第50話 外へ通る記録
前砦の石台に、記録帳が三冊並んでいた。
それが四冊になり、五冊になり、ミレアが午前中に前砦の受付台をほぼ占領した頃には、ユークは外縁区画の床補修の作業を理由に外へ逃げていた。
ミレアはそれを分かっていた。逃げてもいいと思っていた。今日の作業に、ユークの手は要らない。
記録帳を一冊ずつ開き、中身を読み、端にインデックスを貼っていく。監督院時代から培った分類の速度は、我ながら悪くなかった。入退場の日時。事故の有無。採集物の種別と量。修繕を行った箇所と日付。水質観測の数値。それぞれが混在している帳面を、五つに分けていく。
ユークの字は汚い。だが読める。そして、書いてある内容の密度は、現役の監督院職員より高い。採集者の体重の変化から異常を読み取ろうとした形跡があったり、ルーメの光色を三段階で記述していたり、ページの端に小さくシルクスから届いた振動の観測値が書き付けてあったりする。
問題は、それが外に出せる形ではないことだ。
前砦に戻ってきたユークが、壁際に立って記録帳の山を見ながら言った。
「全部並べ直したのか」
「今のところ、五つに分類しています。入退場と事故記録、採集量と品目、修繕履歴、水質観測、それと施設状態の日次記録。一冊の帳面に混在していたものを分けました」
「それをやると、何が変わる」
「外部から確認した時に、目的の情報に辿り着く速度が変わります。監督院の調査員が来た時に、事故記録を見せてくれと言われて、三十秒以内に出せる状態を作っておく必要があります。今の状態では、どこに何があるかがユーク先輩にしか分からない」
ユークは少しの間、何も言わなかった。
分類の必要性は理解している。ただ、これまで一冊に全部書いていたのは、帳面を持ち運ぶ時に楽だからという理由もあった。現場では荷物を増やしたくない。それを言うと、また「では現場用と保管用を分けましょう」と言われることも分かっていたので、黙っていた。
「シルクスのログは、今の形では外部向けにならない」とミレアが続けた。
「振動の数値を、人間が読める言葉に変換する必要があります」
「具体的にどうする」
「例えば、シルクスが記録している入退場の足音データ。これを日付・人数・入場時刻・退場時刻・退場時の異常有無という形式に変換すれば、事故記録の一部になります。今日から五日分でいいので、その形式で書き直してもらえますか」
「五日分か」
「サンプルとして。形式が定まれば、あとは私が補完します」
ユークはペンを手に取り、シルクスにパスを通じて過去五日分の振動ログを呼び出した。データが頭の中に流れ込んでくる。日付ごとに整理して、入場者数と退場時刻と異常の有無を書き出していく。五日分なら十五分もかからない。
書いたものをミレアに渡した。
「これでいいか」
ミレアはそれを見た。
「形式は合っています。退場時の異常有無の欄に、シルクスがどういう基準で判断したかを一行入れると、第三者が読んだ時に納得感が出ます。例えば、歩幅の変化率が何パーセント以上だった場合に異常と判断する、という基準が書いてあれば、単なる感覚ではなく観測基準があると示せます」
「シルクスは数字で判断しているわけじゃない。感覚で読んでいる部分がある」
「その感覚を、言葉で説明できる範囲で記述する。完全に数値化しなくていいです。人間でも、医師が触診で診断する時に数値だけで説明するわけじゃない。観察の根拠を言語化できていれば、信頼性は出ます」
その言い方は、ユークには少し腑に落ちた。モンスターの感覚を完全に翻訳しろという要求ではなく、翻訳できる部分だけ翻訳すればいいという話だった。
ルーメの光変化について作業する段になると、ミレアはテーブルに白紙を広げた。
「ルーメが今まで見せてきた色を、全部教えてください」
「青白、橙、灰赤、濁った緑、白、それと穏やかな揺れ方をする時がある。揺れ方で何かを伝えようとしている場合もある」
「確認できているのは何種類ですか」
「六種類だ。ただし白は今まで一度しか出ていない。外縁奥の高濃度魔力水に反応した時だ」
「レア事例は別枠で記録します。まず確認頻度の高いものから表にしましょう」
ミレアがペンを走らせた。色の名前と、それに対応する場所の状態と、取るべき行動を三列に並べていく。ユークが横から補足を入れる。青白は通行可。橙は注意、ただし即停止は不要で状況確認を優先する。灰赤は停止。白は撤退を考慮する未知の高濃度状態。
十分ほどで、簡易表の骨格ができた。
「これにルーメの実際の光を見せながら色確認をすれば、本物の対応表になります。その作業は明日にしましょう。私の色の認識がずれている可能性があるので」
「一昨日も同じことを言っていたな」
「ええ。昨日、採集者が来たので後回しになりました。今日は来ますか」
「午後に一組来る予定だ」
「では午前中に終わらせます」
そこへ、前砦の扉が外から叩かれた。
ユークが立つと、ミレアが「私が出ます」と言って先に動いた。
扉の外に立っていたのは、見覚えのない旅姿の若者だった。十代後半か。紐で丁寧に束ねた封筒を両手で持っている。
「灰環前砦の管理者の方に、お届け物があります。ラスティア経由で」
「差出人は」
「エルリオ・ハインズ様から、ミレア・ノスト様宛とのことです」
ミレアは封筒を受け取り、若者に礼を言って扉を閉めた。
封筒はミレア宛だった。ユークはそれを見て、作業に戻ろうとした。
「先輩、一緒に見てください」
ミレアの声に、ユークは足を止めた。
ミレアが封筒を開けた。中には二枚の紙が入っていた。一枚は短い手紙で、もう一枚は古い図面の写しだった。
手紙を声に出さずに読んだミレアは、図面の写しをテーブルに広げた。
「エルリオからです。監督院内部の保存庫から写した、灰環迷宮の外水脈旧図の写しだそうです」
「エルリオが動いていたのか」
「私が照会を入れていました。ただ、これほど早く届くとは思っていなかった」
ユークは図面を見た。
灰環迷宮の外水脈枝の位置を示した旧図だった。描かれた水路の配置を、頭の中の現状と照合していく。入口層からの主水路は合っている。外縁区画の手前の分岐もほぼ一致している。
だが、前砦の直下の部分を見た瞬間、ユークの手が止まった。
「……この水路が、ない」
「どこですか」
「前砦の地下、今の処理区のさらに奥だ。ここに繋がっているはずの支流が、この旧図には記録されていない。俺が掘った時に偶然発見した水路だ」
ミレアは図面を覗き込んだ。
「それは、監督院の記録から完全に抜けているということですか」
「抜けているか、意図的に外されたかのどちらかだ。エルリオの手紙には何が書いてある」
ミレアは手紙を読み上げた。
「外水脈第三観測井のデータが、閉鎖直前の三ヶ月分だけ未整理のまま保存庫に残っていたとのことです。その数字を追ったところ、外縁の水流は枯渇していたのではなく、詰まりによる逆流が起きていたと読めると。そして、旧図に記されていない水路の存在を示す観測値があると」
「エルリオはそれを、上に報告したか」
「個人的な覚書の形でしか動けなかったようです。正式に動くと『無かったことになった案件』を掘り返すことになるので、上役から止められているようで」
ユークは図面を見た。
前砦下の水路が、記録から抜けている。それは単なる見落としではないかもしれない。閉鎖判断を行った当時、この水路の存在を知っていれば、詰まりを抜く判断ができた可能性がある。それを「再生不能」と結論づけた報告書は、不完全な根拠の上に立っている。
エルリオがそれを掘り当てて、こちらへ送ってきた。監督院の上役に止められながら、覚書という形をとって。
「エルリオは、今も監督院にいるんだな」
「いるようです。ただ、動ける範囲が狭い」
「そうか」
それ以上は言わなかった。言う必要がなかった。かつて自分が教えた「数字が黙っていないところを見ろ」という言葉が、四年後に自分の手元に戻ってきた。
ユークは図面を丁寧に折り畳み、テーブルの端に置いた。
「ミレア、この旧図と今の実測値を照合した図を作りたい。前砦下の水路の実態を記録したものだ。それを、灰環前砦運用覚書に入れることはできるか」
「できます。ただし、監督院の旧図の写しを出典として引用する場合、どこから入手したかを書く必要があります。エルリオの名前を出すと、彼が困る可能性がある」
「出典は『閉鎖前の観測記録』だけにする。具体的な入手経路は書かない」
「それで問題ありません」
ミレアはそう言いながら、手紙を折り畳んで自分の外套の内側にしまった。
また午後の作業が動き始めた。
*
日が中天を過ぎた頃、三つのモンスターデータの変換が一段落した。
シルクスの入退場ログは、日付別の出入り記録として整形された。退場時の異常判定基準には「歩幅の収縮と左右の重心偏移を複合して判断する」という一行が入った。完全な数値ではないが、観察の根拠として機能する記述だ。
ルーメの光変化は、五段階の簡易表になった。各段階に対応する場所の状態と、取るべき行動が一行ずつ添えられている。白色の欄は「要撤退検討。前例一件のみ。詳細は別紙」と記した。
モルトの処理量は、週別の泥処理量として記録された。今週の数値と、三段処理構成が完成した直後の数値を並べると、流入量に対してモルトの処理余力が増えていることが一目で見えた。つまり、仕組みが機能している証拠になる。
「これだけ揃えば、第一段階の記録変換は完了です」とミレアが言い、ペンを置いた。「次は、これらを一つの文書にまとめます」
「正式報告書にするのか」
「まだ早い。今の段階で正式報告書を出すと、監督院が動く可能性があります。動かれるよりも、先に整えておく時間が必要です。ですから、今は覚書という形にします」
「覚書と正式報告書の違いは」
「覚書は『こういう状態にあることを確認した』という記録です。提出義務はない。ただし、後日正式な場で証拠として使えます。今の灰環前砦の運用を、覚書という形で記録しておけば、何かあった時に『管理者が存在し、適切な運用を行っていた』という証明になる」
ユークは少し考えた。
「タイトルは何にする」
「灰環前砦運用覚書、でどうですか。場所と性質が分かる名前がいい」
「それでいい」
ミレアは白紙を一枚出し、タイトルを書いた。
灰環前砦運用覚書。
その下に、作成日と作成者の欄を作った。作成者の欄にユークの名前を書こうとして、一度手を止めた。
「先輩」
「何だ」
「作成者の欄に、私の名前も入れていいですか」
「お前の判断でいい」
「では入れます。証人という形で。こちらが観察・記録を行い、先輩が内容を確認・承認した形にする。そうすれば、私の名前が第三者評価として機能します」
「お前は監督院の人間だ。それで問題が出ないか」
「現在は有給休暇中の個人として、この記録に関与しています。職務として行ったものではない。そう明記します」
「そこまで考えているなら、そうしてくれ」
ミレアはユークと自分の名前を並べて書いた。インクが乾くのを待ちながら、追加の項目を考えていた。
前砦下の水路の件を、どこにどう書き込むか。監督院の旧図との照合を、どういう形で証拠として残すか。エルリオの名前を出さずに、観測記録として整理する方法はあるか。
頭の中で整理しながら作業を続けていると、ユークが急に立ち上がった。
「来客だ」
シルクスからの情報が届いたらしかった。ミレアには分からない合図で立ち上がり、扉の方を向いた。
「採集者の予約組か」
「違う。街道から来ている。ラスティアの方角から、商人の荷車だ。ドーランの馬じゃない」
扉を開けると、石畳の外れに荷車が一台止まっていた。御者台から降りてきたのは、ラシャ布の外套を着た四十代の男だった。体格は中肉中背で、商人特有の愛想のよい顔をしている。
「灰環前砦の管理者の方はおられますか」
「私だ」
「ラスティアから参りました。このたびは、灰環迷宮の限定利用について、正式にお話し合いの場を設けていただきたく、伺いました」
男は外套の内側から一枚の書面を取り出した。
「こちら、限定利用の申請書でございます。記入の仕方が分からない点もございますので、ご説明いただければと思いまして」
ユークは申請書を受け取った。それから後ろを振り返り、ミレアを見た。
ミレアは記録帳を持ったまま、小さく頷いた。
作ったばかりの覚書が、もう使われる機会が来た。整えた記録が、この瞬間から意味を持ち始める。
「中へ入ってください。説明します」
ユークは商人を前砦に招き入れた。




