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第59話 石蓋の下

 荷下ろし場の正式整備を始めたのは、昼前だった。

 前日に縄を張っただけでは、風が強い日や夜間に縄がたるむ。グランに石の杭を作ってもらい、縄の代わりに差し込む予定だった。石の杭なら動かない。グニェルが来る前日、今日中に終わらせたかった。


 グランが砂利の上で地盤を確認しながら動いていた。杭を打つ位置を決めるために、一か所ずつ前脚で押して硬さを確かめている。地盤が柔らかければ杭が傾く。硬い場所を選んで打つ必要があった。

 ユークは縄の仮張りを外しながら、グランの作業を見ていた。


 石蓋の位置は覚えていた。砂利を戻した場所だ。グランが東側に向かって杭の位置を探り始め、その方向へ近づいていく。

 グランが前脚で砂利を踏んだ。


 音が変わった。

 前日と同じ、下が空洞になっている時の響きだった。グランが止まった。前脚を持ち上げて、今度は軽く砂利を払った。石蓋の縁が見えた。


 前脚がもう少し動いた。砂利の表面が動いた。

 そこから、水が滲み出していた。


 ユークは近づいた。石蓋の縁から、細い水筋が砂利の隙間に染み込んでいくのが見えた。前日はなかった。昨夜から今朝にかけて、石蓋の内側の水圧が上がったのかもしれない。


「滲んでいる」


 グランが振り向いた。見ている、という感触が返ってきた。


「このまま放置すると砂利が沈む。今日グニェルが来る前に確認する必要がある。荷下ろし場の真横で地盤が動いたら、昨日決めた位置が使えなくなる」


 ユークはミレアを呼んだ。


  *


 ミレアが拓本用の紙と炭を持って来た。昨日「明日中に用意する」と言っていたものだ。


「水が滲んでいます」とミレアは石蓋を見て言った。


「昨夜から圧が上がった可能性がある。グランが砂利を払ってくれるか」


 グランが前脚を動かした。石蓋の全体が露わになった。縦横それぞれ大人の腕の長さほど。縁に刻まれた意匠が、砂利の詰まりが払われて見えやすくなった。

 ユークはしゃがんで刻印を確認した。


 二重の円の中に縦線が入っている。前砦の保守導線入口で見た刻印と同じ系統だったが、細部が違う。保守導線のそれは三重円で、縦線の上に横線が加わっていた。今目の前にあるものはそれより単純で、古い。形式が先行している。


「拓本を取ってくれ」


 ミレアが紙を石蓋に当て、炭で擦った。刻印の凹凸が紙に転写されていく。

 ユークは待ちながら、刻印の意味を考えた。


 迷宮施設には、設置時期や用途を示す刻印が入ることがある。保守導線の入口に入っていたものは、後から整備された保守用通路を示すものだった。形式が定型化された時代の刻印だ。今見ているものは、それより前の様式に見える。型が決まる前に打たれたような、手作業の粗さがある。


「この施設の方が古い」


「いつ頃のものだと思いますか」とミレアが聞いた。


「分からない。保守導線の刻印より前に作られた施設ということまでは言える。迷宮が最初に作られた時からあった可能性もある」


「排水口ですか」


「最初はそう思っていた。だが違う」


 ユークは縁に沿って石蓋を指した。


「排水口の縁は、蓋の引き手が外向きについている。水を流す側が下だから、上から開けるために引き手は上に向く。この石蓋は引き手が内向きの溝だ。中から押し上げるか、外から嵌め込む形で使う。つまり、普段は密閉していて、確認する時だけ開ける設計だ」


「観測口ということですか」


「そうだ。水を流すためではなく、内部の状態を確認するための蓋だ。沈殿槽には観測口が必要になる。水位、濁度、詰まりの有無を定期的に確認するための入口だ」


 ミレアが拓本から顔を上げた。


「第五沈殿槽の観測口だと思いますか」


「可能性が高い。位置を考えると、前砦地下の処理構成から外れた場所にある。旧図の空白区域と重なっている。そして内部に水圧がかかっている」


「今日開けますか」


 ユークは石蓋を見た。縁から水が滲んでいる。


「開けないわけにいかなくなった。ただし、全部は開けない」


  *


「グラン。この蓋を、少しだけずらしてくれ。全部は開けない。指一本入る程度の隙間で止めてくれ」


 グランがうずくまった。石蓋の縁に前脚の爪を差し込んだ。隙間は薄い。爪の先だけが入る幅だった。

 グランが力を込めた。


 石蓋が動いた。

 その瞬間だった。


 隙間から、灰色の泥気が吹き上がった。

 音が先に来た。湿った空気が一気に押し出される音だった。それから泥の粒子が霧のように広がった。ユークは顔を腕で覆った。ミレアが一歩後ろに引いた。グランは動かなかった。石蓋を押さえたまま、隙間をそれ以上広げなかった。


 泥気が収まるまで、数秒かかった。

 ユークは腕を下ろして確認した。石蓋が指一本分だけ開いていた。グランがそこで止めている。内側から押し上げようとする力が、グランの前脚に逆らっていた。


「圧がある」


 グランから重い返答が来た。内側から押し続けている、という感触だった。


「そのまま保ってくれ。開き増しはしなくていい。今の位置で固定してくれ」


 グランが体重を移した。石蓋を斜めに固定する形で前脚を当てた。蓋が動かなくなった。

 ユークは観測孔に近づいた。指一本の隙間から、湿った冷たい空気が漏れ続けていた。泥の匂いが混じっていた。ただし、腐臭は薄い。前砦地下の処理槽から来る腐敗臭とは違う。鉱物質の、重い匂いだった。


「ルーメ」


 ルーメがユークの傍に来た。


「この隙間に光を入れてくれ。奥が見えるか確認したい」


 ルーメが石蓋の縁に近づいた。体を薄く伸ばして、観測孔の隙間から光を差し込んだ。

 光の色が変わった。


 内側を照らすにつれて、ルーメの体の色が変化した。青緑ではない。橙でも白でも灰でもない。

 灰青だった。


 青がかった灰色の光が、ルーメの体から漏れ出た。今まで見たことのない色だった。


「……何だ、これは」


 ユークはその色を見た。

 ルーメの反応は水質を示す。青緑は処理済みの安全な水。橙は注意が必要な濃度。白は高濃度で危険。灰は沈殿した低濃度残滓。それが今まで見てきた色だった。


 灰青は、そのどれとも違う場所にある色だった。


「ミレア」


「見ています」とミレアが言い、手帳に書いていた。


「ルーメ、灰青色反応。観測孔の奥。今まで記録にない色です」


「そうだ。今まで出たことがない」


「危険ですか」


「分からない。危険を示す白とは違う。ただ、ルーメが初めて見た色を出したということは、今まで観測していない種類の水質があるということだ」


 ユークはルーメに問いかけた。パスを通じて。

 ルーメから返ってきたのは、戸惑いに近い感触だった。知らない、という感触ではなく、今まで使う必要がなかった反応を出している、という感触に近かった。


 閾値の外にある何かだ、とユークは思った。


「モルトを呼んでくれ」とユークはミレアに言った。


「吹き上がった泥を処理させる。石蓋の周囲に溜まっている分だ。内側に食いに行かせるつもりはない」


 ミレアがパスを通じてモルトを呼んだ。ユーク自身よりミレアの方が落ち着いた声でモルトに話しかける癖があった。モルトがその違いを感じているかどうかは分からないが、ミレアが呼ぶと少し早く来る傾向があった。

 モルトが砂利の上に来た。石蓋の周囲に広がっていた泥の粒子を嗅いだ。


 食べられる、という感触が来た。ただし、いつもの処理槽の泥より成分が違う。軽い。あっさりしている。という感触だった。


「食っていいが、急がなくていい。一度に全量じゃなくていい」


 モルトが砂利の上に溜まった泥を、ゆっくりと処理し始めた。


「内側から吐き出した泥気の量と質を、モルトの処理具合から後で確認できる。成分が分かれば、中の水の性質の推定材料になる」


「記録に入れます」とミレアが書いた。


  *


 グランが石蓋を固定したまま、ユークの次の指示を待っていた。


「このままにしておくのか」とユークは独り言のように言った。


 全部開ければ内側の状態が分かる。だが、内部に水圧がかかっている状態で全開にすれば、一気に水と泥が噴き出す可能性がある。前砦地下の処理構成に影響が出るかもしれない。モルトが間に合わない量が来るかもしれない。

 グニェルは明日来る。


「観測孔だけ確保する。全部は開けない」とユークは言った。


「グラン。石蓋を今の位置で固定できるか。隙間が塞がらず、かつこれ以上開かない形で」


 グランが考えている感触があった。

 それから、短い返答が来た。できる、という感触だった。方法は石材を噛ませる形だ、という感触も続いた。


「やってくれ」


 グランが動いた。近くに転がっていた補修材の石片を一つ選び、石蓋の縁と地盤の間に差し込んだ。石蓋が今の位置で止まった。内側から押し上げようとする力が分散された。

 グランが前脚を少し引いた。石蓋が動かなかった。石片が支えている。


「いいな」とユークは確認した。


 グランから肯定の感触が来た。


「この状態で、ルーメを差し込んでくれるか」とユークはルーメに言った。「光だけでいい。体ごと入る必要はない。観測孔の内側を照らして、届く範囲の色を教えてくれ」


 ルーメが再び観測孔に近づいた。今度は時間をかけて、光だけを内側に入れた。

 灰青色が、また漏れた。


 今度はさっきより長く続いた。ルーメの体の色が揺れた。一定ではなかった。灰青の中に、より深い青が混じる瞬間があった。


「揺れている」


「周期的ですか」とミレアが言った。


「……そうかもしれない。シルクスに確認させる必要がある。観測孔が開いた今なら、振動の記録と色の変化を照合できる」


「今夜の観測項目に追加します」


 ユークはルーメの色をしばらく見ていた。

 灰青。


 処理前の高濃度水が白を示した。低濃度沈殿が灰を示した。灰青はその間にある何かではなく、全く別の軸に位置する色に見えた。


「これは汚泥の色じゃない」


「と言うと」


「汚泥は腐敗物と残滓が混じっている。その色はルーメが橙か灰で反応する。灰青は……腐敗が少ない。残滓の比率も違う。何か別のものが主体になっている」


「別のものというのは」


「今の段階では言えない。明日の朝に観測孔から水を採って確認する」


 ミレアが書いた。


「観測孔の灰青色反応について:汚泥由来でない可能性あり。明朝採水して水質確認予定。以上」


  *


 グランが作業を終えて、荷下ろし場の杭打ち作業に戻った。

 石蓋は観測孔だけが開いたまま固定されている。石片一枚が蓋と地盤の間に挟まり、それ以上開かないようになっている。グニェルが来ても、荷下ろし場の位置はその東側二間だから、この観測孔に荷馬車が近づくことはない。


 ユークは砂利の上に残った泥の跡を見た。

 モルトが処理を終えていた。砂利の上は、泥気が吹き上がる前の状態に戻っていた。


 モルトから処理後の感触が届いた。処理した泥は軽い。普段の汚泥より無機質が多い。砂に近い。そういう感触だった。


「軽い、か」


 第五沈殿槽が汚泥処理施設だとすれば、中の泥は腐敗物が多いはずだった。だが、吹き上がった泥気はモルトが「軽い、砂に近い」と言った。ルーメは「腐敗が少ない」という色を返した。

 何が詰まっているのか。何が内圧を上げているのか。


 観測孔を指一本分開けただけでは、その全体は見えない。


「明日の朝に採水する。グニェルの利用が始まる前に、一本だけ採る」


「容器はありますか」とミレアが聞いた。


「前砦の倉庫に陶の小瓶がある。ルーメの観測に使っていたものだ。それを使う」


「用意しておきます」


 観測孔から、細い空気の流れが続いていた。冷たく、鉱物の匂いがした。

 内側には何かがある。それだけは、今日確認できた。


「第五沈殿槽系と呼んできた場所の入口が、ここにある」とユークは言った。


 ミレアが書いた。「観測口の位置確定。石蓋は固定済み、観測孔は指一本分開口状態で保持中。第五沈殿槽系の入口として記録に入れます」


「入れてくれ。今日の日付で」


 荷下ろし場の杭がグランによって順に打たれていく音が、砂利の上に続いていた。

 観測孔の縁から漏れるルーメの灰青色が、夕方の光の中で静かに揺れていた。

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