第45話 罰ではなく割に合わなさ
翌朝、三人は来た。
ユーク・フェルドが前砦の受付台で記録帳を開いていると、街道の方から重い足音が三つ、のろのろと近づいてきた。
昨夜追い返した男たちだ。先頭の男を筆頭に、全員が疲れ切った顔をしていた。一晩どこかで野宿でもしたのか、外套に露が滲んでいる。
ユークは三人を見て、記録帳に「出頭確認、三名。時刻、朝第一刻」と書いた。
「来たか」
「……来ましたよ」
先頭の男——昨夜、自分の名前をガドと名乗った——が、覇気のない声で言った。
その後ろに、ドーランが背負い袋を地面に置きながら立っていた。朝早くから荷の受け取りでここに来ていたが、三人の姿を見てそのまま残ったらしい。ドーランは三人を一瞥し、ユークを見て短く言った。
「来た、か」
「ああ」
「奇特な連中だな」
「そうでもない。来なければ記録が一枚残るだけだと伝えた。来た方が損が少ないと判断したんだろう」
ガドは「大正解です」とだけ言った。横の二人は黙ったままだ。
ユークは三人を受付台の前に立たせた。
「まず確認する。昨夜、お前たちが踏み込んだ迂回路の先に、水脈観測口がある。石板がずれていた。それが落下事故の原因になりかけた。今日はその石板を元の位置に戻す作業を手伝ってもらう」
「……作業、ですか」
「拘束はしない。無理強いもしない。ただ、やってもらった後でここを去れ。お前たちの名前と昨夜の記録は手元に残るが、今日の作業が終われば俺からラスティアへ連絡は行かない」
三人は目を見合わせた。
ミレアが横から口を開いた。記録帳を持って立っていた。
「処理の内容を記録します。三名の氏名と昨夜の侵入状況、今日の作業内容。記録は灰環前砦の運用記録に残ります。外部には出しません」
ガドが「監督院の人ですか」と聞いた。
「現在は有給消化中です」
ガドは何とも言えない顔をした。
*
作業は二段階に分けた。
最初の仕事は、観測口の石板の修繕だ。
観測口は外縁区画入口層の壁際にある。直径四十センチの縦穴。昨夜の石板のずれはグランが応急処置をしていたが、本来の位置にはまだ戻っていない。石板は周辺の石材と合わせて四枚構成で、ずれた一枚を正確に嵌め直すには二人がかりで抑えながら、モルタル代わりの泥を詰める必要がある。
グランが内側から補強位置を示した。
石の塊が、観測口の縁の内壁を低く叩いた。一定のリズムで。
「あの音は?」
一番後ろの男が壁を指差した。
「案内だ。どこを抑えれば安定するかを示している」
「……魔獣が教えてくれてるんですか」
「仕事を持っている」
ユークは短く答えた。
三人は戸惑いながらも、グランの示す場所に手を当てた。ユークが調合した泥混合材を流し込み、石板を合わせて固定する。素人作業だが、グランが内側から押さえている間は崩れない。
十五分ほどで石板は元の位置に収まった。
グランが一度だけ、重い振動を床に伝えた。固定確認の合図だ。
「終わりですか」
「まだある」
*
次の仕事は、モルトの処理場の補助作業だった。
外縁区画の南側、仮沈殿槽のそばにモルトの餌場がある。処理前の泥が流れ込む受け口に、前回の侵入時に踏み荒らされた残渣が溜まっていた。靴底の土や外界の有機物が混ざり込んでいる。このままではモルトの処理に余分な負荷がかかる。
余分な分を掻き出して、沈殿槽の外に捨てる作業が必要だった。
道具は木の杓子と、穴の開いた桶。残渣はどろどろとした泥状で、腐敗の匂いが強い。
ガドが桶を手に取り、受け口の端に立った。
一杓い目を掬った瞬間に顔をしかめた。
「……くっさ」
「モルトが食う前の状態だ。食った後は臭いが落ちる」
「この生き物、こんな仕事を毎日やってるんですか」
「毎日ではない。濃度が上がりすぎた時だけ処理速度が落ちる。今回は外から不純物が入った分、余計な負荷がかかっている」
ガドは少し間を置いてから、また杓子を動かした。
二人目の男も、鼻を押さえながら桶を手に取った。三人目は少し遅れて、しゃがみ込んで掻き出し始めた。
そこへドーランが近づいてきた。三人の作業を眺め、ユークの隣に立つ。
「これが『再発防止』か」
「処分の一環だ」
「甘い、と俺は思うがね」
ドーランは声を抑えて言った。煙管を手に持ったまま、火はつけていない。
「殴って傷つけて、痛い目に遭わせれば『また来ようとは思わない』だろう。こんな泥掻きじゃ、体の痛みが残らない。傷みのない記憶は薄れる」
「お前の言う通りかもしれない」
ユークは認めた。
「でも、目的が違う。俺がやりたいのは、あいつらを痛めつけることじゃない。ここに来ることが割に合わないと理解させることだ」
「何が違う」
「痛みは忘れる。だが、嫌な作業と臭いと手間は、『あそこで働かされた』という具体的な話として残る。ラスティアに戻ってから、あいつらは仲間に言うだろう。灰環に入ったら、管理人に捕まって泥の仕事をやらされたって。それが再発防止になる」
ドーランは少しの間、黙っていた。
「……なるほど。評判を利用するわけか」
「ついでに、観測口の修繕まで手伝わせた。迷宮の施設がどういうものかを、少しだけ体で覚えてもらった。それがある方が、来ても無駄だという判断に繋がりやすい」
「ずいぶんと計算している」
「半分は計算だ。半分は昨夜の観測口の件が俺のミスだったから、修繕を手伝わせるのが筋だと思っただけだ」
ドーランは短く笑った。声には出さない。肩が少し動いただけだ。
「あんたは正直だな」
「お前の前では嘘をついても記録に残る」
ミレアが横で手を止めずに言った。
ドーランは今度こそ小さく声を出して笑った。
*
三人の作業が終わった頃、太陽が石壁の上に出ていた。
一時間半ほどかかった。服の袖に泥が跳ね、手が臭う。
ガドが桶を置き、ユークを見た。
「終わりましたよ」
ユークは処理後の受け口を確認した。余分な残渣は取り除かれ、モルトが処理しやすい濃度に戻っている。グランが内側から確認の振動を伝えた。
「合格だ。終わりにしていい」
「……帰っていいですか」
「帰っていい。お前たちの名前は記録に残るが、今日の作業を終えた以上、俺からラスティアに連絡は行かない」
ガドは少し迷ってから言った。
「一つ聞いていいですか」
「何だ」
「あの観測口の底、どうなってるんです? 落ちていたらどうなってましたか」
ユークは考えずに答えた。
「三メートル以上。ただし底は泥だ。骨は折れたかもしれないが、死ぬ深さではない。ただし、ここの迷宮に入るような骨折は困る。引き上げる作業の負荷が大きい」
「だから、グランってやつが止めてくれたんですか」
「それと、フェズが遅らせた。お前が反射的に腕を出したのは、フェズが壁の幻を出したからだ」
ガドは黙った。
「つまり、助けてもらったわけですか。侵入者なのに」
「死者が出れば、ここは再び危険な穴に戻る。俺の仕事が台無しになる。お前を助けたのはお前のためじゃない」
正確な答えだった。ガドはそれを聞いて、少し苦い顔をした。
「……それはそれで、まあ分かりました」
三人は受付台に手を合わせる仕草をして、足早に前砦を出た。
ミレアが三人の後ろ姿を見ながら、記録帳に書き足した。
「侵入者三名、修繕作業一時間三十分の完了を確認。観測口の状態は正常に復旧。モルト処理場の残渣処理も完了。三名は任意で出頭、任意で作業を終了し、帰還」
「記録完了」
「はい」
ドーランが煙管に火をつけた。紫煙が前砦の石天井へ流れた。
「で、実際のところ、効果があると思うか」
「再侵入率は下がると思う。ただ、今日帰った四人目——逃げた奴——は別だ」
「そっちの方が問題だな」
「ああ。逃げた一人は、昨夜の話をどう伝えるか選べる立場にいる。泥まみれになった話だけ伝えれば再発抑止になるが、隠し資源がある話を吹聴すれば、別の連中を呼ぶ」
ミレアが帳面を閉じて言った。
「昨夜の段階で、私も聞きました。あなたは『逃げた一人に何を言うかを選ばせた方が得だ』と言っていた」
「それは今も同じ考えだ。捕まえても口は止まらない。どうせ話が広まるなら、夜中に迷宮で迷って穴に落ちかけた話の方が、隠し資源の話より印象が強い」
「その通りになる確率は?」
「五割くらいだ」
ドーランが煙を吐いた。
「随分と低い確率に賭けるんだな」
「五割で十分だ。逃げた一人が『割に合わない』と言えば、話を聞いた十人のうち七、八人は来ない。残り二、三人が来るとして、そのうちの一人が今日の三人と同じような目に遭えば、次の世代に伝わる。どんな話でも、裾野は広がりながら薄まる」
ドーランは煙管を持ち直した。
「一代目は追い返す。二代目は面倒だと思わせる。三代目には噂だけが残る、か」
「三代後には、正規のルートで来た方がずっと楽だという認識になっていれば理想だ」
「理想、ね」
ドーランは短く言って、荷を担ぎ上げた。今日のラスティアへの帰路がある。
「管理人。俺は今日の方針に賛成はしない。だが、あんたの考えの筋は通っていると思う」
「賛成じゃなくていい。筋が通っていれば十分だ」
ドーランは鼻を鳴らして、前砦の出口へ向かった。
*
昼前に、ユークとミレアで処分基準の骨格を記録帳に整理した。
灰環前砦運用記録の第三冊目——施設維持と運用事案——の末尾に、新しい項目が一つ加わった。
「不法侵入への対応基準(案)」
一、受付を通らない侵入者は、シルクスの検知後、フェズが前砦へ誘導する。
一、前砦に戻った侵入者は、名前と侵入経路を記録する。
一、採集物があれば没収する。
一、破損箇所がある場合、修繕補助作業を任意で求める。応じれば記録に残すのみ。応じなければ、記録をラスティアの自警組合へ提出する。
一、負傷がある場合は、作業より先に処置を優先する。
ミレアがそれを読んで言った。
「『任意で求める』という表現は外部向けにはやや曖昧ですが、現時点では適切だと思います。強制力を前面に出すより、選択肢を提示した方が協力率が高い」
「そう書いてくれたのはお前だ」
「私が書きましたが、あなたの方針から作りました」
ユークは記録帳を閉じた。
この基準があることで、次に誰かが来た時に、場当たりで判断しなくてすむ。記録が積み重なれば、対応の一貫性が見えてくる。一貫性があれば、灰環迷宮に関わる人間に対して、「ここはそういう場所だ」という認識が少しずつ広まっていく。
壁に一枚、掲示を追加した。受付台の横、目に入りやすい位置に。
侵入者処分基準・灰環前砦」と書かれた小さな板。
文字は短い。だが、書かれていることが事実として存在する。
*
その夜。
ラスティアの安宿の食堂に、昨夜逃げ出した一人の男が戻っていた。
男の名前はブレイ。灰漁りの四人組のうち、見張り役として後方に残り、事が露見した際に真っ先に走ったあの男だ。
ブレイは薄い粥を掻き込みながら、同じテーブルに集まった何人かに、昨夜のことを話した。
迂回路を知っていた。道具も持っていた。完璧な計画だと思っていた。でも、中に入った途端に何が何だか分からなくなった。暗がりで道が変わる。踏み込んだら穴に落ちかけた。捕まった仲間は、翌日泥まみれで作業させられて帰ってきた。
「管理人に捕まって、泥の汲み取りをやらされた。臭くて、一時間以上かかって。わかるか? そんな稼ぎで何になる」
男たちがざわついた。
「中に隠された資源があるって聞いたが?」
「あるかもしれない。でも、あそこは誰かが回してる。俺たちが踏み込んだ瞬間から、全部読まれてた。道が消える、穴が口を開ける、でかい音がする。生きてる穴だよあれは」
「儲かりそうか」
「儲かるかどうかじゃない。割に合わない。労力と手間と、捕まった時のリスクを考えたら、正規のルートで灰鉱砂を買ってきた方がずっと楽だ。俺はもう行かない」
テーブルに沈黙が落ちた。
一人が「隠し資源がある」と呟いた。
別の一人が「でも割に合わないらしい」と返した。
話は半分だけ広まった。
そして翌日、ラスティアの宿の一室で、一人の男がその話を聞いた。
大柄で、使い込まれた剣を腰に差している。顔には古傷。歩き方には重さと静けさが同居している。
男は話を聞いた後、しばらく黙っていた。
それから、地図を広げた。
灰環迷宮のある方角を指で叩いた。
「帰れる道を作ってる奴が、あそこにいるのか」
独り言のような声だった。
ザグレス・オードは地図を折り畳み、立ち上がった。




