第60話 灰青の水
夜明け前に起きて、陶の小瓶を持って外に出た。
空が白くなりかけていた。空気が冷たかった。荷下ろし場の縄の向こう、砂利の上に、昨日グランが打った石の杭が朝霧の中に立っていた。
観測孔の場所はすぐに分かった。砂利の表面に昨日の泥気の跡がある。グランが差し込んだ石片が、石蓋の縁に見えた。
ユークはしゃがんで観測孔を確認した。隙間から、昨夜と同じ冷たい空気が漏れていた。鉱物の匂いが混じっていた。圧は下がっていない。昨夜一晩で状態が変わったわけではなかった。
小瓶を縦にして観測孔の隙間に差し込んだ。瓶が水に触れた。軽い重さが手に返ってきた。少量だが採れた。
瓶を引き上げた。
中の水を日の出前の薄明かりで見た。透明だった。底が見えた。泥が混じっているには澄みすぎていた。上澄みを採ったのではなく、観測孔の中の水そのものがこの色だった。
匂いを確かめた。
腐臭は薄い。前砦地下の処理槽から来る、汚泥の発酵した匂いとは違う。もっと乾いた、石の奥の匂いに近い。
「きれいすぎる」
ユークはそれだけ言って、前砦に戻った。
*
ミレアはもう起きていた。受付台の端に記録帳を開いて、昨日の観測孔の記録を整理していた。陶の小瓶を見て立ち上がった。
「採れましたか」
「採れた。量は少ない」
「ルーメに見せますか」
「今すぐ」
ルーメを呼んだ。ルーメが受付台の上に来た。
ユークは小瓶の蓋を外し、水面をルーメに向けた。
ルーメが光った。
灰青色が出た。
昨夜観測孔に光を差し込んだ時と同じ色だった。体の中心から外側へ向かって、青がかった灰色が広がっていく。揺れ方は穏やかだが、色の深さはどの処理槽の水でも出たことのない深さだった。
「同じ色が出た」とミレアが書いた。
「ただし、昨夜より少し安定している。揺れ方が一定だ」
「昨夜は周期的に揺れていましたね」
「瓶の中は揺れが少ない。観測孔に差し込んだ時は、内部の流れに影響されていた可能性がある。水そのものの色は今見ているこれが近い」
「記録します。採水時刻、夜明け前後。色は灰青、安定している。揺れなし。以上」
ユークは小瓶を台に置いた。
「橙でも白でもない。橙は注意域の汚泥成分。白は高濃度魔力水で危険。この灰青は、どちらとも違う軸にある」
「どういう成分の水ですか」
「魔力の密度を測る方法は今の俺にはない。ただ、ルーメの反応の深さを見る限り、通常の外縁水脈の水より濃い。第一沈殿槽に入ってくる水が橙なら、これはその先、一段階上の話になる」
「処理前より高いということですか」
「高いか、性質が違うかのどちらかだ。確かめるには、モルトに少し食わせてみるのが一番早い」
ミレアが手帳を手にしたまま、少し間を置いた。
「モルトに食わせるのは大丈夫ですか」
「量を制限する。瓶の中の水を全部食わせるわけじゃない。指先に一滴だけ乗せて嗅がせる。それで何も起きなければ、少量だけ口に入れさせる」
「危なくなったらすぐ止めますか」
「すぐ止める」
*
モルトを呼んだ。
モルトが処理場から来た。朝の処理を一時中断した形だった。受付台の前に来て、ユークとミレアと小瓶を順に見た。
「これを少し試食してほしい」
ユークはパスを通じて伝えた。
「無理はするな。おかしいと思ったら吐き出せ」
モルトから、了解の感触が来た。
ユークは指先に小瓶の水を一滴だけ乗せ、モルトの鼻先に近づけた。
モルトが嗅いだ。
すぐに反応があった。
困惑に近い感触だった。嫌いではない。でも知らない。食べたことがある成分と食べたことがない成分が混ざっている、という感触だった。
「どうだ」
モルトがもう一度嗅いだ。今度は少し長く。それから、わずかに体を揺らした。
「揺れているな」
ミレアが「揺れています」と書いた。
「少し、口に入れてみるか」
モルトに問いかけた。モルトから、やってみる、という感触が返ってきた。
ユークは小瓶を傾け、ほんの数滴をモルトの口元に垂らした。
モルトがそれを舐めた。
三秒待った。
モルトの体が、ゆっくりと揺れ始めた。
処理量が多すぎて眠りかける時の重い揺れとは違った。もっと落ち着きのない揺れ方だった。体の表面が微かに光って見えた。処理場で作業している時には出ない光り方だった。
「酔っているな」
「魔力酔いですか」
「そうだ。食べているのではなく、魔力を吸収しようとして量が合っていない状態だ。モルトが処理するのは汚泥の中の残滓だ。汚泥ごと消化して残滓を中和する。だが、この水には汚泥が少ない。消化する泥がないのに魔力だけが来ている。そういう状態になると酔う」
ユークはモルトの背に手を当てた。
「大丈夫か」
モルトから、重いが落ち着きを保っている感触が返ってきた。急に止めれば吐き出す形になる、という感触も続いた。
「自然に消化するのを待つ。今渡した量は少ないから、しばらくすれば落ち着く。ただし今日の通常処理は、俺が確認するまで軽めにしてくれ」
モルトが短く返答した。
ミレアが書いていた。
「モルトへの少量試食。魔力酔いの症状確認。体の揺れ、体表発光。処理量超過の挙動とは異なる。腐敗泥成分が少なく、魔力成分が単独で来るため処理不能と推定」
「合っている。もう一点追加してくれ。今後、この水をモルトに直接食わせることは禁止。沈殿後の底泥だけを処理させる」
「沈殿させた後で」
「そうだ。この水を容器に入れて静置すれば、底に泥が沈む。沈んだ泥は通常の残滓に近い成分になるはずだ。それだけをモルトに渡す。上澄みの水は別の方法を考える」
「上澄みはどうしますか」
「今はまだ分からない。外に流せる性質かどうか確認する必要がある。それが分かるまでは、観測口を完全に開けることも、水を大量に採ることもしない」
ミレアが書き終えて顔を上げた。「記録に入れます」
*
モルトが少しずつ落ち着いてきた頃、ミレアが白紙を広げた。
「色見本表を作りたいです。今日の観察で材料が揃いました」
「今日中に作れるか」
「骨格だけなら今日中に。ルーメに色を出してもらいながら確認する方式です。先輩に確認してもらいながら作ります」
「やってくれ。ただしグニェルが来る前に終わらせる。午前中にまとめたい」
ミレアが作業を始めた。
ルーメを一か所に置いて、各槽の水を順に見せていく。第一沈殿槽の底泥の水、第二薄め槽の水、モルト処理場の処理後の水、前砦の飲料用処理済み水。それぞれでルーメが色を変えていくのをミレアが手帳に書き取った。
今まで確認してきた色が順に並んでいく。
処理済みの安全な水は青緑。第二薄め槽の灰泥混じりは灰。処理前の汚泥水は橙。外縁奥の高濃度魔力水は白。そして今日確認した第五沈殿槽系の観測孔の水は灰青。
「五色ですね」とミレアが言いながら書いた。
「今確認できているのはその五色だ。他にも出るかもしれない。未確認の色が出た時は、今日の記録と比較できる形にしておいてくれ」
「見本表に余白を入れておきます。次の色が来た時に追記できるように」
「それでいい」
ルーメが台の上でじっとしていた。各槽の水を見せるたびに色を変えてきた作業が続いて、少し疲れている感触があった。
「一度休ませてやれ。作業はここまでにする。残りの確認は昼以降にする」
「分かりました」
ミレアが今日の見本表を読み上げた。
「青緑・処理済み安全水・通行可能。灰・灰泥混合沈殿物・注意・一定量で処理可能。橙・処理前残滓水・注意・モルトで処理可能だが濃度確認要。白・高濃度魔力水・撤退を考慮・生態系経由で処理が必要。灰青・第五沈殿槽系採取水・成分未確定・モルト直接処理不可、沈殿後泥のみ処理可能」
「白の後に灰青が来るのは位置がおかしい。灰青は汚泥ではない成分だから、汚泥濃度の軸とは別に立てた方がいい」
「別の列にします。汚泥濃度の軸と、魔力成分の軸を分けて、それぞれにルーメの色を当てる形はどうですか」
「そうしてくれ。白は汚泥軸の高端で、灰青は魔力軸の別系統だ」
「今日中に修正します」
*
昼前になって、グニェルが荷馬車と共に街道を上がってくる音が聞こえた。
ユークは外に出て確認した。荷馬車は縄の手前で止まった。縄の位置に気づいたらしく、御者が荷台から降りて縄を確認している。グニェルが荷台から降りてきた。前砦の方を向いて軽く会釈した。
「約束通り来ました」
「受け入れる。規則の確認をしてから中に入ってくれ」
ユークは受付台に戻った。
今日の午前中で分かったことがある。第五沈殿槽系の水は廃水ではない。汚泥の薄まったものでもない。魔力の性質が違う何かだ。
汚泥ならモルトが食べる。食べれば処理できる。処理できなかった。
これが何なのかは、今の段階では分からない。エルリオの旧図面の地盤記録が届けば、参照できる情報が増える。クルン村のリクが井戸の状態を観測し続けている。そのどこかに、灰青の水の意味が繋がるかもしれない。
受付台にミレアが立っていた。グニェルへの受け入れ確認書が台の上に出ていた。
「グニェルへの対応を先にする」
「第五沈殿槽の件は今日の利用が終わった後で続けます」
「そうしてくれ」
グニェルが荷物を持って前砦に向かって歩いてきた。縄の手前で止まり、手荷物だけ持ったまま待っている。荷馬車は縄の外側にある。
問題なかった。
ユークは受付台の前に立って、グニェルを呼んだ。
*
グニェルの利用が終わり、荷物の確認と記録が済んだのは昼の第三刻だった。
グニェルが帰りの荷馬車に積み荷をしている間、ユークは前砦の中で今日の記録帳を確認していた。
そこへ、外から声がかかった。
聞き覚えのある声だった。
扉を開けると、クルン村の老婆が砂利の上に立っていた。腰の曲がった女性で、麻の頭巾をかぶっていた。以前にも来たことがある。村と前砦の間で一番早く橋渡しをしてくれた人間だった。
「管理人さん、少しいいかね」
「どうぞ」
老婆が前砦に入った。グニェルと入れ違う形だった。グニェルは老婆に軽く頭を下げながら出ていった。
「あの人らも来るようになったのかね」
とグニェルが見えなくなってから老婆は言った。
「正式な利用者だ。今日が初日だった」
「ふうん。商売人は鼻が利くわね」
老婆は受付台の端に手をついて、少し息を整えた。
「水の話を聞きたいんだがね」
「どんな話だ」
「うちの畑の話だよ。村から少し離れた、裏手の古い畑地。今は誰も使っていない場所なんだけど、昔はそこに湧き水が出ていたんだわ。それで作物がよく育った。うちのじいさんのじいさんの代から、その水を使っていたって話を聞いてた」
「その湧き水が今は出ていない、ということか」
「そうじゃなくてね。最近、そこの土が少し湿っている気がするって、リクが言うんだわ。だから気になってきたんだよ」
ユークはその言葉を聞いて、少し止まった。
「湧き水跡の土が、最近湿っている」
「昨日気づいたって。リクの子が裏手に遊びに行って、土がいつもより湿っていたって言って帰ってきたから、あたしが見に行ったら確かにそうだった」
「その場所を教えてもらえるか」
「案内しようか」
「明日か明後日に伺う。場所だけ教えてくれれば十分だ」
老婆が場所を説明した。村の裏手の古い畑地、南向きの傾斜の手前、岩が二つ並んでいるその脇。昔は水が染み出していた場所だという。
「昔は、あの水が畑に回っていたんだよ。山の水が山道を通って来て、あの岩の下から湧いて、畑に染み込んでいった。それが迷宮が死んでからは出なくなった。それでみんな、水は山頼みだと思っていたんだけど、最近また出てきているなら、何かが変わったのかと思って」
ユークはミレアを見た。
ミレアがすでに手帳に書いていた。
「村の裏手の古い畑地、岩二つの脇に旧湧き水跡。昔は山側から水が流れてきた。最近リクが土の湿りに気づいた。場所は後で詳細を確認予定」
「記録に入れてくれ」
「今日の採水記録と並べて入れます。湧き水跡と第五沈殿槽系の観測孔の位置関係を、明日確認できますか」
「できる」
老婆が帰り支度をしながら言った。
「良くなっているのかね、あの迷宮は」
「少しずつ」
「井戸も最近きれいな日が増えた。あんたらのせいか、それとも山がたまたまそうなったのかは、うちの村には分からないけどね」
「どちらでも構わない」
「そんなものかね」
「水がきれいになっているのが事実なら、それでいい」
老婆は少し笑った。笑い方に言葉がなかったが、受け取った、という感触があった。
老婆が前砦を出た。
ユークは今日の記録帳を開いた。
朝の採水。ルーメの灰青色。モルトの魔力酔い。色見本表の骨格。グニェルの初回利用。そして老婆の話。
湧き水跡に土の湿りが出た。
昨日から今日にかけて観測孔を開けた。観測孔の内側の水は灰青色で、魔力が高い。今日、観測孔からの水が少量外に出た。その水が、前砦からクルン村方向の地盤を通って、裏手の旧湧き水跡に届いた可能性がある。
「ミレア」
「はい」
「旧湧き水跡の場所を、旧図の空白区域と照合してくれ。明日行く前に、紙の上で確認したい」
「今日中に確認します」とミレアが言い、旧図面の写しを取り出した。
前砦の外で、グニェルの荷馬車が街道を下っていく音が聞こえた。
初日の利用が終わった。水の調査が始まった。老婆の口から出た言葉が、灰青の水と同じ方向を指していた。




