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第54話 地下水位、遅れて上がる

 四日目の夜も、目盛りが動いた。

 ユーク・フェルドは地下の石柱の前に立ち、ルーメの灯りで目盛りを読んだ。五番目。昨夜と同じ位置だった。


 ただし、昨夜は日付が変わる前後に五番目へ到達していた。今夜は、夜が深くなる前にすでに五番目に来ていた。上昇のペースが少し早まっている。


「昨日より一刻早い」


 傍らに座っていたミレアが、手帳に記録した。


「到達時刻が一刻前倒し。連続四日目の夜間上昇確認。昼間の最高値は三番目で変わらず、夜に限って四番目から五番目で推移。以上で合っていますか」


「合っている」


 ユークは石柱から離れ、処理槽全体を順に確認した。

 第一沈殿槽。底の粒子は増えていた。流れ込んでくる水量が増えているのか、あるいは粒子が細かくなっているのか。どちらにしても沈殿量が増えている。


 第二薄め槽。灰泥の配合がいつもより濃く見えた。水が来る速度に灰泥の拡散が追いつかず、濃いまま次の段へ流れ込んでいる。

 モルト処理場。


 モルトが、処理場の縁から少し離れた位置にいた。

 いつもなら、水が来る場所に近い縁に陣取り、流れ込んでくる水を端から処理している。今夜は縁から一歩引いた石台に、体の半分を乗り上げた形で止まっていた。


 ユークはパスを通じてモルトの状態を確認した。

 重い。鈍い。水の中に浸かって作業を続けてはいるが、反応が遅い。


「……眠りかけているな」


「眠り、ですか」とミレアが顔を上げた。


「処理量が限界に近い時の挙動だ。眠ることで処理を一時停止して、回復しようとしている。これが出たら、今日の処理ラインは容量の上限に近いということだ」


「危険な状態ですか」


「すぐに倒れるわけじゃない。ただ、このまま流入量が増え続けたら、いずれ処理が止まる。処理が止まれば上の槽が溢れる」


 ユークはモルトの傍に立ち、パスを通じて短く伝えた。今夜の残りは無理するな、と。

 モルトから鈍い返答が来た。やっと聞こえたという感触だった。それだけ重くなっている。


「ルーメ、各槽の水を見てくれ」


 ルーメが処理槽の水面に近づいた。

 第一沈殿槽の水を照らした。光の色は、青緑だった。穏やかな揺れ方で、魔力の密度が低い。表層水はほとんど処理の必要がない水質に見えた。


「青緑、か」とミレアが書いた。


「安全側の色です」


「ただし底を見ろ」


 ルーメが光を槽の底に向けた。

 底の堆積物が、橙に光った。


「橙は注意域だ」


「沈んでいる方が高濃度ということですか」


「粒子が沈むのは、重い成分が下に落ちるからだ。魔力残滓は比重が高い傾向がある。表層の水質が良くても、底の堆積物に残滓が濃縮されていく。そこから少しずつ溶け出してくると、下の槽への影響が出る」


 ミレアが手帳に書いた。


「第一沈殿槽。表層・青緑。底部堆積・橙」


「次を見てくれ」


 ルーメが第二薄め槽へ移動した。

 光の色が変わった。青緑でも橙でもない。灰だった。


 水全体が、くすんだ灰色の光を返していた。明暗のはっきりしない、均一に重い光り方だった。


「灰は今まで見たことがなかったですね」


「第二薄め槽は灰泥を混ぜて魔力を分散させる槽だ。分散はしているが、残滓の総量は変わっていない。つまり、この槽全体が低濃度の残滓でむらなく満ちている。それが灰色として出ている可能性が高い」


「問題はありますか」


「この状態でモルト処理場に流れ込めば、モルトが処理するのは薄めた水ではなく、残滓が全体に広がった水ということになる。一口ごとの濃度は低いが、処理総量が増える」


 ミレアが手帳を閉じた。開き直した。


「第二薄め槽。全体・灰。分散済みだが残滓総量は減っていない。モルトへの処理総量が増加していると推定」


「そういうことだ」


 ユークはモルト処理場を見た。モルトは石台の上で動いていなかった。水が流れ込んでいるのに、処理が追いついていない。


「今夜、何が起きているか整理する」


 ユークは石柱の側面に手をついた。


「表層の水質は悪くない。クルン村の井戸が澄んでいる日と水位上昇が連動していることは確認した。村側に流れていた水が前砦地下に来るようになった。その分、流入量は増えた。それは最初から想定していた」


「想定内なら、なぜ問題が起きているんですか」


「想定していたのは流入量の増加だ。問題は、流入する水の中身が変わっていることだ」


 ミレアが顔を上げた。


「水の色はきれいだ。ルーメの反応も青緑が続いている。見た目の水質は改善している。だが魔力残滓の量は減っていない。それどころか、底に沈む量が増えている」


「どこから来ているんですか、その残滓は」


「それを今夜考えていた」


 ユークは地下の奥の壁を見た。三段の処理構造の向こうは石壁だった。前砦の外壁だ。だが、水が来ている以上、どこかから繋がっている。


「前砦地下はどこから水を受け取っているか」


「外縁奥からの傾斜路と、クルン村側の外水脈枝、ですよね」


「そうだ。第1章で引いたバイパスが外縁奥から繋がっていて、第2章の改修でクルン村側の流路が改善した。二本から水を受け取っている」


「どちらかに問題がある?」


「逆だ。問題は二本にあるんじゃない、三本目がある可能性だ」


 ミレアがペンを持ったまま、止まった。


「三本目、というのは」


「説明できる流入量と、実測の流入量が合っていない。外縁奥とクルン村側の二本から来ている水量だけでは、夜に限って水位が上がる理由が説明できない。昼に減って夜に増えるなら、昼と夜で動き方が違う何かが関与している」


「第三の流路が夜だけ動く、ということですか」


「もしくは、夜になると圧力が変わる何かがある」


 ユークは壁に耳を近づけた。地下の水音が聞こえた。処理槽が動く音だった。だがその奥に、もう一つ、微かな音があった。

 音というより、振動に近かった。一定のリズムを持った、低い押し返すような感触だった。


「シルクスに聞いた方が早いか」


「今夜も観測中です」


「明日の朝に照合する。今夜は今できることをやる」


 ユークは地下の流路を頭の中で整理した。

 今の三段構成は、水が来ることを前提に作られている。水量が増えても対応できるよう、グランが余地を確保していた。だが「夜間に限って圧が増す」という挙動には対応できていない。


 昼間は処理が追いつく。夜間は追いつかない。

 ならば、夜間だけ流入量を絞れば、今夜の問題は抑えられる。


「グランを起こす」


「今夜ですか」


「今夜中に仮板を一枚入れる。夜間だけ水路を絞る。全止めじゃない。流量を半分以下にするだけでいい」


 ミレアは少し考えた。


「グランに頼める作業ですか」


「板一枚の設置だ。水路の幅に合わせて石板を斜めに嵌める。グランが一番得意な仕事だ」


  *


 グランを呼ぶと、すぐに来た。

 前砦地下は狭い。グランの体が通路を埋めるような圧迫感があったが、それでも器用に体を折り、流路の入口前に回り込んだ。


 ユークは水路の入口を指した。外縁奥からの傾斜路が前砦地下へ流れ込む合流点だった。この位置に板を斜めに渡せば、流入の断面積が減り、水量が絞られる。


「ここに板を入れてくれ。幅が三分の一になればいい。固定は仮でいい。明日外せる程度の嵌め方にしてくれ」


 グランが流路を覗き込んだ。前脚で水路の縁を触り、幅を確かめた。それから周囲の石材を探し始めた。


「石材は向こうの補修用を使っていい。ただし一枚で渡る厚みのものにしてくれ。薄いと水圧で吹き飛ぶ」


 グランが動いた。補修材の積み置き場から、適当な石板を一枚引き出した。ミレアが灯りを持って照らす。石板の厚みを確認したグランが、流路の入口へ戻り、水流の中に体を入れた。


「水に入っても大丈夫ですか」とミレアが言った。


「グランは石に近い体質だ。水に長くいても問題はない。ただし時間がかかると冷える。早めにやらせる」


 グランが流路の中で石板を立てた。水圧を受けながら、板を斜めの角度に保ち、縁の窪みに嵌め込もうとしている。

 最初の試みは板が滑った。石板がずれ、半分落ちた。グランが体で押さえた。


「角度を変えてみろ。もう少し水流に対して斜めにする方が圧を逃がせる」


 グランが板を持ち直した。今度はゆっくりと、水流の抵抗を感じながら角度を調整した。

 板が縁の石に引っかかった。


 グランが前脚で縁を削った。石を少し欠いて、板が嵌まる溝を作った。それから石板を差し込んだ。

 水音が変わった。


 今まで一定に流れ込んでいた音が、少し細くなった。流入量が絞られた音だった。


「確認する」


 ユークは第一沈殿槽を見た。水が入ってくる流れが細くなっていた。以前の三分の一程度になっている。


「いいな」


 グランが流路から出た。体の前半分が濡れていた。水を受けた石肌が鈍く光っていた。


「ありがとう」


 グランが低く鳴った。それだけだった。


  *


 仮板を設置してから一刻ほど経った頃、水位目盛りを再確認した。

 五番目のまま、動いていなかった。


「上昇が止まった」とミレアが書いた。


「止まったんじゃない。速度が落ちた。夜の残りで上がり続けるかどうかは、明日の朝に確認する」


「一応の効果はあったということですね」


「仮板一枚で処理が追いつくなら、今夜の問題はこれで抑えられる。ただし根本の原因は変わっていない」


「根本というのは、夜間に圧力が増す何かですか」


「そうだ。仮板は応急処置だ。毎夜板を入れて毎朝抜く運用は、持続できない。原因を特定して、夜間の流入量そのものを安定させる必要がある」


 ミレアが記録帳を整理した。


「今夜の対応まとめ。夜間水路絞り仮板設置・グランによる施工確認・水位上昇速度の低下を確認・根本原因は継続調査中。以上でよいですか」


「一点追加してくれ。モルトの処理量超過が確認された。明日の昼に処理量上限を見直す必要がある」


「記録します」


 モルトが処理場の縁に戻っていた。流入量が落ちたことで、処理が追いつき始めたらしかった。ゆっくりと、水面に沿って動き始めている。

 ユークはモルトの傍に立った。水の音が少し穏やかになっていた。


「今夜はこれでいい」


 パスを通じて伝えた。

 モルトから、弱いが落ち着いた返答が来た。眠りかける寸前の重さはなくなっていた。ただし疲れていた。


「明日の昼まで、無理な速度で食うな。夜の残りは自分のペースでいい」


 また、弱い返答が来た。


「明日の昼に確認しに来る」


 モルトの体が少し揺れた。分かった、という感触だった。


  *


 地下から上がると、前砦の夜が静かだった。

 ミレアが水を一杯作って渡した。ユークは石台に腰を下ろしてそれを受け取った。


「今日分かったことを整理する」


「どうぞ」


「今夜の異常は、三段処理構造の設計容量の問題ではなかった。流入量は設計範囲内だ。問題は、夜間に限って流入量が増え、しかも水の中の魔力残滓の密度が上がることだ」


「見た目の水質は悪くないのに、ということですね」


「そうだ。クルン村の井戸が澄んでいる。表層の水質は改善している。これは事実だ。だが前砦地下の底には残滓が沈んでいる。夜になると、どこかから圧がかかって、その底に溜まった残滓ごと水が押し込まれてくるような感触がある」


「押し込まれるというのは、上流から来る量が増えるということですか」


「上流から来るだけなら、昼夜の差がない。夜だけ増えるということは、夜に活発になる何かがある。水脈は自然な水圧の他に、地熱、地下生物の動き、外部の気圧変化などに影響を受ける。ただ、そのどれとも少し違う感触がある」


「どう違う」とミレアが聞いた。


「リズムがある」


 ミレアがペンを止めた。


「水位の上昇が、一定の間隔で来ている気がする。自然の水圧なら、もう少し不規則なはずだ。シルクスが振動を拾っているはずだから、明日の朝に記録を照合する」


「リズムがあるということは、何かが周期的に動いているということですか」


「そうなる。施設でいえば、堰の開閉とか、圧力弁の動きとか、そういうものだ。ただし、前砦地下にそういう設備は今のところ確認していない」


 ミレアは手帳に書いた。しばらく書いてから、顔を上げた。


「ユーク、一点確認していいですか」


「どうぞ」


「前砦地下の三段構成は、ユークとグランとモルトが今の迷宮の状態に合わせて作ったものですよね」


「そうだ」


「監督院の旧図面には、前砦地下の構造は記録されていましたか」


 ユークは少し考えた。


「旧図面には前砦地下の記録はなかった。水路の記録がないまま、現場で引いた」


「つまり、現在の前砦地下の構造は、旧図面と照合できない」


「……そういうことになる」


「エルリオから届いた旧図面の写しには、外水脈枝の記録があると言っていましたね」


「ああ。ミレアが第2章の途中で写しを受け取って、照合を始めていた」


「昨夜、エルリオからまた手紙が来ました」


 ユークは顔を上げた。


「内容は」


「短いものでした。旧図面の外水脈枝の記録に、現場での実測値が合わないと。エルリオが監督院の保存庫で改めて確認したところ、旧図面には前砦地下の流路が記録されていないだけでなく、外水脈の分岐点が実際の現場と位置が違うと」


「位置が違う」


「二十間から三十間ほど、奥側にずれているそうです。旧図面では前砦の壁の外に分岐点があるが、エルリオが旧資料と実測を突き合わせると、実際の分岐点は前砦の床の下かそれより奥にある可能性が高い、と」


 ユークは少しの間、黙っていた。


「前砦の床の下、か」


「はい」


「前砦地下の三段構成より、さらに奥ということになる」


「そういう計算になります」


「旧図面に記録がなく、実測値と位置が合わない水脈の分岐点が、前砦の床下にある」


「エルリオは、旧図面が間違っているのか、記録されていない流路があるのか、まだ判断できないと書いていました。ただ、現地で確認した方がいいと」


 ユークは地下の方向を見た。今し方確認したばかりの処理槽の奥。石壁の向こう。

 夜間の水位上昇。リズムのある圧力。底に沈む魔力残滓。ルーメが出した灰色。


 全部が、同じ方向を指していた。


「前砦地下の先に、まだ何かある」


 ミレアが記録帳を閉じた。


「エルリオの手紙は、ここに来る前に通知しておくべきでしたか。遅くなりました」


「今夜聞けた方が良かった。だが結果として今夜の調査で同じ結論に辿り着いた。タイミングは問題ない」


「そうですか」


「明日、エルリオの旧図面の写しと、ここの実測記録を並べる。前砦地下の先に何があるか、まず紙の上で確認してから現場を見る」


「分かりました。エルリオへの返信は私が書きますか」


「頼む。旧図面の写しを、前砦地下の実測図と照合できる形で送ってほしいと伝えてくれ。写しが手に入るなら、現場の分岐点の位置と深さの記録があるものが欲しい」


「記録します」


 前砦の灯りが揺れた。風は吹いていない。地下から上がってくる空気が、今夜少し違う気がした。

 温度ではない。重さに近い何かだった。


 ユークはそれに気づいたが、何も言わなかった。今夜確認できることは確認した。仮板が入り、モルトが落ち着き、水位の上昇が止まった。

 それで十分だった。


 残りは明日、紙の上から始める。

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