第56話 シルクスの水音
朝に地下を確認してから前砦へ戻ると、シルクスが受付台の端にいた。
普段ここにはいない。シルクスは外縁区画か地下の出入口付近にいることが多く、前砦の台の上で止まっているのは、何かを伝えようとしている時か、あるいは困っている時だった。
ユークが台に近づくと、シルクスが八本の脚を小刻みに動かした。落ち着きのない、不規則な動き方だった。
「どうした」
パスを通じて確認した。
返ってきたのは、整理されていない情報の塊だった。足音ではない。水でもある。でも水じゃない。繰り返し来る。止まらない。何に分類すればいいか分からない。
そういう感触だった。
「昨夜から続いているのか」
続いている、という返答が来た。昨夜から今朝にかけて、ずっと拾い続けている。しかし何なのかが分からないまま、記録できずにいる。シルクスの観測ログには、その振動の分類欄が空白のまま残っていた。
ユークはパスを開いて、シルクスのログを受け取った。
振動のパターンが流れ込んできた。水の音に近い。しかし水流の音とは少し違う。一定の間隔で、少し重く押し返されるような揺れが混じっている。押して、止まって、また押して。そのリズムが、規則的に繰り返されていた。
「……これは拍がある」
水が自然に流れている時、音は連続する。一定のリズムにはならない。地形の変化や水量の増減で、常に揺れ幅が変わる。
だが今シルクスが拾っているのは、一定の間隔で押し返しが来る音だった。
何かに当たっている。
水が壁か何かに当たって、そこで押し返されている音だ。
「堰だな」
ユークは声に出した。
「水が堰に当たって返ってきている。それを繰り返しているから、拍が生まれている。自然水流じゃない」
シルクスが前脚を止めた。受け取った、という感触があった。だが、ではこれを何と記録すればいいのか、という問いかけが続いて来た。
「分類を決める。今から教える」
*
ユークは受付台の端に腰を下ろした。シルクスが台の上で近づいてくる。
「今まで水の振動は全部『水音』として記録していたか」
そうだ、という返答が来た。水の振動は一括りにしていた。足音との区別はできていたが、水の中の違いまでは分けていなかった。
「三つに分ける」
ユークは手帳を開き、書きながら話した。
「一つ目、通常流。水が普通に流れている状態だ。音は連続していて、揺れ幅が不規則に変化する。これは問題ない状態だ。記録はするが、緊急に知らせなくていい」
シルクスが静止した。聞いている。
「二つ目、詰まり。水の流れが途中で止まりかけている状態だ。音が弱くなって、それから急に大きくなる。不規則な断続が出る。これは注意が必要だ。見つけたらすぐに知らせてくれ」
シルクスの脚が少し動いた。こちらは聞いたことがある音だ、という感触が来た。以前にも拾ったことがある。
「そうだろう。今まで水音として一括りにしていたが、あれが詰まりの音だった。気づいていたなら、次から詰まり扱いで記録してくれ」
「三つ目、逆圧。今シルクスが拾っているやつだ。水が何かに当たって返ってくる。一定のリズムで押し返されている。堰や詰まった水路で起きる。これが続くと、前砦地下の水位が上がる。最優先で知らせてくれ」
シルクスが前脚を擦り合わせた。理解した、という感触と、同時にそれなら今がまさに最優先の状態じゃないかという感触も混じって来た。
「分かっている。だから今ここにいる」
シルクスが少し動いた。それならなぜすぐに対処しないのか、という問いかけに近い感触だった。
「今夜の水位記録と照合してから判断する。昨夜の水位がどこで上がったか、振動が来たタイミングと一致しているかを確かめないと、この振動が水位上昇の原因なのか、それとも別の何かの結果なのか分からない」
シルクスがまた止まった。
「原因と結果の順番が逆の場合がある。水位が上がった後で逆圧音が出ることもある。先に調べてから動く方が、二度手間にならない」
少し間があった。それから、分かった、という感触が来た。
「今日一日、逆圧の記録を続けてくれ。何時に音が来て、どれくらい続いて、いつ止まったか。ミレアが水位記録と照合する」
*
シルクスが台から降りて動き始めた頃、ミレアが奥から戻ってきた。手帳を持っていた。
「シルクスと何かやっていましたか」
「振動の分類を決めた。水流音を通常流、詰まり、逆圧の三種類に分ける。シルクスが今拾っている音は逆圧だ。今日一日記録させる」
「ログを受け取って照合します。昨夜の水位記録と並べれば、どちらが先に来ているかが確認できます」
「そうしてくれ。逆圧音が来てから水位が上がるなら、逆圧が原因だ。水位が上がってから逆圧音が出るなら、別の原因がある」
「記録の形式を作っておきます。振動到達時刻、持続時間、強弱の変化、水位到達時刻、の四列でいいですか」
「四列と、あと一列。振動の方向だ。シルクスが感じる方向が変わる場合もある。地下奥の一方向からだけなのか、複数方向から来るのかで、意味が違う」
「五列に直します」
ミレアが書き直す音がした。
ユークは手帳を持って地下の入口へ向かいながら、シルクスにパスを飛ばした。
シルクスは地下奥の方向に糸を一本延ばしていた。長い糸だった。その糸が、振動を受けて微かに揺れているのが気配として届いた。
「糸の具合はどうだ」
少し、という感触が来た。伸びている。
「湿気か」
そうだ、という返答が来た。地下に近い区画は湿度が高い。特に昨夜から水位が上がっているせいで、空気中の水分が増えている。糸が湿気を吸って伸びると、張力が落ちる。張力が落ちると振動が正確に伝わらなくなる。
「どのくらい精度が落ちている」
感触が返ってきた。確認できた頃よりも、振動が鈍くなっている。はっきりしていた拍が、少しぼやけてきている。
「今夜の記録を取る前に、糸を張り替える必要があるな」
シルクスが低い場所に糸を張っているのは、地下に近い壁の中段を使っているからだ。湿度の高い場所だった。
「高所に移れるか。天井に近い場所に、アンカーを撃てるか」
確認するような間があった。それから、できる、という感触が来た。ただし今の糸の長さでは足りない。新しく吐く必要がある。
「吐いていいか」
できる、という返答が来た。
「やってくれ。ただし高所に移した後も、逆圧振動が拾えるか確認してから移行しろ。移したら拾えなくなった、では困る」
シルクスが動き始めた。壁を伝って、通路の天井近くへ上がっていく。天井は湿度が低い。それほど高くない通路だが、石材の積み方が荒い部分があり、岩の窪みが点在していた。そこにアンカーを撃てれば、糸の安定性が上がる。
ユークは地下へ降りた。
*
地下では、仮板が昼間取り外されていた。昨夜の記録では、仮板を外した後も水位は四番目から五番目の範囲で動いていた。夜に向かってまた上がるかどうかは、今夜の確認待ちだった。
第一沈殿槽を見た。底の堆積が昨日より増えていた。水が来ている量が増えている証拠だった。
第二薄め槽は、灰泥の配合が少し均一に近づいていた。流れが安定してきているのかもしれない。あるいは、流入量が増えた分、灰泥が追いつかなくなっているだけかもしれない。どちらか今の段階では判断できなかった。
モルト処理場では、モルトが水面近くを動いていた。昨夜眠りかけた状態から、今朝にかけて落ち着きを取り戻している。処理速度はいつもより遅いが、止まってはいない。
「今日はどうだ」
パスを通じて聞いた。
重い、という感触が来た。昨日より来る量が多い気がする。ただ、眠りかけるほどではない。
「昼の間に食べるペースを少し落とせ。夜に向かって水位が上がる可能性がある。夜のために余力を残しておいてくれ」
分かった、という緩い感触が来た。
処理槽を一通り確認してから、ユークは地下の奥の壁を見た。石壁の向こうに、第五沈殿槽系がある。旧図に記録されなかった区域が、今夜も水圧を押し返している。
その音が、シルクスの糸に届いている。
音があるということは、水が動いているということだ。詰まっていれば音は出ない。逆圧が来るということは、水が流れようとしていて、どこかで跳ね返されているということだ。
堰がある、と昨夜推定した。今日の記録でそれが確認できれば、次は堰の位置だ。
*
地下から戻ると、ミレアが照合用の記録表を広げていた。縦に時間軸、横に昨夜の水位記録とシルクスの振動ログを並べた形式になっていた。
「並べてみましたが、一点確認していいですか」
「どうぞ」
「シルクスの昨夜の記録を見ると、逆圧振動が最初に出たのが夜の第一刻過ぎです。水位が五番目に到達したのが、その一刻半後になっています」
「振動の方が先に来た」
「そうです。逆圧振動が始まって、その後に水位が上がっています。振動が先です」
ユークは表を確認した。ミレアの書き出した時刻が並んでいた。振動到達、振動持続、水位変化の三点が時間軸上に乗っている。
「逆圧が来て、一刻半後に水位が上がった。逆圧が原因で、水位上昇が結果だ」
「そういう解釈になります」
「なぜ一刻半のタイムラグがある」
「水が逆圧を受けてから、その圧が処理槽まで伝わるのに時間がかかるからではないですか」
「水脈の長さによる。逆圧の発生点が遠ければ遠いほど、前砦地下に届くまでに時間がかかる。一刻半というのは、水が地下奥から前砦地下まで移動するのにかかる時間に相当する」
「距離の推定に使えますか」
「水の流速が分かれば計算できる。ただし地下の流速は測ったことがない。今の段階では大雑把な距離感だが、少なくとも前砦の床下から数十間以上先に逆圧の発生点がある可能性が高い」
ミレアが書き取った。
「逆圧発生点は前砦地下処理槽より数十間以上先と推定。タイムラグから計算。正確な距離は水流速測定後に見直す。以上で合っていますか」
「合っている」
「シルクスの振動記録を、水位記録の照合用として正式な観測項目に入れます。日時、到達時刻、持続時間、方向、強弱変化を記録形式の標準にします」
「頼む。あと、今日の午後にシルクスが高所アンカーに移行する。移行後に精度が維持されているか確認してくれ。糸を張り替えた後でも逆圧振動が拾えているなら、今日の夕方から夜の記録で照合できる」
「確認します。移行完了のサインはどう確認しますか」
「シルクスにパスを飛ばして聞く。完了したらお前にも伝える」
「分かりました」
*
午後になって、シルクスが高所アンカーへの移行を完了した。
天井に近い岩の窪みに三点のアンカーを打ち、そこから前砦地下の方向へ一本の長糸を延ばした形だった。糸の長さが増えた分、到達範囲が広がっている。
ユークがパスを通じて状態を確認した。
精度が戻っていた。湿気で伸びていた分が解消され、振動がはっきり届くようになった。逆圧の拍も、朝より鮮明に感じられた。
「高さがあると乾いているな」
そうだ、という返答が来た。天井近くは空気の流れが少し違う。湿気が溜まりにくい。
「これで今夜の記録が取れる」
シルクスから短い返答が来た。やる、という感触だった。それだけだった。
午後から夕方にかけて、逆圧振動の記録が続いた。一時間に数回の間隔で、一定のリズムが来ている。昼間は夜より強度が弱いが、拍のパターンは変わっていなかった。
ミレアが記録表を更新し続けた。一時刻ごとに振動の到達回数と持続時間を書き込んでいく。地道な作業だった。
夕方に、ユークが水位を確認した。仮板を外してから最初の夕方だった。昨日の夕方と同じ四番目に来ていた。
「昨日と同じペースで上がっている」
「今夜も仮板を入れますか」とミレアが聞いた。
「入れる。夜に五番目を超えるようなら、グランに頼む」
「連絡しておきます」
「仮板を入れる前の振動記録と、入れた後の振動記録を比べてくれ。仮板で流量が絞られた後で逆圧振動が変わるなら、仮板の効果が前砦地下より奥にまで及んでいることになる」
ミレアが書き取った。「仮板前後の振動比較記録、追加します」
*
夜が近づく頃、前砦の扉が叩かれた。
ミレアが立って扉を開けた。外に立っていたのは、ラスティア方面から荷を運んできた若い使い走りだった。手に封筒を持っていた。
「灰環前砦の管理者の方に、確認状をお届けに上がりました。差出人はグニェル商会のグニェル・バルトノフと申します」
ミレアが封筒を受け取り、使い走りに確認した。返答が必要かどうかを確認し、返答は後日送ると伝えて扉を閉めた。
「グニェルからです」と言いながら台の上に置いた。
「開けてくれ」
ミレアが封筒を開けた。中から短い手紙が出てきた。ミレアが読み上げた。
「灰環前砦への正式利用申請を以前提出したグニェル商会のグニェルと申します。その後ご検討いただけましたでしょうか。初回の正式利用について、日程の確認をさせていただきたく、返信をいただけますと幸いです。利用規則を守る意向に変わりはありません。ご都合のよい日程をお知らせください」
ミレアが手紙を台に置いた。
「返信が必要ですね」
「今は返信できない」とユークは言った。
「理由は」
「地下の水位が安定していない状態で利用日程を決めると、その日に水位が高ければ採集を止めることになる。商人を呼んでおいて中断させるのは、双方にとって良くない」
「では、利用を受け入れる前提で、水位が安定してから日程を決める、ということですか」
「そうだ。ただし、いつ安定するかがまだ分からない。シルクスの振動記録が一週間分揃えば、夜間の逆圧のパターンが見えてくる。それで安定している日と不安定な日の見分け方が分かる。それが分かってから返信する」
「グニェルには待ってもらうということになります」
「急かしていない。こちらの準備ができてから連絡する」
「了解しました。受け取り確認の短い返信だけ出しますか。検討中という内容で」
「そうしてくれ。内容は受け取った、準備が整い次第連絡する、それだけでいい」
「書きます」
ミレアが書き始めた。
ユークは窓の方を向いた。外は暗くなっていた。今夜もシルクスが振動を拾い続ける。水位が動く前に逆圧が来るか、パターンが繰り返されるかを確認する夜だった。
振動の分類ができた。高所アンカーへの移行で精度が戻った。照合の形式が決まった。
今夜の記録が揃えば、第五沈殿槽系の動きを時間軸で追えるようになる。水脈観測の最低線が、今日引かれた。
シルクスのパスが、静かに続いていた。地下の奥から届く拍が、今夜も規則的に来ている。




