第53話 水番と呼ばれて
前砦の朝は、水の音から始まる。
地下の処理槽で流れ続ける音が、石の床を伝って足の裏に届いていた。ユーク・フェルドはそれを聞きながら、受付台の前に立ち、昨日の記録帳を開いた。最後のページに、ミレアの字で「前砦地下水位・平常範囲内」と書いてある。昨日の夕方に記録したものだ。
「平常範囲内」
数字の横に、薄く鉛筆で引かれた補助線があった。ミレアが照合のために入れたものだろう。前砦地下には、先月グランが石の柱に刻んだ水位目盛りがある。処理槽の水が目盛りのどこまで来ているかを、毎日記録するようにしていた。昨日の夕方時点では問題なかった。
今朝の確認はまだしていない。
ユークは記録帳を閉じ、地下へ向かおうとした。その時、前砦の外から走る足音が聞こえた。
小さな足音だった。石畳を蹴る音が、妙に急いでいた。
扉の前に立つと、外からぶつかるような勢いで扉が揺れた。ユークは引き手に手をかけ、ゆっくりと開けた。
そこに子どもが立っていた。
十歳前後だろう。顔が赤く、肩で息をしていた。麻の上着に泥がついていた。山道を急いで登ってきた汚れ方だった。
「管理人さん! 井戸が、また澄んでた」
ユークは少し待った。「また」という言葉の意味を確認するために。
「昨日だけじゃなかったのか」
「昨日も今日も朝に見に行ったら、底が見えた。お婆ちゃんが、伝えてこいって」
ユークは外へ出た。空が白い。日の出からまだ一刻も経っていない時間だった。
「お前の名前は」
「リクです。おじいちゃんの畑の隣の家の子です」
「一人で来たか」
「走って来た」
子どもは肩の荷を下ろすように、少し胸を張った。任務を果たした、という顔だった。
「中に入れ。寒いだろう」
リクが前砦に入るのを見て、ユークも後に続いた。
*
ミレアはすでに起きていた。受付台の端に座り、記録帳を開いていた。ユークとリクが入ってくるのを見て、立ち上がった。
「クルン村の方ですか」
「リクです。井戸が澄んでました」
「昨日に続いて、今日の朝も」とユークが補った。
ミレアは記録帳にペンを走らせた。
「確認させてください。今日の朝、つまり今日の第一刻から夜明けの間に、クルン村の共同井戸の水が澄んでいたと」
「うん。昨日みたいに底が見えた。夕方も大丈夫だったって、村の大人が言ってた」
「昨日の夕方も澄んでいた」
「そうです」
ミレアが書いた。ユークはリクの傍らに立ち、その記録の動きを横から見ていた。
「二日連続で一日を通して改善が確認された。昨日の記録と合わせると、連続二日ということになります」
とミレアが言った。
「記録日時は今日の夜明け前後、報告者はクルン村のリク、内容は共同井戸の水質改善が昨日夕方から続いていることの確認。以上でよいですか」
「そうしてくれ」
「記録に入れます」
リクが記録帳を不思議そうに見ていた。
「全部書くんですか」
「全部書きます。あなたが今日来て伝えてくれたことも、記録に残ります」
「俺が書かれるのか」
「名前は入ります。匿名にした方がいいですか」
リクは少し考えた。「別にいい」とぶっきらぼうに言った。それが精一杯の照れ隠しに見えた。
ユークは台所で水を一杯作ってリクに渡した。外の井戸ではなく、前砦が管理している分の水だった。リクはそれを受け取り、一口飲んで首をかしげた。
「あ、これ村の水じゃない」
「前砦の処理済みの水だ。味が違うか」
「ちょっと甘いような、でもちゃんとした水の味がする」
ユークは何も言わなかった。ただ、心の中でルーメの処理結果を確認した。前砦地下の最終槽を通った水は、魔力残滓がほぼ除去されている。それが「ちょっと甘い」という感想につながっているのかもしれない。
面白い観察だ、と思ったが、それは今の話ではなかった。
*
「一つ、頼みたいことがある」とユークはリクに言った。
「なんですか」
「毎朝と夕方、井戸を見てほしい。状態を二段階で構わない。澄んでいるか、濁っているかだけでもいい。それを前砦に伝えてほしい。毎日来なくていい。三日おきでも構わない。ただ、変化があった時は早めに知らせてほしい」
リクは少し顔をしかめた。
「おじいちゃんに怒られるかも」
「どうして」
「山の人間のために働くなって、言われてるから」
ユークはそれを聞いて、少し考えた。
「村の大人は、まだ俺たちを信用していない」
「……うん。お婆ちゃんは、水が良くなってるから伝えて来いって言ったけど、おじいちゃんは迷宮に水を握られるのは嫌だって言ってた」
「正しい警戒だ」とユークは言った。
リクが目を丸くした。ミレアも少し顔を上げた。
「え、正しいの?」
「迷宮が水脈を動かしているのは事実だ。その迷宮を俺たちが管理している。村の立場からすれば、自分たちの水を知らない人間の手に委ねる形になる。警戒するのは当たり前だ」
「じゃあ、なんで頼むんですか」
「俺が欲しいのは、村の手伝いじゃなくて、情報だ。村の井戸がどうなっているかは、前砦からは見えない。見えないまま作業を続けると、何かが悪化した時に気づくのが遅れる。それが困る」
「情報を教えるだけでいいの?」
「それだけでいい。村の水が改善しているのは、村の人間が自分で確かめてもらう必要がある。俺が行って「良くなりました」と言っても、信用する理由がない。でも、村の人間が自分の目で確かめて、前砦に報告して、その記録が積み重なれば、何かあった時の根拠になる」
「……俺が見た井戸の記録が、ですか」
「そうだ」
リクはしばらく黙っていた。子どもにしては長い沈黙だった。
「分かった。朝と夕方、確かめる。変化があったら来る。来れない時は誰か代わりに来させる」
「それで十分だ。ありがとう」
リクは「うん」と言って、コップをミレアに返した。
*
リクが前砦を出ると、ミレアが記録帳を閉じた。
「依頼の内容も記録に入れました。毎朝夕の井戸状態、三日おきを目安に報告、変化時は早急に、担当はリク。報告は非公式ですが、記録上は観測協力として扱います」
「そうしてくれ」
「一点、確認していいですか」
「どうぞ」
「今、リクに頼んだことは、村の大人に了承を取っていない形ですね」
「取っていない」
「問題になりませんか」
「なるかもしれない。ただ、村の大人に頼むと断られる。リクが自分で判断して動いてくれるなら、それは村からの自発的な観測だ。俺が指示したという形より、そっちの方が後で使いやすい」
「……それは記録に入れていいですか」
「入れるな」
ミレアは何も言わなかったが、記録帳のページを一枚めくった。それだけだった。
ユークは地下への階段口に向かった。水音がいつもより少し大きかった。いや、大きいというより、届き方が違う。
「地下を確認してくる」
「一緒に行きます」
二人で前砦地下に下りた。
石の階段を降りると、処理槽の水が光を受けて揺れていた。三段の構成が、今日も機能している。第一沈殿槽の底に粒子が沈んでいた。第二薄め槽の水は、灰の混じった落ち着いた色をしていた。モルト処理場では、モルトが水の縁に沿って動いていた。朝の処理を始めている。
ユークはグランが柱に刻んだ水位目盛りに近づいた。
水位の線が、目盛りの三番目にあった。昨日の夕方は二番目だった。
「一段上がっている」
ミレアが手帳に書いた。
「今朝の水位、三番目。昨日夕方は二番目。差が一段。確認時刻は……今」
「村の井戸が澄んだ昨夕から今朝にかけて、前砦地下の水位が上がっている」
「連動していると」
「連動しているなら、そういうことだ。まだ一日二日の話だから断言はできない。ただ、方向はある」
ミレアが計算するように少し間を置いた。
「村の井戸が澄む=前砦側に水が来ている、ということですか」
「単純に言えばそうだ。村へ行っていた分の水が、前砦地下へ来るようになった可能性がある。処理槽全体への負荷が上がれば水位が上がる」
「それは問題ですか」
「今の水位は許容範囲内だ。ただ、これが続くか、あるいは増えるかによって、変わってくる」
「監視を続けるということですね」
「そうだ。リクからの報告と、地下の水位記録をセットで管理してくれ。村が澄んだ日と、地下水位が上がった日が一致するかどうか。一週間分あれば、傾向が見える」
「記録形式を作ります。今日中に」
「頼む」
モルトが処理場の縁を移動した。水が少し押し上げられる感触があった。ユークはパスを通じてモルトの状態を軽く確認した。重さはあるが、過負荷ではない。今朝の水量にはまだ対応できている。
一段上がった水位目盛りを、ユークはもう一度見た。
村が澄んだから解決した、ではない。村が澄んだ分の何かが、こちらに来ている。水というのはそういうものだ。出口がなくなれば、別の経路を探す。
「今夜また確認する」
「記録します」
「昼も確認してくれ」
「分かりました」
二人は地下から上がった。
*
午後になって、ユークは外縁区画の点検に出た。シルクスが先に出ていた。糸の配置を確認しながら奥まで進んでいくユークの足元に、どこかからシルクスの糸の細い先端が触れた。索敵中のシルクスが、自分の存在を知らせているのだ。
「今日は何かあったか」
パスを通じて聞いた。
返ってきたのは、特に異常なしという平静な感触だった。ただ、地下の振動が今朝はいつもより早く来た、という引っかかりも含まれていた。
地下の振動。
ユークは足を止めた。前砦地下の水位が上がったタイミングと、シルクスが感じた地下振動のタイミング。それが重なるかどうか、確認していなかった。
「覚えていたら、振動の時刻を教えてくれ。今夜、水位と照合したい」
シルクスが短く応えた。伝わった、という感触だった。
ユークは点検を続けた。外縁区画の床は今日も安定していた。グランが補修した部分が、踏み込んでも沈まない。壁の亀裂は昨日確認した位置から動いていない。
問題はなかった。だが、地下の水位は上がっている。
今のところ、それは処理できている範囲だ。モルトが止まっていない。三段の仕組みが動いている。前砦の床が水を含んでいない。
だが、夜はどうなるか。
水脈の挙動は昼と夜で変わることがある。地熱の差、外圧の変動、地下水の活動時間帯。昼に「問題なし」と判断した数字が、夜に動くことはある。
そのために、目盛りがある。そのために、シルクスが振動を分類している。
ユークは外縁区画の奥から前砦方向を見た。夕方の光が石壁に斜めに当たっていた。
リクがまた来るかもしれない。夕方、井戸を確認した後で。
前砦が情報を受け取る場所になっていた。今日だけかもしれない。だが今日、確かにそうなっていた。
村の子どもが朝に走ってきた。水の状態を知らせに来た。そして帰っていった。
灰環前砦が、受け取る側になった一日だった。
*
夕方、ユークは再び地下へ下りた。
水位目盛りを確認した。
四番目に来ていた。昼に確認した三番目から、さらに一段上がっていた。
「ミレア」と声をかけた。
地下の入口に立っていたミレアが、手帳を取り出した。
「夕方の水位確認。四番目。昼が三番目、朝が三番目、昨夕が二番目。今日一日で合計二段上昇です」
「夜の間にどう動くか」
「今夜も確認しますか」
「夜中に一度見る。日付が変わる前後に」
「私も起きます」
「一人で構わない」
「記録は私がします」
話し方は穏やかだったが、そういう意見は取り下げない人間だった。
ユークは少し考えた。
「……分かった。ただし夜中に動き回る必要はない。数字だけ記録すれば十分だ」
「了解しました」
モルトは夕方になっても処理を続けていた。水位が上がっているにもかかわらず、止まる気配がない。処理量が増えている分、負荷は上がっているはずだが、今はまだ限界ではない。
ユークはモルトの縁を一周した。様子を見た。モルトの膜が少し緊張しているような感触があった。過負荷ではないが、余裕がある状態でもない。
「夜にまた確認する」
モルトに向けて言った。伝わるかどうかは分からない。でも言葉にする癖があった。パスを通じた確認より、声で言う方が少し安心できる、という理由だけだった。
地下を出て、前砦に戻った。
受付台の前に立ち、今日の記録帳を見た。ミレアが整理した記録が、今日だけで三枚になっていた。
井戸の報告。水位記録。リクへの依頼内容。シルクスの振動メモ。外縁点検の結果。モルトの状態。六項目が今日一日で増えた。
その中に、「クルン村からの観測協力依頼・承諾者リク」という一行があった。
ユークはそれを見て、少し立ち止まった。
リクが「正しい警戒だ」と言ったことに驚いた顔をしていた。子どもだから素直に顔に出る。おそらく、村の大人たちに「山の迷宮は危険だ」「近づくな」と言われながら育った子どもだ。その子が、今日前砦に一人で来て、水の状態を伝えて、頼みを「分かった」と言って帰っていった。
記録に残る名前が一つ増えた。
それ以上のものではない。だが、それ以上のものではないからこそ、積み上げられる。
ユークは記録帳を閉じた。
夜になった。
前砦に灯りが一つ灯った。
ユークとミレアが、日付が変わる前に地下へ下りると、水位目盛りが五番目に来ていた。
昼の三番目から夕方の四番目。夜に五番目。
一日で三段上がっていた。
「昼と夜の差が大きい」とミレアが書きながら言った。
「夜間に水位が上がる。それが続くようなら、昼夜で挙動が違う何かがある」
「夜間に活発になる水脈の活動があるということですか」
「もしくは、夜間に誰かが何かをしているか」
ミレアがペンを止めた。
「誰かが、というのは」
「水脈は自然なものだ。だが、挙動に規則性があるなら、何かが周期的に動いているということになる。今夜だけなら偶然かもしれない。明日の夜も同じなら、調べる必要がある」
「記録します。夜間水位上昇、明日以降も継続観測の必要あり、と」
「そうしてくれ」
水位目盛りの五番目を、ユークはもう一度見た。
目盛りはグランが刻んだものだ。目盛りの外側に余白がある。六番目、七番目になる余地がある。
夜の地下は、昼より静かだった。水の音だけが満ちていた。モルトは処理を続けていた。眠ることなく、止まることなく。
ユークはそれを確認して、地下を出た。
明日の朝、リクがまた来るかもしれない。あるいは来ないかもしれない。来なくても、前砦の地下の記録は続く。
水位目盛りが夜だけ動くことを、ユークは今日初めて知った。
次は、それがなぜかを知る必要がある。




