第46話 帰れる道を作る奴
昼過ぎ、シルクスから情報が届いた。
一名が接近中。歩幅が広く、体重が重い。荷はほとんど持っていない。足音に迷いがない。
ユーク・フェルドはペンを置いた。
体重の乗り方と歩幅の組み合わせに、覚えがあった。正確には、覚えがある、という程度では足りない。この足音は、四年前に死にかけた場所で隣にいた人間のものだ。
前砦の扉を開けると、石畳の上に一人の男が立っていた。
ユークより頭一つ半は高い。広い肩幅。腰に大剣。顔の右側に深い古傷。外套の前を開けたまま、両手をぶらりと下ろして、前砦の受付掲示板をゆっくりと読んでいた。
視線が動いた。ユークを見た。
「ずいぶん立派な看板を出してるじゃないか」
からかいの色がある声だった。感嘆ではない。
「ザグレス」
「久しぶりだな、ユーク。三年か? 四年か?」
「四年と少しだ。よくラスティアまで来たな」
「近くに仕事があった。ついでだ」
ついでにしては、ずいぶん遠回りだ、とユークは思ったが、それを言うのは野暮だと分かっていたので黙っておいた。
「お前、顔が死んでるぞ」
「今に始まったことじゃない。お前こそ、また傷が増えたんじゃないか」
「これか」とザグレスは顔の古傷に触れた。「これは前からあるやつだ。最近は増えてないぞ。歳を取って慎重になった」
「それは良かった」
ザグレスは短く笑った。声に出す笑い方だった。
前砦の受付掲示板をもう一度見た。入場手順。記名の場所。持ち込み禁止品目。
「これ、全部読まなきゃ入れてもらえないのか」
「読まなくても中には入れる。ただし受付を通らなければ、迷宮内に契約個体がいて、同じ場所に繰り返し連れ戻される。お前なら気づくだろうが、気分は良くないと思う」
「そいつが従うのか、お前の言うことを」
「俺の言うことというより、迷宮のルールとして動いている。細かい話は後でする」
「なら先に書くか」
ザグレスは受付台のペンを取り上げた。名前を書く。目的を書く。「踏査の同行依頼」と書いてから、持ち込み武器の欄に大剣の情報を書き足した。刃渡りと重量の欄は、しばらく考えてから自分で数字を書き込んだ。
「合ってるかどうかは保証しないぞ」
「目安で構わない。受付札はここだ、持っていてくれ」
「了解した」
ザグレスは札を外套の内側にしまいながら、前砦の中を見渡した。
ミレアが記録帳を持って立っていた。
ザグレスの視線が止まった。一秒ほど。それから、ユークに向けた。
「お前、監督院の知り合いを連れてるのか」
「監督院の人間かどうかは、本人に確認してくれ」
「直接聞くが。あんた、監督院の人間か」
ミレアは記録帳から顔を上げた。眼鏡の奥の目は動じなかった。
「現在は有給休暇中の個人として、ここにいます」
「有給休暇ね」
「ええ。問題がありますか」
「俺はない」とザグレスはユークに向いた。「お前は?」
「俺もない。ミレアには記録を頼んでいる。今日の踏査も残してもらうつもりだ」
「記録が取れるなら好都合だ。邪魔はしない」
ザグレスは受付台の端に体を預けた。
「で、ユーク。お前は今、何をやってる。灰漁りが泥をこかされて泣いて帰ってきたのは聞いた。侵入者を一晩歩き回らせて穴に落としかけて、翌日に泥の仕事をさせたっていう話もな」
「おおむね合っている。ただ、一晩歩き回らせたのはこっちが意図してやったことで、穴に落としかけたのは俺のミスだ。石板の修繕を後回しにしていた」
「自分のミスをあっさり言うな」
「記録にも残してある。隠す理由がない」
ザグレスはその返しをしばらく眺めてから、「そういうところが変わってないな」と言った。
「褒めてないだろう」
「褒めてるよ。そう聞こえないだけで」
「昔からそうだ」とユークは言った。「お前の褒め方は伝わりにくい」
「お前の方が愛想がないだろう」とザグレスは言ったが、声は悪くない温度だった。
「それで、侵入者に泥の仕事をさせたのは、罰のつもりか」
「違う。再発防止だ。痛めつけても噂が悪化するだけで、次の侵入を呼ぶ。面倒で割に合わないという記憶を残せれば、再侵入率が下がる。それだけの話だ」
「それのどこが『帰れる道を作る』話なんだ」
「死者が出れば、ここは再び危険な穴に戻る。死なせないことが、全部の前提だ」
ザグレスは少し間を置いた。
「お前らしいやり方だな」
「今回はドーランに『甘い』と言われた。ミレアには処分基準を文書化された」
「周りが先に動くのも昔と変わらないな」とザグレスは言い、ミレアに視線を向けた。
「あんた、何でも書くのか」
「有用なやり取りは残します」
「俺が有用かどうかは誰が決める?」
「私が決めます」
ザグレスはしばらく黙ってから、「気に入った」と言った。
「答え方が媚びてない」
ミレアは何も言わなかった。記録を続けた。ユークは、ミレアがこういう相手に対して余計なことを言わないのを知っていた。信頼の置き方が上手い人間だと、いつも思う。
*
「それで」とザグレスが言った。
「なんでここに来たか、聞かなくていいのか」
「どうせ話す気で来たんだろう。聞く前に動いてくれる方が俺は助かる」
「なら話す。ラスティアで、お前が帰れる道を作ってるという話を聞いた」
「誰から」
「灰漁りの一人からだ。そいつは逃げた方だから、泥仕事はしていない。ただ、仲間が管理人に捕まって働かされた話と、夜中に穴に落ちかけた話を酒場でべらべらしゃべっていた」
「どんな言い方をしていた」
「あそこは誰かが回してる。ルールを守って使った方が得だ、とな。泥の仕事の臭いをたっぷり説明してから」
ユークは手帳に短くメモした。五割の方に入った。逃げた一人がそう言うのなら、当面の抑止は機能している。
「それを聞いて来た理由は?」
「俺が昔知ってたユーク・フェルドってのは、監督院の中で一番死なせない段取りを作れる奴だった。そいつが今、野良ダンジョンを一人で回してると聞いた。どんな道を引いてるか、自分の目で見たかった。それだけだ」
四年ぶりに聞く声だった。当時と変わらない、余分のない言い方だった。
ユークは少し考えてから言った。
「外縁奥の踏査を考えている。分かってると思うが、条件がある」
「言え」
「俺が引けと言ったら引く。その場で理由を説明する時間がない場合もあるから、とにかく動くことを優先してくれ。お前に戦力として動いてほしいわけじゃない。外からの目が欲しい。それだけだ」
「冒険者を評価員として使うのか」
「外部評価者として、という方が正確だ。大体の奴は、剣があるなら前に出せと言う。俺はそれをやられると困る。問題を力で解決すると、根が見えなくなる」
ザグレスは一拍置いてから、声を出さずに笑った。肩が揺れた。
「分かった。お前の言う通りにする」
「ありがとう」
「礼を言うなよ、気持ち悪い」
ユークは少し笑った。それも昔と変わらない言い方だった。
「では言わない。行こう」
*
外縁区画の入口を抜けた。
ルーメの青白い灯りが通路を照らしていた。
ザグレスは灯りを見て、少し立ち止まった。
「色が違う」
「青白は通行可。濁った緑が注意。灰赤が停止だ。消灯は立入禁止にしている」
「うまい仕組みだ。だが」
「だが?」
「色盲の奴はどうする。俺の昔の仲間に一人いた。青と緑が区別できないやつで、ダンジョンの表示を誤読して二回死にかけた」
ユークは手帳を出して書き付けた。「色以外の補助表示。形状か音か」と。
「助かる。その指摘は盲点だった。早いうちに対処しておかないと、いつか事故になる」
「礼はいいと言った」
「言ったな。でも助かったことは事実だから、記録に残す」
「好きにしろ」
安全帯の中ほどで、ルーメの光が橙色に揺れた。
ユークが止まった。
「待て」
ザグレスが即座に止まった。理由を聞かない。待つ顔だ。それが現場屋だ、とユークは思った。理由を先に聞く人間は、現場では一呼吸分だけ遅れる。
ユークが原因を確認した。ザグレスの腰の大剣が、ルーメの光を反射して壁面の湿度感知部分に干渉していた。
「剣を左腰に移してくれ。右腰だと、あの壁の感知部分に反射が入る。ルーメが状態を誤読する」
「感知部分?」
「ルーメというのが今の灯りだ。ただ照らしているわけじゃなくて、壁面の湿度と魔力の偏差を読んでいる。お前の剣の反射がノイズになると、俺がここの状態を正確に把握できなくなる」
「なるほど」とザグレスは大剣を左腰に移した。ルーメの光が安定した。「生き物みたいなものか」
「仕事を持っている、と思ってくれた方が近い」
「面白い言い方だな」
歩き出した。ザグレスの足音が少し変わっていた。踵の着き方が変わった。壁に近い側ではなく、中央寄りを歩くようになった。意識してやっているかどうか分からない。だが、足が勝手に読んでいる。こういう変化に気づける人間は多くない。
シルクスからパスで情報が届いた。
ザグレスの歩行振動、重い。だが荷重の移動が滑らかだ。着地のたびに重心の逃がし方が変わっている。床の固さを踏みながら確認している。
ユークは手帳に書いた。「重いが乱れない」と。
「何を書いてる」
「お前の歩き方のデータだ。次に外部の人間を同行させる時の基準になる。今日お前が歩いた記録が、合格ラインの一つになる」
「蜘蛛に採点されたってわけか」
「シルクスという個体だ。振動感知が専門で、人間の歩行パターンから危険判断の精度も読める。お前は合格だった。乱れていない」
「蜘蛛に合格をもらうとは思わなかったな」
「文句があるか」
「ない。ただ、不思議な話だと思っただけだ」
フェズが天井の暗がりにいた。ザグレスはどこかでその気配に気づいているようだった。視線は変えなかったが、首の後ろが少し立っていた。
「何か天井にいるな」
「フェズという個体だ。幻惑が得意で、侵入者を誘導するのが主な仕事だ。ただ、お前みたいに幻惑が効きにくい相手は経験が少ないから、どう対処するか測りあぐねている」
「俺を脅威と判断しているのか、それとも珍しいと思っているのか」
「たぶん両方だ。フェズは気まぐれなので、俺にも正確には読めない」
「正直だな」
「嘘をついてもお前の足は止まらないだろうから、正確に伝えておく方が現場の判断に役立つ」
ザグレスはそれ以上は聞かなかった。
*
安全帯の終端に差し掛かった。
グランが置いた石標が一本、暗がりの入口に立っていた。その先は、ルーメの灯りが届かない。黒い。
ザグレスは石標の手前で立ち止まり、暗がりを見た。
動かなかった。
三十秒ほど、黙って見ていた。
ユークも黙って待った。ザグレスが何かを読んでいる時間だと分かっていた。昔と同じやり方だ。急かすと精度が落ちる。この沈黙が仕事をしている。
ザグレスが口を開いた。
「退路が二本しかない」
「そうだ。奥へ行けば一本になると思っている。まだ確認できていないが」
「水の圧力が変動するなら、その一本も状況次第で塞がれうる」
「同じ判断をしていた。だから今の段階では踏査を止めている。お前の目から見て、どう見える」
ザグレスは石標を一度、指の背で叩いた。
「ここから先、強い奴が何人か来たいと言ったとしたら、お前はどうする」
「全員止める。何があっても」
「その理由を、来た奴に説明できるか?」
ユークは少し考えた。
「今のままでは難しい。数字と構造を揃えれば、説明はできる。それが次の仕事だ」
「甘いな」
「甘いのは分かっている。でも封鎖線を確実に維持することが先で、説明の準備はその後に並行してやる。順番の問題だ」
ザグレスは暗がりをもう一度見た。長い時間だった。
「俺が見た範囲で言う」
「聞かせてくれ」
「ここから先は、強いやつほど死ぬ道だ」
淡々とした声だった。評価でも警告でもなく、現場を見た者の観察を、そのまま言葉にしたような話し方だった。
「理由を聞かせてもらえるか」
「退路が細く、水圧の変動がある。こういう構造の場所では、強い奴は奥まで行こうとする。奥まで行った分だけ、撤退に時間がかかる。撤退が遅れれば、退路が塞がれる。剣が強くても、岩には勝てない。俺はそういう場所で、腕の立つ仲間を何人か見送ってきた」
「俺が止める理由はそれだ」
「分かっているなら、俺が言う必要はなかったな」
「確認が取れた。それだけで十分だ。一人で判断すると主観が入りすぎる。お前の目で同じ結論が出たなら、封鎖継続の根拠になる」
ザグレスは向き直った。来た道を指した。
「引く」
「ああ。ありがとう」
「また礼を言った」
「今回は言う。データじゃなくて、判断をもらった」
ザグレスは何も言わなかった。ただ歩き出した。
二人は並んで安全帯を戻り始めた。
しばらく無言だった。ザグレスが歩きながら言った。
「監督院にいた時から、お前はそういう奴だったな」
「何がだ」
「死なせないために動く。勝つためじゃなく」
「それで追放された」
「知ってる」
一拍あった。
「バカな話だ」
ユークはその言葉を受けて、少し黙った。バカな話だ、と自分でも何度か思った。ただ、他人の口から出てくると、重さが少し違った。怒りではなく、どこかがほぐれるような感触があった。
「まあな。ただ、追放されてここに来たから、今この話ができている。結果だけ見れば悪くない」
「強がりか」
「半分くらいは本気だ」
ザグレスは何も言わなかった。でも否定もしなかった。それで十分だった。
*
前砦に戻った。
ミレアが記録帳を開いたまま待っていた。
「外縁奥の手前、石標まで踏査完了。境界線の退路構造と水脈変動リスクを確認。今日の時点では踏査打ち切り、封鎖継続で一致。以上でよいですか」
「そうだ」
「異議ない」とザグレスが言った。
「記録します」
ザグレスがミレアを見た。
「あんた、本当に全部書くんだな」
「仕事ですから」
「監督院の仕事か」
「今は、ここの仕事です」
ザグレスは一秒ほど黙ってから、「そうか」とだけ言った。それ以上は聞かなかった。ミレアもそれ以上は答えなかった。この二人は必要以上に言葉を使わない、という点では似ているとユークは思った。
「お前のデータを使わせてもらう」とユークが言った。
「シルクスが記録した歩行パターン。次に外部の人間を同行させる時の基準にする」
「それは構わないが、俺が最低ラインか最高ラインか、どっちだ」
「最低ラインだ。お前より乱れる人間は連れて入らない」
「ずいぶんと高い最低ラインだな」
「仕方ない。お前が最初だったから」
ザグレスは小さく笑ってから、受付台の横に受付札を置いた。
「帰る」
「また来るようなら、一報入れてくれ。準備ができる」
「来るかどうかは分からん」
「来なくても別にいい。来る時に言えばいい、という話だ」
「そこは『ぜひまた来てくれ』とか言わないのか」
「必要があれば来るだろう。そういう人間だと思っているから、余計な口説き方はしない」
ザグレスは受付台から離れながら、前砦の天井を一度見上げた。フェズがいるあたりを。
「あの幻惑の奴、まだいるか」
「いる」
「俺が出たら、お前のところに帰るか」
「たぶんな。基本的にはこの前砦に戻ってくる」
「なら、いい迷宮だ」
それだけ言って、ザグレスは前砦の扉を開け、振り返らずに出て行った。
足音が石畳を踏んで、遠ざかった。重いが乱れない足音のまま、街道を下っていった。
音が聞こえなくなってから、ユークはルーメを見た。ルーメは穏やかな青白に戻っていた。
*
ミレアが記録帳を閉じた。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あの人、また来ると思いますか」
「来ると思う。帰り際にフェズのことを聞いた」
「それが根拠になるんですか」
「モンスターに興味を持った現場屋は、続きを見たくなる。フェズが幻惑の効かない相手を初めて見た、という話を俺がしたから、あいつは次に来た時にフェズがどう変わっているかを確かめたくなっている。そういう人間だ」
「なるほど」とミレアは言い、記録帳を再び開いた。「追記します。ザグレス・オード、再訪の可能性あり。理由はフェズへの言及」
「そこまで書くか」
「後で役に立つかもしれないので。それと」
「何だ」
「さっきの会話、追放されてここに来たから結果は悪くないと言っていましたが」
「聞こえていたか」
「聞こえていました。記録に残しますか」
ユークは少し考えた。
「いや、あれは記録に残さなくていい」
「分かりました」
ミレアはそれ以上は聞かなかった。余計なことを言わない。それがミレアの信頼できるところだとユークは思った。
外縁奥の手前まで入った。退路の構造と水圧リスクを、ザグレスの言葉で確認した。封鎖継続の根拠が一段厚くなった。
ザグレスの言葉が頭に残っていた。
ここから先は、強いやつほど死ぬ道だ。
そういう場所に、封鎖を無視して入ろうとする者が出た時のための準備が、次の仕事になる。




