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第52話 回りはじめる外縁

 朝の第一刻を少し過ぎた頃、ドーランが前砦の石畳に荷を下ろした。

 革袋が二つ。補修油と布だ。先週と同じ内容で、先週と同じ量だ。


「いつも通りだ」とドーランは言って、荷の口を解いた。


「先週頼んだ薄布は倉庫に一枚残ってたから、今週は一枚少ない。足りなければ来週補充する」


「分かった。ありがとう」


「礼はいい。ついでに、ラスティアの方で話を聞いてきた」


 ユーク・フェルドが顔を上げた。ドーランは荷を壁際に立てかけながら続けた。


「あのグニェルという商人が、灰環前砦の利用規則を持って商工組合の知り合いに見せたらしい。大した話にはなっていないが、限定利用の申請書を作っているところがあると知れ渡っている。次に来るのは今週か来週だろうな」


「来週の予約はまだ入っていない」


「来るかどうかは分からない。ただ話が広まっているのは事実だ。備えておいた方がいいぞ」


 それだけ言って、ドーランは今日の帰り荷の確認に移った。採集物の分類を記録した紙と、前砦からラスティアへ戻す副産物の荷を照合する。必要以上に話さないが、必要なことは全部言う。それがドーランという人間だとユークは理解していた。

 ドーランが前砦を出た後、ユークは前砦地下へ降りた。


  *


 地下の処理区に、クルン村から来た木桶が置かれていた。

 老婆から受け取ったあの桶だ。底板を補修して、第一沈殿槽の隣に据えている。外縁奥から流れ込む高濃度水が第一沈殿槽を通った後、上澄みがこの桶に溜まる形になっている。桶の側面に、水位を測るための目盛りを刻んだのはミレアだ。「日次で確認しやすいように」という理由だった。


 今朝の水位は、目盛りの三のところにある。昨日より少し高い。流入量が増えている。外縁奥の水脈の周期がまた変動しているかもしれない。

 モルトが処理槽の縁にいた。


 ユークが降りてきた気配を感じて、少し体を持ち上げた。起きているか眠っているか分からない様子で、縁に乗ったまま処理槽の水面を見ていた。流入量が多い朝は、こうして早くから待機している。急かさなくていい。モルト自身が今日の処理量を読んで、ペースを決める。それで十分だ。


「今日は多いかもしれない。無理はするな」


 モルトから緩い返事の感触が届いた。分かっているという感触だった。

 グランは壁の奥にいた。姿は見えないが、地下の石材を定期確認している時の低い振動が伝わっていた。先週、第二薄め槽の壁材に小さなひびが入っているのを確認した。今日はそこを重点的に確認するようにと、昨日パスを通じて頼んでおいた。その確認をしているらしかった。


 ユークは桶の水位を手帳に書いた。それから処理槽の状態を確認して、地下を出た。


  *


 今日の予約は一組だった。

 ラスティア方面からの採集者二人組で、男女どちらも三十代前後の見当だった。前砦に着いたのは朝の第二刻。規則板を二人で読んでいる時間が少し長かった。読んでいるのか迷っているのかは分からないが、ルーメが規則板の横で穏やかな青緑を灯している間、二人は板の前から動かなかった。


 受付台に来て、ユークに声をかけた。


「利用方法は合っていますか。事前に確認したことがあって」


「規則板の内容を守ってもらえれば問題ない。具体的に聞きたいことがあれば答える」


「ルーメというのが、今光っているあれですか」


「そうだ。灰赤に変わったら、理由を問わずすぐ撤退してくれ。あの色が出た時に留まると、事故になる」


「灰赤というのは、どんな色ですか」


「灰色がかった赤だ。赤と灰色の間の色で、橙とは違う。規則板の表示で確認してくれ。ルーメが実際に出している色を見た方が分かりやすい」


 二人は規則板を振り返り、ルーメを見た。ルーメがそれを感じたのかどうかは分からないが、色が少し変化した。青緑から薄い橙へ、また青緑へ戻った。見本を出したわけではなく、ただそこにいて光っているだけだ。それでも二人はしばらく見ていた。


「受付札を書いてくれ。氏名、入場時刻、持ち込む道具の種別。退場の時は必ず前砦へ戻ってから、ここに返却してくれ」


 二人が受付台に向かった。ミレアが記録帳を開いた。


  *


 二人が外縁区画へ入って行くのを、ユークは前砦の入口から見送った。

 ルーメが先に進み、通路を照らす。二人の足音がシルクスのパスを通じて届いてくる。重さが均一で、歩幅が安定している。緊張しているが、迷ってはいない。正規ルートをちゃんと歩いている。


 分岐の手前で、一瞬足音が止まった。

 脇道の方を見たらしかった。封鎖区画に続く道だ。フェズが天井で動いた気配がした。何をしたか分からない。ただ、二人の足音が分岐を真っすぐに進んだ。脇道へは向かわなかった。


 フェズの幻惑がどう機能したのかはユークには見えなかった。ただ、二人が止まった場所と、止まった時間と、それから真っすぐに進んだという結果だけが情報として届いた。フェズが何を見せたかは、フェズにしか分からない。それでいいとユークは思っている。

 前砦に戻ると、ミレアが記録帳に書いていた。


「入場二名、時刻は第二刻、分岐での停止は三秒。フェズの介入あり、脇道進入なし」


「見えていたか」


「シルクスのログを読んでいました。入場後の足音の変化は、ここから読めます」


「それを記録しているのか」


「分岐での停止時間が三秒以内なら正常範囲としました。それ以上停止した場合は要注意として記録します。今後のデータが積めば、どれくらいの停止が侵入の前兆になるかが分かると思います」


 ユークは少し考えた。それは自分では気づかなかった記録の取り方だった。分岐での停止時間を事故予兆の指標にするという発想は、シルクスのログを読み続けているミレアのところから出てきた話だ。


「続けてくれ。それは必要な記録だ」


 ミレアは何も言わずに書き続けた。


  *


 昼過ぎに、二人が戻ってきた。

 受付台に受付札を返し、採集物の確認を受けた。低位鉱砂が少量と、外縁安全帯の廃材石片が数個。指定品の範囲内だ。超過はない。


「思ったより少なかったですが」と一方が言った。


「外縁区画の採集量はそんなものだ。今の段階では、量より安全に戻ってくることの方が重要だ」


「また来てもいいですか」


「申請書に記入してくれれば受け付ける。ただし次回の枠は来週からしか取れない。今週はもう一組入っている」


 二人は申請書を一枚持って帰った。

 ミレアが退場時刻を記録した。それから採集量を書いた。怪我なし、事故なし、退場確認済み。今日の利用記録が一行分完成した。


 ユークはその記録帳を横から見ていた。

 入退場、採集量、事故の有無、分岐での停止時間。数字と文字が並んでいる。自分が作った仕組みが、数字として残っている。見ていると少し落ち着かなかった。悪い気分ではない。ただ、何か自分が介在しない速度で物事が進んでいる感触があった。管理者としてはそれが正解だ。自分なしでも動くことが目標だった。それでも、実際にそれが目の前にあると、居心地が少し定まらない。


「何かおかしいですか」とミレアが聞いた。記録を書きながら、顔は上げなかった。


「おかしくはない。正確に記録されているとは思う」


「では何を見ていたんですか」


「……これが外から見えるようになったと思うと、少し変な感じがする。他に言い方がない」


「先輩が作った仕組みが機能しているということですから、それで正しいと思いますが」


「分かっている。それでも変な感じがする」


 ミレアは少しの間ペンを止めた。それから記録帳の端に何かを一行書いた。


「何を書いた」


「管理者の感想です。後で役立つかもしれないので」


「また書いたのか」


「はい」


 ユークは返事をしなかった。否定はできなかった。


  *


 夕方、最後の点検を終えて前砦に戻った。

 外縁区画の床の状態、シルクスの糸の張り替えが必要な箇所の確認、グランが今日確認した壁材のひびの進行度。全部手帳に書いた。ひびは今のところ広がっていない。来週中に補修すれば問題ない。


 地下では、モルトが今日の処理を終えていた。

 処理槽の水が薄く澄んでいた。完全に澄み切ってはいない。でも流入してきた高濃度水と比べれば、別の水だ。これがモルトの処理槽を通った後の状態で、第三段階からクルン村方面の水脈へ流れていく。


 木桶の水位は今朝より下がっていた。流入量が少し落ち着いている。外縁奥の水脈の変動が収まったのかもしれない。明日また確認する。

 前砦に戻ると、ミレアが今日の記録のまとめを書き終えていた。


「今日の記録です。入場一組二名、採集量は基準内、事故なし。モルトの処理量は昨日の一・二倍。地下の水位は夕方時点で目盛り二に低下。シルクスのログで分岐での停止一件、フェズ介入後に正規ルートへ復帰。グランの確認により壁材のひびは現状維持。以上です」


「全部入っているな」


「全部入っています。ルーメの観察記録は別紙に整理しました。今日は青緑と橙の往復が二回ありましたが、いずれも異常範囲ではありません」


 ユークはその記録を受け取って、通しで読んだ。一日分の仕事が、半ページに収まっている。五体の働きが、数字と言葉になっている。外に出せる形の記録だ。


「一つ追加してくれ。今週の利用申請が来週に一件入る見込みだ」


「グニェルさんですか」


「おそらく。ドーランが朝に教えてくれた」


「記録します。来週の受け入れ準備として、申請書の余部を補充しておきます」


 記録帳が閉じられた。

 前砦に静かな時間が来た。


 ルーメが受付台の端で光を落としていた。今日一日、規則板の横に灯り続けた。利用者が来ない時間は穏やかな青緑で、分岐の手前では橙に揺れ、今はまた青緑に戻っている。ルーメは特に感情を出す個体ではない。ただそこにいて、仕事をしていた。

 シルクスの気配が壁の向こうにあった。夜の監視に移っている。朝から一度も表に出ていないが、今日の足音を全部記録していた。


 フェズはどこにいるか分からない。天井か、通路のどこかか。気まぐれな個体だが、今日は分岐で仕事をした。それで十分だ。

 グランは地下で動いていた。壁材の確認が終わって、今度は第一沈殿槽の底の状態を確認しているらしい。明日の補修に向けた準備だ。


 モルトは処理槽の縁で眠っているか、眠りに近い状態でいるはずだ。今日は処理量が多かった。明日は少し穏やかになる予定だ。

 五体が、それぞれのやり方で今日を終えようとしていた。


  *


 ユークは管理盤の前に来た。

 特に用はなかった。ただ、夕方の点検の最後にここを見る習慣ができていた。コアが何かを表示していることはほとんどない。日によっては薄く光るだけで、何も出ない。


 今夜は違った。

 台座の表示部分に、文字が浮かんでいた。


 『循環』


 昨日の「接続」ではない。二文字が変わっていた。

 ユークはしばらくその文字を見ていた。消えるまで待った。三秒か四秒ほど灯って、また消えた。


 循環。


 仮認証は変わっていない。外縁奥はまだ封鎖されている。水脈は完全ではない。人との関係も、信用しきれると言える段階ではない。何一つ、完成したものはない。

 それでも、コアが今夜「循環」と表示した。


 自分が作ったものが動いていると、コア自身が何かを感じ取っているとすれば、それはどういう意味なのか。ユークには分からなかった。コアに聞いても一語しか返ってこない。それ以上の説明はない。ただ、「仮認証」から「接続」へ変わり、今夜「循環」になった。

 変化の方向は、前を向いている。


 それだけで十分だとユークは思った。

 前砦に戻ると、ミレアが荷物を片付けていた。今日の記録が全部まとまった後の、帰り支度だ。


「コアが表示を出した」


「今夜もですか。何でしたか」


「循環、と」


 ミレアは荷物を持ったまま、少し考えた。それから帳面を取り出して、また書いた。


「循環。日付と時刻と持続時間を記録します。昨夜の接続と合わせて、コアの表示変化として一項目立てます」


「変化の意味は分からない」


「意味が分からなくても、変化したことは事実として残ります。後でつながるかもしれないので」


 ミレアが帳面を閉じた。今日の記録が全部終わった。

 前砦の外では、山からの夜風が石畳を通り過ぎていった。秋の入り口の風だった。クルン村の方角から来る風に、以前のような鉱物臭はなかった。


  *


 翌朝、ミレアが前砦に来た時、ユークはまだ朝の点検の記録を書いていた。

 ミレアが外套のポケットから小さな封筒を取り出した。


「昨晩、ラスティアの宿に届いていました。エルリオからです」


 ユークはペンを置いた。

 封筒を渡されて、開けた。中には一枚の紙が入っていた。短い文章だった。


 エルリオの字は小さく、丁寧だった。

 読んでいる間、ミレアは何も言わなかった。


 書いてある内容を整理した。監督院の内部で、灰環迷宮の閉鎖判断の根拠について再調査を求める申請が動き始めているらしい。誰が出したかは書いていない。ただ、エルリオが送ってきたということは、エルリオが知る立場にある。

 申請が動いたとなれば、監督院が今後どう動くか、まだ分からない。


 ユークは紙を折り畳んで、手帳に挟んだ。


「どう思いますか」とミレアが聞いた。


「来るなら来る。その前に整えておくべきものが、今は少しある。覚書の更新と、利用記録の継続と、水脈の次の観測期日だ」


「全部、今週中に対応できます」


「そうしてくれ」


 ミレアは記録帳を開いた。

 前砦の外では、朝の採集者が一人、受付台の前で規則板を読み始めていた。ルーメが板の横で穏やかに灯った。


 今日も一日が始まる。

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