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第55話 旧図にない線

 前砦の受付台は、朝から作業台になっていた。

 エルリオからの旧図面写し、ユークが地下で手書きした実測図、ミレアが前砦に来てから整理し続けてきた水路観測記録。三種類の紙が台の上に広げられ、それぞれの端が少しずつ重なり合っていた。


 ミレアが鉛筆を持ち、旧図面の写しを実測図の隣に並べた。外水脈枝の主路から順に、二枚を重ねるように確認していく。

 入口層の手前から外縁区画の南側まで、線はほぼ一致した。多少のずれはある。施設の老朽化と現場での修正分を考えれば、誤差の範囲だ。


 前砦の直下へ視点を移した。


「……ここ、旧図に何もないですね」


「ない」とユークは言った。


「でも実測では、この位置に流路がある。水が来ている」


「流れている。昨夜確認した分もここから来ていると思っている」


 ミレアは旧図の該当箇所から、他の部分へ視線を動かした。描き方を見比べるような動きだった。しばらく黙っていた。


「おかしいですね、この空白」


「どこがおかしい」


「旧図の他の部分は、線の密度が均一です。流路があれば書いてあり、ない場所には何もない。だけど前砦直下の周辺だけ、広い範囲が一様に空白になっている。観測補助線も地盤注記もない。前後の区域と比べて整然としすぎている」


 ユークは旧図を引き寄せた。ミレアの指摘通りだった。前砦直下の範囲だけ、地図から切り抜いたような空白が広がっている。形が整いすぎていて、見落とした空白ではなく、意図した空白に見えた。


「修正の痕跡を確認してくれ」


 ミレアが旧図を灯りに透かした。書き直した箇所があれば、消しかすで紙の繊維が荒れているか、上書きの圧痕が残るはずだった。


「……ありません。消した形跡も、書き足した形跡もない。最初から何も書かれていなかった、と見るのが自然です」


「そうなる」


 ユークは実測図と旧図を重ねた。実測図の前砦地下には、グランが通した流路と三段処理構成が書き込まれている。その全部が、旧図の空白の上に乗っていた。


「旧図が間違えたわけじゃない。最初から記録されなかった」


「どういう意味ですか」


「観測の誤記なら、修正の跡が残るか、観測票の欠落という形になる。これは清書された図面の段階から、最初から空白にされている。それができるのは、観測した人間が意図して書かなかったか、観測そのものが行われなかったかだ」


 ミレアがペンを持ったまま、少し考えた。


「どちらだと思いますか」


「俺には判断できない。ただ、第三の可能性を考えている。この区域が、観測の優先順位の外に置かれた可能性だ。調べなくていいと判断した。迷宮の閉鎖が決まってからは、詳しく調べる理由もない。結果として空白になった」


「でも、もし先輩が当時の担当者だったら」


「調べていた」とユークはすぐに言った。それ以上は言わなかった。

 ミレアが手帳を開いた。


「先輩、これを記録に残していいですか」


 部屋の空気が少し変わった。

 ユークは黙っていた。ミレアが「記録に残す」という時、それがどういう意味を持つかは分かっている。


「残すと、監督院に知られる可能性がある」


「可能性はあります」


「エルリオが旧図面を送ってきた。その旧図と現場の実測に大きな差がある。監督院が管理している旧図に空白があり、そこに未知の水路が実在するとなれば、それは監督院にとって記録の不備だ。不備の原因を追う動きが出れば、この前砦に調査が入る」


「入る可能性はあります」とミレアは繰り返した。


「ただ、記録しない場合のリスクも同じくらいある」


「聞かせてくれ」


「記録がなければ、この水路は存在しないまま運用されます。何かが起きた時、水位が上がりすぎて前砦の床下が侵食されたとか、夜間の圧力が地盤に影響を与えたとか。そういう事態になった時に、事前に認識していた証拠がない。問題が起きてから気づいたことになる。それは現場管理の失敗として扱われます」


「……記録があれば、異常を事前に把握して対応していたことが示せる、ということか」


「そうです。記録がなければ、異常に気づかなかったことになる」


 ユークは少し考えた。


「記録の形式が問題だ。監督院に通る書式で書けば、それは向こうへ届く情報になる。現場内部の覚書として書けば、外に出すかどうかは俺が判断できる」


「覚書として残します」とミレアはすぐに言った。


「エルリオへの返信も、個人的な確認という形で出します。公式照会には応答しない。ただし、現場でこの水路が確認されたという事実と、旧図との差異は、前砦運用覚書の一部として記録しておきます」


「俺の名前で出すのか」


「先輩の現場確認という形にします。私の名前は証人として入れます」


 ユークは台の上の実測図を見た。昨夜グランが仮板を入れた位置が鉛筆の丸で囲んである。その先に、旧図には存在しない空白がある。


「……残してくれ」


「分かりました」


  *


 ミレアが書き始めた。旧図と実測の差異を項目ごとに整理し、一致している部分、ずれている部分、空白の区域をそれぞれ書き出していく。ユークはその作業を横で見ながら、実測の数値と食い違っていないかを確認した。


「この水路に名前はありますか」とミレアが書きながら言った。


「つけていない。前砦地下の延長として扱ってきた」


「記録に入れるには、仮名でも何か必要です。位置と機能から考えると、沈殿槽系と呼ぶのが分かりやすいと思いますが」


 ユークは実測図に書いてある既存の名前を確認した。第一沈殿槽、第二薄め槽、モルト処理場。それが今の三段構成の呼び方だ。


「今の処理構成の先に、まだ別の区画がある可能性がある。番号をつけるなら、今の槽より下流ということで……第五沈殿槽系、でどうだ」


「第五沈殿槽系」とミレアはゆっくり繰り返した。手帳に書いた。


「前砦地下三段処理構成の下流に存在が推定される未記載流路および接続区画、仮称。以上でよいですか」


「そうしてくれ」


 作業が続いた。紙の上で少しずつ、前砦直下の姿が言葉になっていった。

 一段落したところで、ユークが口を開いた。


「エルリオへ返信を出すタイミングを考える。次に何を送ってもらうか、頼める内容があれば整理してくれ」


「整理します。ただし返信は慎重にします。エルリオが動ける範囲は狭い。要求を増やしすぎると、彼が危うくなります」


「分かった。一点だけ頼む形にする。旧図の空白の範囲に対応する、閉鎖前の地盤観測記録があれば、その写しを。地盤の記録なら水路と直接結びつかない。エルリオが動いても怪しまれにくい」


「……地盤記録として取り寄せれば、流路の記録を求めているとは読まれにくい。でも地盤の変化には水の流れが影響するから、空白区域の状態を間接的に確認できる」


「そうだ。エルリオへの文面は、地盤観測補助として取り寄せたいとだけ書けばいい」


「分かりました。文面を起こします」とミレアが言って、ペンを動かし始めた。


 書きながら、少し間を置いてから顔を上げた。


「先輩」


「何だ」


「今日の旧図の件、記録に残すかどうかで先輩が迷ったのは、監督院が怖いからじゃないですね」


「どういう意味だ」


「ここが崩される可能性を考えたから、です。先輩が組んだ処理構成が、グランとモルトがやっていることが、書類の不備だけで壊される可能性を。それが怖かった」


 ユークは何も言わなかった。

 否定しなかった。


 ミレアが手帳に戻った。「記録しません」と言った。


「何を」


「今言ったこと。覚書には必要な事実と推定だけを入れます。その方がいい」


「なぜ」


「今の段階でそれを書くと、監督院の過去の判断への批判として読まれる可能性があります。そうなると覚書全体の信頼性が疑われる。事実の積み上げだけで通した方が、先輩にとって有利です」


 ユークはミレアを見た。四年前から変わらない判断の速さだった。現場の感情ではなく、記録が後でどう読まれるかを先に考える。監督院にいた頃からずっとそうだった。


「……お前は昔から、そういう組み立てが得意だったな」


「先輩が不得意だったので、私が補うようにしていました」


 淡々とした言い方だった。だが事実だった。ユークは否定しなかった。


  *


 作業は昼過ぎまでかかった。

 旧図と実測の差異一覧、前砦地下の現状図の清書版、第五沈殿槽系に関する仮称と状況説明、観測継続の必要性。それらが手帳の四ページにわたって整理された。


 ミレアが最後のページを閉じると、ユークが水を一杯作って渡した。前砦管理の処理済み水だった。ミレアはそれを受け取り、一口飲んだ。

 ユークは実測図をもう一度手に取り、第五沈殿槽系と書いた仮名の位置を見た。


「前五沈殿槽系の先に、もっと大きな何かがある可能性がある」


「第五沈殿槽の本体ですか」


「旧図が空白になっている範囲が広い。流路だけの話ではなく、それなりの規模の構造物がある可能性を考えた方がいい。ただし今の段階では推定だ。記録には可能性として入れてくれ、断定ではなく」


「推定として記録します」とミレアが言い、手帳を少し開いて書き足した。


 書き終えてから、ミレアが窓の方を向いた。外は昼過ぎの光になっていた。


「先輩。第五沈殿槽系の本体があるとして、今日確認しに行かないんですか」


「行かない」


「理由は」


「今夜の振動記録がまだ取れていない。旧図と実測の差異も今日整理したばかりだ。地盤の観測記録はまだエルリオに頼んでいない。今の段階で地下の奥に入れば、何があるか分からない場所に、準備なしで踏み込むことになる」


「……それは正しい判断だと思います」


「準備が揃ったら入る。今夜は振動を記録する。エルリオへの返信を出す。旧図の空白範囲の輪郭をもう少し詰める。それだけでいい」


 ミレアが手帳を閉じた。


  *


 夕方になって、ユークはパスを通じてシルクスの状態を確認していた。毎日一度は確認する習慣だった。今日の索敵に異常がないか、糸の張り方に変化がないか。

 そこで、少し引っかかった。


 夜間の観測ログの中に、外縁区画の足音記録とは別の記録が混じっていた。一定の間隔を持った振動の記録だった。足音でも崩落前兆でもない。


「シルクス、今日もその振動はあるか」


 パスを通じて聞いた。

 ある、という感触が返ってきた。それから、もう少し情報が続いた。昨日より強くなっている。地下の奥から来ている。前砦地下の三段処理区より、さらに深い場所から届いている振動だという感触だった。


「ミレア」


「はい」


「シルクスが、地下の奥から周期的な振動を拾っている。昨日より強くなっている」


 ミレアが手帳を開いた。


「昨日の水位上昇が始まった時刻と、振動の記録を照合してみる。今夜シルクスに記録させる」


「今夜の観測に追加します」とミレアが書きながら言った。


「シルクスの振動分類の記録と、水位目盛りの到達時刻を、同じ時間軸で並べます。明日の朝に照合できる状態にしておきます」


「頼む」


 ユークはシルクスのパスを保ちながら、地下の方を見た。

 周期的な振動、とシルクスは伝えていた。自然の水流なら不規則になる。崩落の前兆なら周期性は出にくい。一定のリズムがあるなら、何かが周期的に動いている。


 第五沈殿槽系。旧図に記録されなかった区域。夜間に活発になる水圧。そして今、地下の奥から届く一定の振動。

 全部が同じ方向を指していた。


 前砦の灯りが、夕方の光に溶けていった。シルクスからのパスは続いていた。振動の感触が、静かに届き続けていた。地下の奥から、一定の間隔で。

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