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第47話 外縁奥、湿った呼吸

 外縁区画の安全帯の終端まで来ると、空気の質が変わる。

 温度ではない。湿り方が違う。入口層の湿気は、岩の染み出しや地下水の揮発で生まれる乾いた水気だ。だがここから先は、もう少し重い。まるで何かが息を吸って吐いているような、周期のある湿りがある。


 ユーク・フェルドが最初にそれを感じたのは、外縁奥の踏査に三人で入った三度目のことだった。

 ザグレス・オードが右に、ドーラン・ヘイズが左に並んで歩いている。


「……また来てたのか」


 とドーランが前を見たまま言った。ザグレスへの言葉だ。


「たまたまだ」とザグレスが答えた。


「たまたま二度も来るやつがあるか」


「近くに仕事がある」


「信じない」


「信じなくていい」


 二人の短いやり取りを聞きながら、ユークは足元の床を確認した。固い。グランが補強した区間が続いているうちは、崩落の予兆を拾いにくいが、足が沈む感触がないことは確認できる。


「ドーラン、床はどう見える」


「今のところ問題ない。ただ、歩いた後に足音の響き方が変わる箇所が二、三あった。安全帯の手前、最後の分岐の手前あたり」


「空洞化が始まっているかもしれない。帰りに確認する。場所を覚えておいてくれ」


「分かった」


 ドーランは荷運び仕事で鍛えた目を床に向けている。足場と退路の読み方が、ザグレスとは根本から違う。ザグレスは自分が死ぬかどうかを読む。ドーランは荷が無事に戻れるかどうかを読む。どちらもユークに必要な視点で、一人では代替できない。

 石標が見えてきた。


 グランが前回置いた踏査限界線の標だ。高さ三十センチほどの平たい石に、ユークが後から「立入禁止」と赤い顔料で書き入れた。

 三人はその手前で自然に足を止めた。


「ここから先は前回と同じ見え方をしているか?」とザグレスが聞いた。


「シルクスに確認する」


 ユークはパスを通じてシルクスに周期記録の照合を求めた。返ってきた情報を整理する。

 今日の接近時刻、壁面の振動、そして奥から戻ってくる風の方向。


「前回より、風が少し強くなっている。水圧が上がっているか、奥で何か流路が変わったかだ」


「良い変化か悪い変化かは分かるか」とドーランが聞いた。


「まだ分からない。ただ、変化があったということは、この場所が動いているということだ。動いている場所を開放対象にするには、もう一段データが要る」


 ルーメが足元で光を灯していた。

 安全帯の中では青白だった光が、石標を越えた瞬間から少しずつ色が変わっていた。今は淡い黄みがかった白だ。警告ではない。ただ、何かを感じ取って光の波長が変わっている。


「ルーメはどう読んでいる」とザグレスが言った。


「湿気に反応しているわけじゃない。水の圧力に反応している。きれいな水じゃなくて、粒子が多い水、要するに何かが溶け込んでいる水が動いている。それを壁の裏で感じ取っている」


「壁の裏で、か」


「直接触れている水じゃない。壁の石材を通して伝わってくる圧力の変化だ。ルーメはそういうものを拾う」


 ザグレスは壁に近づいて、手の平を石の表面に当てた。


「……確かに、振動がある」


「人間でも感じられるか」とユークは少し意外に思った。


「修業の賜物だ」とザグレスはあっさり言った。


「岩の裏で何かが動いている感触は、崩落前に岩が鳴く時の感触と少し似ている。ただこれは違う。崩落前は断続的で不規則だ。これは周期がある」


「そうだ。水が呼吸している」


 ザグレスは手を離して振り返った。


「いい表現だな」


「感覚的だが、一番近い」


 シルクスからパスで追加の情報が届いた。

 奥から戻る風の振動を精密に記録した数値だ。ユークがそれを手帳に書き写す。周期はおよそ四十七秒。振れ幅は前回比で一割増。完全な周期ではなく、ベースの周期の上に不規則な波がかぶさっている。


「これを整理すると、水脈の圧力に主周期があって、その上に生態系の動きが乗っている形になる。主周期は水圧、不規則な波は奥にいる何かの活動だ」


「何かというのは?」とドーランが聞いた。


「まだ分からない。モンスターかもしれないし、水生の菌類かもしれない。ただ、生きている何かがいる」


「それは問題なのか、問題ではないのか」


「どちらとも言えない。生きていること自体は迷宮の生態系として正常だ。問題は、それが今の状態で安定しているのか、まだ変動中なのかが読めないことだ」


 ドーランは頷いて、手帳に何かを書き付けた。自分用のメモらしい。字は小さく、ユークには読めなかった。

 ルーメの光が、また少し変わった。


 黄みがかった白から、灰色がかった濁った色になった。

 ユークはそれを見た瞬間、前に出た足を止めた。


「止まれ」


 二人が即座に止まった。


「ルーメが濁った。汚れた水圧が急に上がっている。水質が変わっているか、流路が一時的に詰まっているかだ。どちらにしても、今は前に出るタイミングじゃない」


「どのくらいで戻る」とザグレスが聞いた。


「分からない。周期が長ければ数時間、短ければ数分だ。今日のところはここまでだ」


 ザグレスは石標を見た。それから奥の暗がりを見た。


「退路が一本しかない構造で、水圧が読めない場所に入るのは悪手だな」


「そういうことだ」


「俺は賛成する」


 ドーランも何も言わなかった。反対の声を上げないのが、この二人の合意の仕方だとユークは分かっていた。

 グランがどこかから現れた。正確には、壁の亀裂から腕を伸ばす形で、新しい石材を外縁奥側の床に押し出してきた。


 石標の隣に、もう一本。

 前回のものより、少し奥に置かれた位置だ。


「グランが限界線を更新した」とユークが言った。


「勝手にか」とザグレスが言った。


「自分で判断した。今日の踏査で、前回より少しだけ安全に確認できた範囲が広がったから、それを反映したんだと思う」


「岩の塊が、そういう判断をするのか」


「仕事を持っている」


 ザグレスはグランの石標を見てから、短く笑った。声には出さない笑い方だった。


「なるほど。確かに仕事を持っている」


 三人は来た道を引き返した。

 ドーランが歩きながら言った。


「さっきの空洞化が疑われる箇所、二つ目は分岐手前の右壁寄りだ。踏んでから足音が変わった」


「今日の帰りに確認する。グランに見せて、補強が要るかどうか判断させる」


「グランに判断を任せていいのか」


「床の状態については、俺より精度が高い。任せていい場所は任せる」


 ドーランはそれ以上は何も言わなかった。「そういうものか」という顔をしていたが、異論ではないようだった。

 安全帯に戻ると、ルーメの光が青白に戻った。


 三人が一度立ち止まった。

 ユークは手帳を開き、今日の記録を整理した。


「今日の結論を言う。外縁奥は封鎖継続だ。理由は三つ。水圧の変動が読めていないこと、退路が実質一本しかないこと、生態系の安定が確認できていないこと。どれか一つが解消されても、残り二つが残る限りは通してよい状態にはならない」


「行けるのに通してはいけない、か」とドーランが言った。


「行けることと通してよいことは違う。俺が行けるのと、今後関わる人間全員が安全に行けるのも違う。俺は現場を読みながら引き返せるが、普通の採集者はそうじゃない。俺が引き返せる状況で死なない人間と、普通の利用者が死なない人間は、同じじゃない」


 ドーランはそれを聞いて、少し考えた。


「……冒険者として言えば、それは分かる。基準を低く設定するほど、死ぬ人間が増える」


「そういうことだ」


「でも、封鎖し続けても意味がない。いつかは開ける前提があるのか」


「ある。水圧の周期が読めて、退路を複数確保できて、生態系の変動が一定の範囲に収まれば、開放を検討する。そのためにシルクスに周期を記録させている。今日のデータも含めて、あと何回分か積めば、周期のパターンが見えてくる」


「つまり今は、データを取る段階か」


「そうだ。開放するために封鎖している」


 ドーランはそれを手帳に書いた。ユークは少し意外に思った。ドーランがこういうことを書き留めるとは思っていなかった。


「何を書いた」


「開放するために封鎖している、という言い方が面白かったので」


 ザグレスが「そいつは確かに面白い言い方だ」と言った。


「面白くはない。ただ正確なだけだ」


「正確なのに面白い、という場合がある」とザグレスが言った。


「お前はそういうことを気にしないだろうが」


 ユークは返事をしなかった。否定はできなかった。


  *


 前砦に戻る手前の分岐で、ドーランが「ここだ」と足を止めた。

 ユークが床を踏んでみた。確かに、足音が少し遠い。空洞化の初期段階だ。


「グラン」


 パスを通じて呼ぶと、数秒後に壁の向こうから重い振動が返ってきた。了解の合図だ。


「今夜中には確認する。もし補強が要るなら、明日の朝に分かる」


「朝に変わっていたら、グランがやったと思っていいか」とドーランが言った。


「そうしてくれ」


「承知した」


 前砦に近づくと、ミレアが扉の内側から声をかけてきた。


「お帰りなさい。問題はありましたか」


「大きな問題はなかった。外縁奥の封鎖継続を決めた。記録に残してくれ」


「今日の踏査記録として残します。ザグレスさんとドーランさんの氏名も入れていいですか」


「入れてくれ。二人の目で確認した記録として残した方が、後で説得力が出る」


「分かりました」


 ザグレスが前砦の中へ入ってから、ミレアに言った。


「あんた、毎回こんな感じか」


「毎回です」とミレアが答えた。「問題がありますか」


「ない。感心しているだけだ」


 ドーランは黙って荷を下ろした。そして、少し考えてから言った。


「管理人。一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「外縁奥の水圧が読めるようになった時、俺には声をかけるか」


 ユークは少し考えた。ドーランがその問いをする理由を考えた。運び屋として仕事になるかどうかの確認だ。外縁奥が開放されれば、採集物の量も種類も変わる。それを運ぶ仕事が生まれる。


「声をかける。ただし、開放できる状態になるまでにあと何回踏査が必要かは、今は言えない」


「分かった」


 ドーランはそれ以上は何も聞かなかった。

 ザグレスは受付札を返し、今日の訪問記録を確認してから立ち上がった。


「次はいつ来るか分からないが、シルクスの周期記録が揃ったら教えてくれ」


「待て、お前に教える手段がない」


「あ〜...ラスティアに伝言を残せる宿を知ってるか」


「知らない」


「なら教えとく。北通りの石橋を渡ってすぐ左、看板のない宿だ。亭主の名前はグロア。俺の名前を言えば受け取ってくれる」


 ユークはその情報を手帳に書いた。


「分かった。記録が揃ったら送る」


「よろしく頼むよ」


 ザグレスは前砦を出た。ドーランもしばらくして出た。

 前砦に、ユークとミレアが残った。


 ミレアが記録帳を閉じる前に言った。


「外縁奥の封鎖継続、記録完了です。今日の踏査で新しく分かったことはありますか」


「水圧の変動が前回より一割増えていること。生態系の活動らしき不規則波が周期の上に乗っていること。ルーメが汚れた水圧に反応して濁ったこと。グランが石標を一本追加したこと」


 ミレアがそれを書き取った。


「全部で四点ですね。追記します」


「それと」とユークは少し間を置いた。


「足場の空洞化が疑われる箇所が二点あった。今夜グランが確認する」


「明朝に結果を確認して記録します。……ユーク、一つ聞いていいですか」


「どうぞ」


「今日の判断について、です。外縁奥の封鎖継続、あなたは迷いましたか」


 ユークは少し考えた。


「迷っていない。水圧が読めていない状態で開放する理由がない。採集価値があることは分かっているが、それは開放の理由にならない。稼げる場所でも、人が死ぬ可能性があるなら通してはいけない。それだけだ」


「そこに迷いがないのか、と聞きたかったわけではありません」


「じゃあ何を聞きたいんだ」


「あの封鎖線の向こうに価値があることを分かっていて、それでも止める判断ができることを、あなたはどう思っているのかを聞きたかったんです」


 ユークはしばらく黙っていた。


「……管理者の仕事はそういうものだ、と言えば答えになるか」


「なりません」


「では、もう少し正直に言う。惜しいとは思う。あの水音の周期が安定していて、退路が複数あれば、今すぐにでも入れる。そういう場所だと分かっている。でも、条件が揃わない限りは通してはいけない。その二つが同時に頭にある。それが管理者の仕事だと思っている」


 ミレアはその答えを書き取った。


「記録しますか、それとも」


「今日の分には入れなくていい。ただ、そういうことを話す機会はたまにあった方がいい、と思ったから言っただけだ」


「分かりました」


 ミレアは記録帳を閉じた。

 前砦に、ペンを置く音だけがした。


  *


 夜になった。

 ユークは前砦の受付台で明日の作業の段取りを書き出していた。グランの床確認の結果次第で、補強材の手配が必要になるかもしれない。シルクスの周期記録を今日の分まとめて転記しておく必要もある。


 ルーメが机の端で静かに光っていた。

 夜の灰環前砦は、昼間より音がはっきり聞こえる。シルクスが壁を移動する、ほとんど無音に近い気配。グランが床の下を確認している、低い振動。モルトが処理槽で作業している、水が撹拌される音。フェズはおそらく天井のどこかで眠っているか、気まぐれに外を見ているかだ。


 迷宮が生きている音だった。

 ユークは手帳を置いて、外縁奥の方角を見た。


 壁しか見えない。何も聞こえない。

 でも、シルクスが今日記録した周期を頭の中で再生すると、あの水が四十七秒ごとに呼吸している感触が戻ってくる。


 その時だった。

 前砦の壁の向こう、外縁区画の方向から、一つの音が届いた。


 遠い。かすかだ。

 だが、ユークははっきりと聞き取った。


 水音だった。

 ただの水音ではない。今日の踏査で感じた壁の裏の重い水圧とも、入口層の染み出し水とも違う。もっと軽く、もっと澄んだ音だ。川の水が石の上を流れるような、あるいは深い場所で水が湧き出すような、きれいな音だった。


 一度聞こえて、消えた。

 ユークはしばらくそちらを見ていた。


 シルクスに確認を飛ばした。パスを通じた返答は短かった。

 方向は外縁奥の、石標より先。音の持続時間は三秒以下。その後は通常の周期に戻っている。


「……そこから聞こえたか」


 ユークは手帳を開き、一行書き足した。


「夜、石標の先から、きれいな水音が一度だけ聞こえた。シルクス確認済み。次回の踏査で、音の方向を優先的に調べる」


 それだけ書いて、手帳を閉じた。

 水脈の状態が変わっているのか。それとも奥の生態系が動いているのか。それとも、迷宮がまだ覚えていない別の何かが、向こうにあるのか。


 今は分からない。

 ただ、封鎖線の向こうが完全に死んでいるわけではないことだけは、今夜確かになった。

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