処理が止まった水は、どこへ行くか」
ミレアが少し黙った。
「前砦の外に出ます」
「そうだ。前砦の外に出た処理前の水は、傾斜に従って村の方向へ流れる。旧堰から来る水には今の処理槽を通っていない成分が入っている可能性がある。灰青の水が直接外に流れれば、クルン村の井戸がどうなるか分からない」
「だから全開にできない、ということですね」
「詰まりを取れば解決、という問題じゃない。堰は流量を管理するためにある。管理できる量だけを通す。それが前砦の処理槽にも、村の水にも影響を出さない条件だ」
ミレアが書いた。「旧堰全開の危険性。モルト処理上限超過、処理前水の外部流出、村側への影響の可能性。全開は現時点で不可。代替として流量制御が必要」
「グランに伝える。堰を削る作業を準備してほしいと」
*
グランに削りの準備を頼んだ。ただし今すぐ削るのではない。どこをどれだけ削れば、流量をどの程度に抑えられるか。グランが石の構造を確認しながら、削れる場所と量を探る準備だった。
作業の指示を出してから前砦に戻ると、受付台にグニェルからの手紙が一通届いていた。使い走りが朝のうちに来ていたらしく、ミレアが受け取って置いておいたものだった。
ユークは封を開けた。
短い文だった。
「昨日は早期撤退となり、次の利用日程の見通しが立っていない。詰まりが取れれば利用が再開できると聞いているが、対応の見通しを教えてほしい」
「詰まりが取れれば利用が再開できる、と誰かが言ったか」
「私がそういう意味に取れる話し方をした可能性があります。昨日、水位が上がった原因として旧堰の詰まりを挙げました。旧堰が直れば水位が安定すると聞こえた可能性はあります」
「そう聞こえても仕方ない。説明が足りていなかった」
「返信を書きますか」
「書いてくれ。堰の問題は詰まりだけではない。水量の調整が必要で、それには段階的な作業が必要だと説明する。利用再開の見通しは今週中に改めて出す。ただし全開にすれば解決、という話ではないことだけ先に伝えてくれ」
「理由は入れますか。なぜ全開できないか」
「モルトの処理限界と、村側への水質影響の二点だけ入れる。詳しくは口頭で説明するとしておいてくれ」
「分かりました」
ミレアが返信の文面を起こし始めた。ユークは受付台の前に立ち、今日の作業手順を頭の中で整理した。
グランが削りの準備を進めている。削る量は、今の前砦地下の処理能力に合わせて決める。上限は、モルトが今日処理できる量の八割。それを超えない流量になる削り幅を計算する。
「ミレアに数字を出してもらう必要がある」
「今日のモルトの処理量の上限を計算しますか」
「そうだ。今週の一日平均処理量から、負荷なし状態の上限を出してくれ。それに対して今の水位対応で余力がどれだけあるかを出す。その余力の範囲内で、堰から追加で流せる量を決める」
「今日中に計算できます」
「それを今日のうちにグランに伝える。グランが削れる範囲が決まれば、明日か明後日に作業を入れられる」
「段階的な開放ということですね」
「全開ではなく、刻む。一段削って様子を見る。水位が安定すれば追加で削る。モルトが対応できている間だけ削り続ける。それが今できる最善だ」
「村側への影響を確認しながら進めるということも加えますか」
「加えてくれ。リクの観測記録と、岩双点の湿気記録も、削り作業のタイミングと照合する」
ミレアが書いた。「旧堰対応方針。段階的削り開放。削り量はモルト処理量の余力に連動。一段削り→様子見→再評価。村側観測と同期」
ユークはその記録を横で確認した。
「グランへの指示にルーメも加えてくれ。堰の近くで色を確認させる。灰青の水が、削った後にどう変わるか見ておきたい」
「ルーメに同行させます」
*
午後になって、グランから報告が来た。
パスを通じた感触だった。
堰の石組みを確認した。削れる場所は二か所ある。一か所目は堰の左下の角、石の継ぎ目が緩んでいる部分。少し削れば隙間が広がり、水が通る。二か所目は堰の上部、かつて弁のような仕組みがあったらしい痕跡がある部分。今は塞がっているが、元から開閉を想定した作りになっている。
「上部に弁の痕跡がある」
「どういう意味ですか」
「旧堰は、もともと流量を調整できる設計だったということだ。詰まったのではなく、閉じられていた可能性がある。長い時間が経って石が塞いだか、誰かが閉めたか。どちらかだ」
「閉めた、ということはあり得ますか」
「施設が閉鎖になった時に閉めた可能性がある。配分を止める理由があれば、流路を閉じる。その後長く放置されて、石や泥が固まって今の状態になった」
「配分を止めた、ということは」
「第五沈殿槽が村側へ水を配分していたとすれば、施設の閉鎖に際して配分も止めた。それが自然な手順だ」
ミレアがそれを書いた。
「今日の作業は左下の継ぎ目を確認するだけにする。削る前に、ルーメにその近くで色を見てもらう。何が出るか確認してから、削るかどうか判断する」
「今日は削らないんですか」
「数字が揃っていない。モルトの処理余力の計算が出ていない。計算なしに削るのは順序が違う」
「分かりました。計算を先に仕上げます」
ミレアが計算を始めた。今週の日別処理量の平均、最大値と最小値の差、仮板を入れた時の負荷変化率。数値が手帳に並んでいく。
ユークはその間に地下へ降りた。グランとルーメに同行して、旧堰の近くまで進んだ。
今まで踏み込んでいなかった区画だった。
前砦地下の処理構成を抜けた先、石壁の向こうに通路がある。グランが以前確認した通り、壁の一部が実は壁ではなく通路になっていた。低く、狭い。グランは体を折って進んだ。ユークはほとんど頭をつけるような高さで歩いた。
五十歩ほど進んだところで、旧堰が見えた。
石組みの壁だった。床から天井近くまで、石を積み上げて塞いでいる。表面が湿っていた。一部に苔が生えていた。石の継ぎ目から、細い水が糸のように垂れていた。
「これが旧堰か」
グランが堰の表面を前脚で触った。石の硬さを確かめている。
ルーメが近づいた。堰の表面を照らした。
色が出た。
青緑ではなかった。灰青でもなかった。
灰青の奥に、深い蒼が混じっていた。今まで見たことのない混じり方だった。
「また新しい色だ」
ルーメが揺れた。色が安定しない。灰青と蒼の間で揺れている。
ユークはルーメの色を見ながら、石組みの表面を確認した。
左下の継ぎ目から水が出ている。その水がルーメに反応を起こしている。
ルーメの色が灰青と蒼の間で揺れ続ける中、グランが堰の表面を少し動かした。
石の一部がずれた。表面を覆っていた泥と苔の層が剥がれた。
そこに刻印があった。
ユークは近づいた。
石組みの表面に、手作業で刻まれた意匠があった。二重の円の中に縦線と横線の組み合わせ。第五沈殿槽の観測孔の蓋で見た刻印と同じ系統だった。ただし、この刻印は一つではなかった。
三つあった。並んでいた。
形がそれぞれ微妙に違った。縦線と横線の長さの比率が、三つとも異なっている。
「比率が違う」
グランが離れた。ユークはしゃがんで三つの刻印を見比べた。
単なる装飾ではない。観測孔の蓋の刻印と同じ系統の意匠で、数字や文字ではなく比率で何かを示している。
「これは施設番号じゃない」
観測孔の石蓋を確認した時、ユークは「施設番号ではない、配分比率のように見える」と感じていた。あの時はまだ確信が持てなかった。だが今、旧堰の表面に三つ並んだ刻印を見ると、それが記憶の感触と重なった。
「三方向への配分比率か」
言葉にした瞬間、それが正しいかどうかは分からなかった。だが、旧堰に三つの刻印が並んでいる。第五沈殿槽から流れ出る水が、どこかへ分配されていた。その分配の比率が、この刻印に書かれている可能性があった。
「グラン、今日はここまでだ。刻印の拓本を取らせてくれ」
パスを通じて伝えた。
グランが動かずにいた。
「ありがとう。今日の確認はできた。削る作業は明日以降、数字が揃ってから始める」
グランが低く返答した。
ユークは手帳を取り出した。光の加減が悪い中、刻印の形を書き取った。正確な拓本は明日ミレアと一緒に来てから取る。今日は形だけ記録しておく。
三つの刻印を書き写しながら、ユークは壁を見た。
三方向への配分。村の方向、前砦の方向、そしてもう一方向。どこへ向かう配分なのか、今日中に分かることではなかった。
「明日、ミレアに来てもらう」
ルーメの光が揺れていた。灰青と蒼の色が、旧堰の湿った石の表面を照らし続けていた。
*
前砦に戻ると、ミレアが計算表を広げていた。
「モルトの処理余力の計算が出ました。今週平均の処理量から、余力は一日処理量の二割程度です。現在の仮板による制限を維持したまま、追加で流せる量は処理量全体の一割が上限になります」
「一割、か」
「それ以上だと、今週のペースでは夜間に眠りかける可能性があります。安全側で見れば、一割以下が妥当です」
「グランへの削り量の基準を、処理量の一割に相当する流路開口面積にする。明日、グランとその計算を合わせる」
「数値に変換するには、流速の推定が必要です。今の観測孔から漏れている量と流速を測定すれば、基準になる数字が出せます」
「今夜測定できるか」
「やります」
ミレアが観測孔の方向を見た。
「もう一点。旧堰の刻印の件は記録に入れますか」
「入れる。拓本は明日取る。今日書いた写しを先に入れておいてくれ。三つの刻印、形の違い、位置関係。それだけ」
「了解しました。堰の刻印と、観測孔の石蓋の刻印を並べて照合します。同系統かどうかも確認します」
「今夜できるか」
「写しがあれば今夜中に並べられます」
「頼む」
ユークは手帳の写しをミレアに渡した。
グニェルへの返信はミレアが仕上げている。今日の作業で把握したことは、旧堰の構造と削り方針と、刻印の発見だ。削りの作業は明日以降で、今日は確認のみで終わる。
「今日の整理をしてくれ。把握したこと、明日以降の作業、未確定のこと。三つに分けて出してくれ」
「把握したこと。旧堰の石組みは原形を保っている。詰まりではなく閉じられた可能性がある。左下の継ぎ目から灰青水の漏れ。上部に弁の痕跡。三つの配分刻印の存在。以上です」
「明日以降の作業は」
「旧堰の刻印の拓本取得。流速測定と削り量の計算。グランによる削り作業の一段目。商人への利用再開見通しの連絡。リクと岩双点の観測との照合。以上です」
「未確定は」
「三つの刻印が示す配分先。閉じた経緯と時期。灰青と蒼が混じった色の意味。第三の配分方向がどこか。以上です」
「全部出した」とユークは言った。
「出さないと把握できないので」
「そうだな。ありがとう」
地下から、グランが戻ってきた振動が届いた。前砦の石床を通じて来る、低い重みだった。
今日の確認は終わった。
旧堰は開けられる可能性がある。ただし全開ではない。刻んで、測って、確認しながら開ける。詰まりを抜く話ではなく、何をどこへどれだけ送るかという話だ。
それが今日分かったことだった。




