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第61話 老婆の湧き水

 翌朝、旧図を持って村へ行くことにした。

 ミレアが前日の夜に旧図の写しと照合表を作っておいてくれていた。前砦からクルン村の裏手にかけての地形が手帳の見開きに書かれていた。旧図の水路線と、ネラ婆が言った「岩が二つ並んでいる場所」の位置が重ねられている。


「旧図の空白区域の南端と近い場所になります」とミレアは言った。


「正確な位置は現地で確認しないと分かりませんが、範囲として重なっています」


「行く価値はある」


「ネラ婆に事前に伝えた方がいいですか」


「伝えなくていい。朝に来れば会えるだろう。伝えると、村の他の人間まで集まりかねない」


「それは困りますか」


「複数の人間がいると、証言が揃えられる可能性がある。それぞれが別々に話したことを、照合できる形で記録したい」


 ミレアは手帳に書いた。「聞き取りは個別に。証言の突合は後で行う」


 二人で前砦を出た。


  *


 山道を下って村に入ると、朝の早い時間でも広場近くで動いている人間が数人いた。

 ユークの顔は、前砦の管理者として村に来た回数が増えてから、少しずつ覚えられてきていた。避けられることは減ったが、歓迎されるわけでもない。視線だけが来て、声はかからない、という程度の関係だった。


 リクは広場の端で桶を持っていた。朝の井戸確認の習慣がついている。ユークの姿を見て、小走りに来た。


「今日も来たんですか」


「ネラ婆はいるか」


「さっき畑の方に行ってたと思います。昨日、前砦に行ったって話してたから、何かあったんですか」


「裏手の湧き水跡の場所を教えてほしくて来た。案内してもらえるか」


「俺が教えた話ですか。行きます」


「ありがとう」


 リクが先に歩き始めた。広場を抜けて、村の外れの細道へ入る。石畳が途切れ、踏み固めただけの土道になった。

 道の脇に畑が続いていた。麦の畝が並んでいるが、土の色が場所によって違った。黒みが強い部分と、白っぽく乾いた部分が隣り合っている。水の回り方が均一ではないことが、土の色から分かった。


「昨日の水はどうだった」


 とユークは歩きながらリクに聞いた。


「また澄んでました。底が見える日が最近続いてます。でも朝と夕方で少し違う気がして、朝の方が澄んでいる」


「夕方は少し濁るか」


「濁るというか、底が見えにくくなる感じです。気のせいかもしれないけど」


「それも記録してくれ。澄んでいる、少し濁る、だけでいいから、朝と夕方それぞれ書いておいてくれ」


「分かった」


 ミレアが手帳に書いていた。「リク観測:朝・夕の差異あり。夕方がやや濁る傾向。継続記録を依頼」


  *


 道が傾斜を登り始めた頃、前方にネラ婆の後ろ姿が見えた。腰の曲がったシルエットが、畑の端で何かを確認していた。


「ネラさん」とリクが声をかけた。


 老婆が振り向いた。ユークとミレアの顔を確認して、動じた様子がなかった。来るだろうと思っていた、という顔だった。


「昨日の続きか」


「湧き水跡の場所を見せてもらいたい」


「この先だ」


 ネラ婆が道を示した。畑の端を過ぎると、草が伸びた空き地があった。昔は耕していたが今は放置されているらしく、草の生え方が畑のそれより高い。

 岩が二つ並んでいた。


 一抱えほどの大きさの石が、少し間を置いて並んでいる。人が置いたのではなく、もとからそこにあった岩に見えた。岩の周りの草が、他の場所より緑が濃い。


「ここです」


 ユークは岩の傍に近づいた。しゃがんで地面を触った。草の根元の土が、手のひらに冷たい感触を返した。


「湿っている」


「昨夜も確かめた。三日前から気づいていたが、昨日管理人さんに話してから、もう一度見たら確かに土の底が湿っていた」


「表面の草が原因じゃないんですか」


「そこの草は西向きで、朝露は溜まりにくい場所だ。草が湿るより、土の下から来ている感じがする」


 ユークは岩と岩の間の地面をもう少し確認した。二つの岩が向かい合っている方向が、前砦のある山側を向いていた。


「昔、この場所から水が出ていたというのは、どのくらい前の話ですか」


「あたしのじいさんの代から聞いていた。じいさんが子どもの頃は、ここに細い流れがあって、その水を引いて東側の畑に水路を通していたと。じいさんが死ぬ頃にはもう流れが細くなっていて、あたしが生まれた時にはもうなかった」


「流れが細くなったのは、いつ頃のことか分かりますか」


「迷宮の水が悪くなり始めた頃と一緒だったと、じいさんが言っていた。迷宮が死んでから、山の水がだんだんおかしくなって、湧き水も枯れた。そういう話だったよ」


 ミレアがペンを走らせていた。書き取りながら聞いている。


「ネラさん、今話してくれたことを、記録に残させてください。個人の証言として、日付と名前を入れた形で」


「構わない」


「名前はフルネームを教えてもらえますか」


「ネラ・ダール。それだけでいいよ」


「ありがとうございます」


 ミレアが手帳に書いた。証言者、ネラ・ダール、聞き取り日時。そして話の内容を整理して書き直していく。


  *


 ユークは岩の間に立ったまま、旧図の写しを広げた。

 旧図で確認した範囲と、今立っている場所の方角を照合した。前砦の観測孔の位置、第五沈殿槽系と推定される区域の南端。そこからこの場所に向かって、地下を流れる水路があれば、湧き水として出ることができる。


 旧図には、その水路がない。


「旧図に記録されていないだけで、水路はあった可能性がある」とユークはミレアに向けて言った。


「第五沈殿槽系の南方向への接続、ということですか」


「推定だが、整合している。第五沈殿槽系が旧図の空白区域に存在し、沈殿後の水を周辺に配分していたとすれば、この湧き水跡への水路があってもおかしくない。配分先の一つが、ここだった可能性がある」


「記録に入れます。ただし確定ではなく、仮説として」


「そうしてくれ。断定はまだできない」


 ネラ婆が横で聞いていた。特に口を挟まなかった。


「ネラさん、一つ聞いていいですか。昔の湧き水が、今より前に出ていた時、水の色や匂いはどうでしたか」


「匂いはなかった。色も透明だった。ただ、飲むと少し甘みがあると言っていた。鉄分の多い水とは違う、もっと……石の奥から来る感じの甘さだったと、じいさんが言っていた」


「甘みがある、か」


「迷宮から来る水は、昔はそういうものだったんだと、村の年寄りはみんな言っていた。今は毒水と言っている人もいるが、昔の話を覚えている年寄りは、あの水は旨い水だったって言う」


 ユークはその言葉を聞いて、昨日の採水を思い出した。前砦の処理済みの水をリクが初めて飲んだ時に「ちょっと甘い」と言った。あれと繋がる感触があった。

 だが今は確認する方法がない。仮説が重なるだけだ。


「記録に入れてくれ。昔の湧き水の水質として、甘みがある透明な水という証言がある、という形で」


「入れます」とミレアが書いた。


  *


 岩の前から少し離れた場所に、村の男が一人立っていた。

 四十代くらいの、背の高い男だった。腕を組んで、ユークとミレアの作業を遠くから見ていた。近づいてくる気配がなく、ただそこにいた。


 ユークが立ち上がって顔を向けると、男は視線を外さなかった。


「また迷宮の話か」と男は言った。


「そうだ」


「ネラ婆の昔話を聞いて、何をするつもりだ。また山側が原因だと言うのか」


「昔の湧き水と今の前砦地下の構造が、繋がっている可能性を調べている」


「繋がっているとして、どうなる」


「分かれば、水の管理をより正確にできる。分からないまま作業を続けると、何かが変わった時に原因が特定できない」


「前砦のためになる話だな」


 とその男は言った。とげのある言い方だったが、声を荒げているわけではなかった。


「うちらにとってはどうなる」


「調べた結果が村の水に関係するものなら、伝える。今は分からない段階だ」


「分からないのに来るのか」


「分からないから来た。話を聞かないと、分かるかどうかも判断できない」


 男は少しの間、ユークを見た。


「また迷宮のせいにして、何かあったら「調査中だ」「分からない」で済ます気じゃないだろうな」


「そういうつもりはない。ただし、分かっていないことを分かっているように言うことはしない」


「どっちでも同じに見える」


「一つだけ言えることがある。今年に入ってから、この村の井戸が澄む日が続いている。その変化の記録は前砦に残っている。もし今後また悪化した場合、記録があれば悪化する前との違いが確認できる。記録がなければ、またゼロからになる」


 男は腕を組んだまま黙っていた。


「証明はできないのか」とやがて言った。


「今の段階では、できない。調べている最中だ」


「……そうか」


 男はそれ以上は言わなかった。腕を組んだまま、少し先の畑の方へ歩いていった。

 ネラ婆がその背中を見ながら言った。


「あれはうちの親戚だよ。昔、迷宮の管理者に何度も騙されてきたと思っている。嘘をついているわけじゃないから、あまり気にしないでいい」


「騙されてきた、というのは」


「山側の人間が来て、なんとかしますと言っては去っていった。それが何度も続いた。信用できない理由がある」


「分かった」とユークは言った。


「あたしも完全に信用しているわけじゃない。ただ、今年は井戸が澄む日が出た。それは事実だ。じいさんの代から、こんなことは初めてだ。だから話をした。それだけだよ」


「十分だ。ありがとう」


  *


 湧き水跡の場所を手帳の地図に書き入れた。岩の位置と方角、土の湿り方、旧図の空白区域との位置関係を整理した。ネラ婆の証言のまとめをミレアが読み上げ、ユークが確認してからミレアが最終的な記録にした。


「これを観測点に加える。名前はどうする」とユークはミレアに聞いた。


「場所の特徴から。岩双点、でどうですか。岩が二つある場所という意味で」


「それでいい。記録に入れてくれ。前砦地下の観測孔、クルン村共同井戸、そして岩双点。三点で水の状態を追う」


「追加します。岩双点の担当観測者は、今のところ誰もいません」


「リクに頼む。ここは前砦から離れているから、毎日来てもらう必要はない。三日に一度、土の湿り具合を確認してもらえれば十分だ」


 リクが少し考えてから「分かった」と言った。


「ここに来るのは井戸より近い。すぐできる」


「ありがとう」


  *


 前砦に戻る道を歩きながら、ユークはシルクスとのパスを開いた。

 湧き水跡の岩双点は、前砦から山道を下った場所にある。シルクスの糸は前砦の外縁区画を中心に張られていて、村まで届いているかは確かではなかった。


 確認のためにパスを通じて聞いた。岩双点の方向の、地面の湿気を何か拾っているか、と。

 シルクスから返答が来た。


 届いていた。

 前砦から伸ばした一本の長糸が、山道の途中まで来ている。その糸の端が、岩双点の手前あたりで、普段より湿った空気の動きを拾っているという感触が続いた。


「シルクスの糸が届いている」とユークは言った。


「岩双点まで届くんですか」とミレアが驚いた顔をした。


「手前まで来ているらしい。高所アンカーに移してから索敵範囲が広がっていた。この方向に延ばすことを指示してはいなかったが、前砦周辺を広く探っている中で自然に来たのかもしれない」


「シルクスに観測を頼めますか」


「頼んでみる」


 パスを通じてシルクスに伝えた。岩双点の方向の湿気の変化を、今後も記録してほしいと。夜間に湿気が増すか、朝に変化があるかを分けて記録してくれると助かる、という内容も添えた。

 シルクスから了解の感触が来た。短く、確認した、という感触だった。


「シルクスが観測を引き受けた」


「村人が観測する必要がなくなりますか」


「どちらも続ける。リクの観測は地面の湿り方を目で見る確認だ。シルクスの感触は振動と湿気の変化だ。見ているものが違う。両方あった方がいい」


「記録に入れます。岩双点観測体制:リク(目視・三日おき)、シルクス(糸感知・連続)」


「そうしてくれ」


 山道を登りながら、ユークは頭の中で今日確認したことを整理した。

 第五沈殿槽系の観測孔は前砦の広場の下にある。その南方向に岩双点がある。昔の湧き水は岩双点から出ていた。迷宮が弱った時期と湧き水の枯れた時期が一致する。そして今、観測孔を少し開けた翌日から、岩双点の土が湿っている。


 全部が繋がっている、と断言するには早い。だが、整合している。


「ミレア」


「はい」


「第五沈殿槽が配分機能を持っていたとして、配分先の一つが岩双点方向だとすれば、村はもともと迷宮から水の恩恵を受けていたことになる」


「そうなります」


「迷宮が死んで恩恵が消えた。それが今、少しずつ戻り始めている。ただし、意図してそうしたわけではない。観測孔を少し開けたことが、結果として配分経路を動かした可能性がある」


「前砦側の作業が、村に直接影響している、ということですね」


「そうだ。影響が出ていることは記録に残す。ただし、村に向けて「こちらが水を送っている」という言い方はしない。因果の整理が終わるまで、そういう表現は使わない」


「分かりました。記録は「観測孔開放後、岩双点で湿気変化を確認」という客観記述にします。配分との因果関係は仮説として別枠にします」


「それでいい」


 前砦の屋根が見えた。ミレアが記録帳を閉じた。

 ユークはシルクスのパスを確認した。岩双点の方向から、低く静かな湿気の感触が届いていた。変化しているわけではない。ただそこにある、という感触だった。


 昨日まで確認していなかったものが、今日確認できた。それが今日の成果だった。

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