第48話 きれいな水ほど危ない
その溜まりを最初に見つけたのは、朝の早い採集者だった。
前砦の受付を通り、外縁区画安全帯を抜けた先の左壁際。ルーメの灯りが届く範囲の端に、手のひらほどの大きさの水溜まりができていた。
深さはほとんどない。底の石が透けて見えるほど透明で、流れてきた先の亀裂から、今もごく細い水筋が静かに染み出していた。
採集者はそれを覗き込んで、しゃがんだ。
きれいな水だった。迷宮の中でこれほど澄んだ水を見たことはなかった。外縁区画に漂う独特の鉱物臭もなく、水面に濁りもない。乾いた喉を潤したくなるような、無害そうな見た目だった。
手を伸ばしかけた。
「触るな」
ユーク・フェルドの声が、通路を通って届いた。
採集者は反射的に手を引いた。ユークが安全帯の奥から歩いてきた。ルーメが足元に光を灯している。
「その水、飲んではいけない」
「でも、すごくきれいじゃないですか」
「きれいに見える。そこが問題だ」
ユークはしゃがんで水溜まりを見た。ルーメを溜まりの縁に近づけた。
ルーメが反応した。
それまでの青白い灯りが、突然強い白色に変わった。眩しいとは言えないが、今まで見たことのない光の強さだった。外縁安全帯で出ていた橙色の注意色とも、落下口で出た赤色とも違う。
強い白色。
採集者はその変化を見て、少し後ずさりした。
「あれは……」
「高濃度の魔力に反応している。今まで見たことのない色が出た時は、今まで見たことのない種類の問題だと思った方がいい」
「きれいな水なのに、魔力が高い?」
「処理前だからだ」とユークは言った。
「外縁奥の水脈から流れてきた水だ。外縁奥は封鎖中で、生態系がまだ安定していない。その水脈の水は、迷宮のコアに近い位置を通ってきている分、魔力濃度が高いまま流れ出てくる。通常、迷宮の水は生態系を経由することで魔力が段階的に消費される。外縁安全帯の水が飲める程度に落ち着いているのは、その処理が何段階も入っているからだ。外縁奥からじかに来た水には、その処理が入っていない」
「……飲んだらどうなる?」
「腹を下すか、魔力酔いを起こすか、どちらかだ。最悪は内臓の魔力過多で動けなくなる。死ぬ量ではないが、迷宮の中で動けなくなれば死ぬ」
採集者は水溜まりから少し離れた。
「今日の採集は続けていいですか」
「安全帯の範囲は問題ない。ただし、この溜まりには触れるな。処理が終わるまで、ここには近づかないこと。帰りに受付台のミレアに今日の状況を話してくれ」
「分かりました」
採集者は足早に安全帯の奥へ向かった。
ユークは水溜まりを見た。ルーメがまだ白く光っていた。
「……外縁奥の水が動いている。昨夜の水音の続きか」
手帳を出して書き付けた。「外縁奥からの水脈流出を確認。外縁安全帯左壁亀裂より染み出し。量は微量、継続中。ルーメが高濃度魔力に白色反応」と。
それからモルトを呼んだ。
モルトが来た。
ずんぐりとした体で水溜まりに近づき、鼻先を水面に向けた。
それから、動かなかった。
食べない。吸い込もうとしない。ただ水面を嗅いで、止まっている。
パスを通じてユークに感触が届いた。
強い。飽和している。薄まっていない。
モルトの胃が処理できるのは、ある程度の濃度まで薄められた状態の魔力水だ。第1章の処理作業でも、一気に全量を食わせず、処理の順番と量を細かく管理していた。今目の前にある水は、その限界を超えた濃度だった。
「食べられないか」
モルトが低く、不満そうな音を返した。食べたいが食べると危ない、という感触だった。
「分かった。薄める方法を考える」
ユークは周囲を確認した。
外縁安全帯には、グランが固めた床材の粉砕廃材が数箇所に積まれている。その中に、灰色の泥岩が混じっていた。
前砦地下の旧排水路から出た灰泥の固まり。第1章で処理した汚泥の中から、鉱物混じりの分を乾燥させて積み上げておいた副産物だ。
「これを使う」
ユークは灰泥の塊を一握り、水溜まりに加えた。
灰泥は水と混ざり、溜まりの底に沈んだ。透明だった水が薄く灰色がかった。
ルーメの光が少し落ち着いた。強い白から、薄い橙に変わった。
モルトが水溜まりに鼻を近づけた。
今度は少し待ってから、ゆっくりと吸い込み始めた。少量ずつ。確かめながら。
「いける量か」
モルトから肯定の感触が返ってきた。ただし速度は遅い。時間がかかる。
「そうか。一度に全量は無理だな」
ユークは灰泥の塊を持ち、もう一度手帳にメモした。
「灰泥と混合することで処理可能になる。ただし比率と速度の調整が必要。灰泥の量が多すぎるとモルトの処理に負荷がかかる」
水溜まりはまだ染み出している。
亀裂をそのままにしておけば、溜まり続ける。処理量が追いつかなければ、溜まりが広がる。広がれば採集者が踏み込む可能性が出る。
「グランを呼ぶ」
グランが来た。
ユークは水溜まりの位置と、前砦地下の処理区の位置関係を頭の中で結んだ。
「水溜まりをここで処理するのは限界がある。前砦地下に繋ぐ方が安全だ。グラン、この亀裂から前砦地下まで、水が流れる溝を通せるか。ただし、外縁安全帯の床は壊すな。壁の内側を通す形でできるか」
グランが壁に手を当てた。しばらく、動かなかった。石の構造を読んでいる。
それから低い振動を返した。できる、ではなく、時間がかかるという感触だった。
「今日中には無理か」
振動が続いた。明日の朝ならという感触だった。
「分かった。今日は仮処置だけする」
ユークは手元の灰泥で水溜まりの周囲に小さな堰を作り、溜まりがこれ以上広がらないようにした。モルトに残りの処理を続けさせ、ルーメに溜まりの監視を頼んだ。
「今日の採集者が帰る前に、ここに近づかないように伝える。明日、グランが溝を通せれば、前砦地下に流して処理できるようになる」
ルーメが橙色のまま灯り続けた。安全ではないが、即時危険でもないという意味の色だ。
ユークは前砦に戻った。
ミレアが記録帳を持って待っていた。採集者から話を聞いていたらしく、ページが既に開かれていた。
「外縁安全帯に、外縁奥からの水脈流出を確認したということですね」
「そうだ。ルーメが高濃度魔力に白色反応を出した。今まで出したことのない色だった」
「白色が最も高い濃度を示す色ですか」
「今のところはそう判断している。ただ、ルーメの反応は今まで見た範囲でしか解釈できない。もっと高い濃度があれば、別の色が出るかもしれない」
「記録に残します。ルーメの色と濃度の対応表を整理した方がよさそうですね」
「必要だと思っていた。後で一緒に整理してくれるか。俺の観察記録を渡す」
「分かりました」
ミレアはメモを取ってから、顔を上げた。
「一つ、指摘していいですか」
「どうぞ」
「今日の採集者は、あの水を飲もうとした」
「そうだ」
「ルーメの白色反応は、見る人間が初めて見る色だったはずです。今日の採集者はユークが止めたから飲まなかった。でも次にあの場所を通る人間が、あの色の意味を知っているとは限りません。そして、きれいに見える水を前にして、ルーメが白く光っていても、意味が分からなければ止まれない」
ユークは少し考えた。
「掲示が必要だということか」
「そうです。見た目と危険度が逆転する状況は、今後も起きる可能性があります。きれいに見える水が安全とは限らない、という説明が、受付段階か現場かのどちらかで必要です」
「受付段階で全部説明するのは難しい。現場の方が実感を伴う」
「なら現場に掲示を置く。ルーメの色と意味を一覧にした板を、安全帯の入口近くに立てる。少なくとも、きれいな水を見つけた時にはルーメの色を確認してから判断するというルールを作れれば、今日のような事態を防げます」
ユークはそれを聞いて、手帳に書いた。「ルーメ色表示一覧の掲示板。安全帯入口設置」と。
「お前の言う通りだ。作る。ただし、色だけじゃ伝わらない可能性がある。色盲の話はザグレスが教えてくれた。色以外の補助が必要な場合を考えておく必要がある」
「では色と形の組み合わせにする。青白は円形、橙は三角、白は放射状、赤は点滅で表現する。この四種類で基本の表示を作れます」
「まとまっているな」とユークは言った。「考えていたか」
「ザグレスさんの話を聞いてから、少し整理していました」
「それを言うタイミングをどこかで見ていたのか」
「機会を待っていました」
ユークは少し笑った。ミレアが記録帳に下を向いたまま何かを書き付けていた。
「何を書いた」
「管理者が笑った場面として記録しておきました」
「必要な記録か」
「後で役に立つかもしれません」
ユークは何も言わなかった。否定はしなかった。
翌日の朝、グランが壁の内側を通って水路を引いた。
外縁安全帯の左壁亀裂から、前砦地下への傾斜路が完成した。外縁奥からの水は自然な傾斜で前砦地下へ流れ込む形になった。
前砦地下の処理区に、新しい区画が加わった。
流れ込んできた高濃度の水を一度受け止める、第一沈殿槽。ここで重い粒子を沈殿させる。
次に、灰泥を一定量混合して魔力濃度を下げる第二薄め槽。グランが壁から切り出した石材と、旧排水路の灰泥を組み合わせた簡易な仕切りで構成されている。
最後に、薄まった水をモルトが処理するモルト処理場。ここへ流れ込む水は、既に適切な濃度に下がっているため、モルトが通常のペースで処理できる。
三段構成だった。
ユークは地下に下りて、水が流れる経路を確認した。
第一沈殿槽に、外縁奥からの透明な水が流れ込んでいた。底に細かい粒子が沈んでいく。上澄みが第二薄め槽へ流れる。灰泥と混ざり、少し濁った色になる。そこからモルト処理場へ。
モルトが処理場の縁で待っていた。水が流れ込んでくると、今度は止まらずに処理を始めた。
「いける」
「いける、というのは?」とミレアが地下の入口から言った。
「モルトが止まらない。濃度が適切な範囲に入っている。三段の順番が機能している」
「記録してもいいですか、入っても」
「どうぞ。暗いから気をつけて」
ミレアが下りてきた。三つの槽を順に確認して、記録帳に書いた。
「第一沈殿槽、第二薄め槽、モルト処理場の三段構成。稼働確認。水量は現状微量、モルトの処理速度に対して余裕あり。以上でよいですか」
「一点追加してくれ。外縁奥の水脈流量が増えた場合、第一沈殿槽の容量を超える可能性がある。その時のための増設余地を確認しておく必要がある」
「記録します。グランへの依頼事項として残しますか」
「そうしてくれ。急ぎではないが、頭に置いておいてほしい」
モルトの処理音が、地下に静かに響いていた。水が流れる音と、モルトが泥を分解する低い音が重なっていた。
ユークはその音を聞きながら、一段上の石台に腰を下ろした。
「水脈改善というのは、濁りを消すことじゃないということが、今日もよく分かった」
「というのは?」とミレアが聞いた。
「クルン村の井戸濁りを改善しようとして、最初にやったのは処理ラインを作ることだった。でも処理ラインで濁りを消しても、水の性質を変えているわけじゃない。今日の外縁奥の水は、見た目だけなら完璧にきれいだ。だが実態は処理前で危険だった。濁りがなければ安全、という基準は、水脈管理においては全く当てにならない」
「では正しい基準は何ですか」
「流れと濃度を管理すること。どこから来て、何を含んでいて、どの段階で処理されているか。見た目は最後の確認にしかならない」
ミレアはそれを書き取った。
「クルン村の井戸は、今どういう状態だと思いますか」
「第二薄め槽とモルト処理場が動き始めたことで、外縁奥からの水が前砦地下へ流れるようになった。これまで外水脈枝への負荷になっていた分が、前砦地下へ迂回されるようになる。クルン村への影響が出るかどうかは、しばらく観察しないと分からない。ただ、仕組みとしては今日の構成が機能すれば、改善の方向には向かうはずだ」
「確認に行くべきですか」
「近いうちに行くつもりだ。変化があれば今日中に連絡が来るかもしれない」
ミレアは記録帳を閉じた。
「一点だけ、追加で言っていいですか」
「どうぞ」
「今日の掲示板の件ですが、作るならルーメに実際の色を見せながら作った方がいいと思います。私が想定している色と、実際にルーメが出す色が一致しているかどうか確認してから。言葉だけで説明しても、伝わらない部分が出る可能性があります」
「それは考えていなかった。そうする」
「明日にでも時間を取れますか」
「取れる。午前中に」
「分かりました。記録に追記します」
地下のモルト処理場で、水の処理が続いていた。
三段の仕組みが、静かに動き続けていた。
その日の夕方遅く、クルン村から人が来た。
前砦の受付台に来た若い村人は、少し息を切らせながら言った。
「管理人さんはいますか」
「私です」
「あの、伝えに来たんですが……今日、井戸の濁りが、一日を通して戻らなかったんです」
ユークはペンを止めた。
「一日を通して、か」
「はい。朝から夕方まで確認したんですけど、濁りが戻ってこなかった。こんな日は、ずっとなかったと思って」
ミレアが記録帳を開いた。
「日付と時刻を記録させてください。今日、初めてそういう日になった、ということですね」
「はい、そうです」
ユークは少し考えてから、その村人に言った。
「教えてくれてありがとう。明日も確認してもらえるか。もし濁りが戻らない日が続くようなら、今日の仕組みが機能していると判断できる。継続して確認したい」
「分かりました。また来ます」
村人が前砦を出ると、ミレアが記録を確認した。
「前砦地下の三段構成が稼働した当日、クルン村の井戸で初めて一日を通じて濁りが戻らない日が発生した。記録しました」
「因果の証明にはならないが、相関は出た」
「相関でも、記録に残れば根拠になります」
「そうだな」
ユークは地下の方向を見た。
水の音は続いていた。モルトが処理を続けている音だった。
外縁奥からの水がきれいに見えることの意味を、今日ひとつ理解した。きれいな水は安全ではなく、処理が必要な水だ。その水を前砦地下で受け止め、段階的に処理する仕組みができた。
仕組みが動き始めると、外まで変化が出た。
それが今日の成果だった。




