第49話 村の桶
クルン村の共同井戸は、前砦から山道を下って半時間ほどの場所にある。
ユーク・フェルドが村の広場に足を踏み入れると、井戸の周りに五、六人の村人が集まっていた。桶を手に持ち、誰かが何かを言うのを聞いているような輪だった。輪の中心にいたのは、村の顔役の老爺と、四十代らしい女性だった。
「また来たのか」
老爺がユークを見て言った。驚きではなく、確認だった。
「昨日、知らせを送ってくれたものの確認に来た」
「ああ、リタが行ったんだろう」
老爺は桶を持ったままユークに近づいた。
「見ろ。今朝汲んだ水だ」
桶の中を見た。
透明ではなかった。薄くかすんだ白みがあった。だが、以前のような灰色の重い濁りではない。底が見えていた。泡が立っていない。油膜もない。
「飲んでみたか」とユークは聞いた。
「怖くて飲めない。だがこれを見て、腹を下した奴はいない。汲んだ時間は朝の第一刻だ」
「朝に汲んだのは正解だ。今日の観測結果を教えてほしい。昼はどうだった」
「昼も同じ感じだった。夕方もまだ確認していない」
ユークは周囲の村人を見た。みな桶を持っていた。今日の水を自分の目で確かめようとしている人間の顔だった。
「これは治ったのか」と四十代の女性が聞いた。
「まだ分からない」とユークは言った。
女性が少し顔をしかめた。期待した答えではなかったらしい。
「昨日の一日は、条件が良かっただけかもしれない。今日が二日目だとして、来週また悪化する可能性は残っている。今の段階でできることは、毎日の状態を記録しておくことだ。悪化した場合にそれがいつ、どの程度だったかが分かれば、原因の特定が早くなる」
「じゃあ全然喜べないじゃないか」と老爺が言った。とがっているわけではない。ただ率直な感想だった。
「喜んでもらえるのは、一週間後でも一ヶ月後でも構わない。今日は確認できたことが一つある。昨日の一日を通した改善は、たまたまではなく仕組みが動き始めた結果だと思う。ただし仕組みはまだ安定していない」
「もっとはっきり言えないのか」
「言えない。現状を正確に言っている。この先に何かあってから、やっぱり直っていなかったと言われる方が困る」
老爺は少しの間ユークを見ていた。
それから「そうか」と言った。怒りではなかった。納得でもなかった。だが、受け取った、という顔だった。
輪が少し崩れて、村人たちが思い思いの方向へ歩き始めた。
*
広場の端に、古い石の腰掛けがあった。
そこに一人の老婆が座っていた。村人の輪には加わっていなかったが、ずっとそこからユークを見ていた。背中が丸く、白髪を後ろで束ねていた。手の上に、大きめの木桶が一つ、ひっくり返して置いてあった。
ユークが広場を出ようとした時、老婆が声をかけてきた。
「あんたが山の人か」
山の人、という呼び方だった。
「灰環の前砦にいる」
「知ってるよ。リタの子が話してた」
老婆はひっくり返した木桶を持ち上げた。古い桶だった。底の板が一枚、少し浮いていた。防水の補修が必要な状態だが、形は保っている。容量は十分ある。
「これ、要るか」
ユークは桶を見た。
「何のためにでしょうか」
「水を入れるのに使うんだろう、山の仕事で。こっちには小さいやつが三つある。大きいのは今は持て余している」
老婆の言い方は事務的だった。感謝でもなく、施しでもない。余っているから、必要なら持っていけという話し方だった。
「使えますね」
「じゃあ持っていけ。底の板が少し浮いているから、麻紐で縛れば持つ。縛り方が分からなければ教える」
「縛り方は知っています」
老婆は桶をユークに渡した。それ以上は何も言わなかった。腰掛けに座ったまま、ユークが広場を出るのを特に見ていなかった。
ユークは桶を持って歩き始めた。
実用として渡された、という感触だった。感情的なやり取りではなかった。それが逆に、ユークには受け取りやすかった。
*
広場を出て、村の外れの細道に差し掛かった時だった。
道の脇の藪の陰から、子どもが一人飛び出してきた。
八つか九つくらいだった。泥のついた靴。引っかき傷のある腕。走り慣れた足取りだった。
子どもはユークを見て、立ち止まった。
それから、大きな声で言った。
「灰環の水番だ!!」
村の方に向けた叫び声だった。
少し間があった。
広場の方から、四十代の女性の声が飛んできた。
「ちょっと、そういうこと言わない」
子どもは首をすくめて藪の奥へ逃げ込んだ。
ユークは立ち止まったまま、少し考えた。
灰環の水番。
水番、という言葉は、水路や水脈の維持を担う者を指す言い方だ。昔の迷宮周辺の地域では、水源の管理者を水番と呼ぶ習慣が残っている場合があった。監督院で資料を読んでいた時に見た記憶がある。
子どもがどこでその言葉を覚えたかは分からない。井戸の水が変わったこと、山の人間が関係していること、それだけを聞いてそう呼んだのかもしれない。
叱られた、ということは、村の大人たちはその言い方を認めていないということだ。山の人間にそういう役割の名前をつけることに、まだ抵抗がある。信用がそこまで届いていない。
それは当然だ、とユークは思った。
だが、子どもがその言葉を使ったことは、何かが動いた証でもある。
どう受け取ればいいのか、ユークには少し分からなかった。
村の方向を一度振り返った。広場には、また村人が戻ってきて、井戸の周りで話をしていた。
ユークは山道を登り始めた。
前砦に戻ると、ミレアが記録帳を開いて待っていた。
「お帰りなさい。桶を持ってきたんですか」
「村の老婆に貰った。余っているからと言って渡された」
「貰ったんですか、それとも借りたんですか」
ユークは少し考えた。
「渡された。返すという話はしなかった」
「では贈与として記録します。クルン村、提供者不明、木桶一個。今日の日付で」
「そこまで記録するか」
「記録します」
ユークは桶を前砦の壁際に立てかけた。それから水を入れた小瓶を取り出した。クルン村の井戸から汲んできた今日の水だった。
「ルーメ」
足元にいたルーメを呼んだ。ルーメが小瓶に近づいた。
光の色が変わった。
橙でも白でもなかった。青緑に近い、穏やかな揺れ方だった。安全帯で出す色に似ていた。まだ完全に同じではないが、危険を示す色ではなかった。
「どういう意味がある色ですか」とミレアが聞いた。
「今まで村の水を見せた時は、必ず橙か薄黄が出た。それが青緑に近くなっている。処理前の成分が減っている、というルーメの読みだと思う」
「数値で言えますか」
「言えない。ルーメの色は感覚的な指標だ。ただ、変化の方向は確かだ」
「変化の方向を記録します。前回の観察との比較として残しておけば、推移が見えます」
ミレアが記録帳に書いた。
ユークは前砦地下の方向を見た。処理場の水音が届いていた。
パスを通じてモルトの状態を確認した。
返ってきたのは、穏やかで緩い感触だった。処理量が落ちている。いつもより暇そうにしている、という感触に近い。
「モルトの処理負荷が下がっている」
「それは良いことですか」
「良いことだ。外縁奥からの高濃度水が前砦地下へ迂回されることで、以前より村の水脈への負荷が下がっている。モルトに入ってくる量が減った分、処理が楽になっている」
「記録します。モルト処理槽への流入量の低下を確認。前話の三段構成が継続的に機能している可能性あり」
ミレアが書いている間、ユークはシルクスを呼んだ。
パスを通じて確認する。今日のクルン村からの来訪者の足音記録はあるか。
返ってきた情報は、昨日前砦に来た若い村人の足音だった。今日の老婆の足音も記録していた。前砦の外縁には来ていないが、広場近くを通った際に拾っていた。
「シルクスが村人の足音を記録している」
「今日の来訪者のですか」
「それだけじゃない。昨日来た若い村人と、今日の老婆と、それ以前にも何度か近づいた足音がある。侵入者の記録とは別に、繰り返し来る人間の足音を分けて覚え始めている」
ミレアが顔を上げた。
「シルクスが自分でそれを分類しているんですか」
「意図して指示したわけじゃない。ただ、来る人間と来ない人間の違いを覚えていく習性がある。それが今、侵入者と訪問者の区別につながっている」
「記録します。シルクス、訪問者足音の自律的分類を確認。日付と対象の概要も残します」
ユークは少し考えてから言った。
「シルクスには特に何もしなくていい。自分でやり始めたなら、邪魔しない方がいい」
「分かりました」
ミレアが記録帳のページを追いながら、何かを整理しているように見えた。
「一つ、いいですか」
「どうぞ」
「今日、桶を貰いましたね」
「そうだ」
「布も貰いましたか」
「貰っていない。ただ、老婆の近くに古い布が折りたたんであった。渡された後で気づいた」
「それはあとで確認しに行きますか」
「行く気はないな。向こうから来るようなら受け取る」
「分かりました」
ミレアはそこで少し間を置いた。それから、やや真顔で続けた。
「ユーク」
「何だ」
「今日の桶の件、それから昨日のクルン村の報告、シルクスの足音記録、モルトの処理負荷の変化。この四つは全部、灰環前砦の運用記録に入れるべき事項です」
「分かっている」
「入れていますか」
「お前が今入れているだろう」
「私が入れているのは、私が観察したものです。あなたが今日村で見たこと、老婆と話したこと、子どもが言った言葉、それは私には書けない。あなたが書く必要があります」
ユークは少し黙った。
「子どもが言った言葉、というのは、記録に必要か」
「必要です」
「なぜ」
「クルン村との関係が、今どの段階にあるかを示す記録になるからです。信用されているわけではない。だが、子どもが水番と呼ぶ程度には認識されている。その段階を記録しておかないと、後で関係が変化した時に、どこからどう変わったかが分からなくなる」
ユークはまた黙った。
「……お前は本当に記録を大切にするな」
「あなたが記録を嫌いなのは知っています。でも、こういう支援こそ記録しなさい」
「支援」という言葉が、ユークの中で少し引っかかった。
桶は支援だったのか。老婆にとっては余り物だった。でも前砦から見れば、それは外から来た物資だ。クルン村との関係が、そういうものを動かす段階に入った、ということになる。
「……書いとくか」
「今日中に」
「分かった」
ミレアが記録帳を閉じた。
「一つ追加で聞いていいですか」
「どうぞ」
「子どもに水番と呼ばれた時、どう思いましたか」
ユークは少し考えた。
「分からなかった」
「分からなかった、というのは?」
「嬉しいとか、困るとか、そういう感情がすぐに来なかった。村の大人に叱られた、という事実の方が先に来て、つまりまだ信用されていないということが分かって、それが確認できた、という感触だった」
「その後は」
「少ししてから、子どもがそう呼んだこと自体は、悪くなかったかもしれないと思った。理由はまだうまく言えない」
ミレアは記録帳を少し開いた。
「書いてもいいですか、それ」
「書くな」
「分かりました」
ミレアは記録帳を閉じた。
だが、閉じる直前に、何かを一行書いたのをユークは見た。
「何を書いた」
「今日の天気と気温です」
ユークは何も言わなかった。
前砦の外では、昼過ぎの風が石畳を通り抜けていた。山の方から来る風だった。濁りの匂いがしなかった。以前は、風がこちらに向くと鉱物臭が漂っていた。それが今日はなかった。
小さな変化だった。誰も気づかない種類の変化だった。
だがそういうものが積み重なっていく、とユークは思った。




