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第44話 灰漁り、二度目の侵入

 夜の第三刻。

 ユーク・フェルドは前砦の記録台で「灰環前砦運用記録」の転記作業を続けていた。隣でミレアが新しい帳面の項目を整理している。


 ルーメの淡い青緑色の灯りが、二人のペンの動きを照らしていた。

 ほぼ無音の時間だった。


 前砦の外には夜風の音があり、外縁区画の入口層からは、水が少しずつ動く低い音が届く。管理が回っている時の音だとユークは思う。乱れていれば、この音は変わる。

 だからこそ、シルクスの警告は静かな夜に割り込んできた。


 【セッキン ニシガワ】


 ユークはペンを止めた。


「……来た」


「侵入者?」


 ミレアがすぐに顔を上げた。


「さっきの無札と同じか?」


「違う」


 ユークはパスを通じてシルクスに詳細を求めた。返ってくる情報を一つずつ処理する。

 西側の迂回路。荒れ地を抜けて入口を避けた動き。足音は三つ。


 重い。荷を持っていない。だが、動き方が慎重すぎる。


「前砦の受付を通っていない。それだけじゃない。迂回路を使っている。知っている人間じゃなければ通れない道だ」


「前回来た灰漁りが、戻ってきた?」


「たぶんな。今度は下準備をしてきた。前回の手土産が、次の作戦に変わった」


 ミレアは記録帳を脇に置き、ペンを手に持ったまま静かに立った。


「見る?」


「構わない。ただ、近づくな。記録だけしてくれ」


「分かった」


 ユークは外套を羽織り、前砦の裏口に向かった。


  *


 西側迂回路は、外縁区画に沿った旧作業路の名残だ。正面入口を封鎖されたとしても、この路を知っていれば別角度から迷宮入口に近づける。前回の侵入者が退いた後に、ユークはここにもシルクスの糸を張り直していた。

 ただし、糸を切られることを前提とした張り方ではなかった。


「糸を切れる道具を持ってきた。前回はルーメの色表示に怖じ気づいて撤退した。次は用意してくると思った。でも俺が読み違えたのは、糸を回避するルートで来るとは思っていなかったことだ」


 ユークは低く自己評価した。声には出さない。

 迂回路の出口付近に、ユークはしゃがんで待った。


 三人が入ってきた。

 先頭の男が小刀を手に、糸があれば切ろうという構えで慎重に進んでいる。後ろの二人は袋を持っていた。空の袋だ。ここから採って帰るつもりだ。


 ユークは動かなかった。

 今動けば相手は気づく。今はシルクスに先を読ませるべきタイミングだ。


 パスを通じて指示を出した。


『前に入れるな。迂回路の出口から奥へ踏み込んだら、足元の糸で足場を読ませろ。一歩一歩、どこを踏んでいるか把握する』


 シルクスが了解の振動を返した。

 三人は迂回路の出口を越えた。


 外縁区画の入口層から外れた、旧補修路の区画だ。ここはルーメの灯りが届かない。三人は手持ちの油灯を頼りに進む。

 一人が先に気づいたらしく、足を止めた。


「……前より明るくねえか。中が」


「ボスが整備したんだろ。でも今夜は月もないし、こっちは暗い。急げ」


 声が聞こえた。ユークは姿を消したまま、フェズへの指示を出した。


『出口を切れ。あいつらを奥へ進ませるな。前回追い返した場所と同じところへ戻せ。入口層の倒木のあたりだ』


 フェズは前砦の天井から外縁区画の上部空間まで自在に動く。今夜は暗い。それがフェズにとっては好条件だ。

 最初の変化は、先頭の男から起きた。


 彼が確かに右へ折れたはずの旧補修路で、なぜか正面に石壁があった。


「……あれ? こっちじゃなかったか?」


「そっちで合ってるはずだ」


 二人目が前に出て、壁を触った。本物の壁だ。だがこの場所に壁はない。フェズが暗がりに重ねた幻影の壁だった。

 三人は迷い始めた。


 ユークはシルクスの糸が伝える振動で全員の位置を把握していた。

 左へ迂回する。また壁に当たる。右へ戻る。今度はフェズが床の模様を変えていた。同じ模様の床が二箇所に見える。どちらが来た道か分からなくなる。


 三人の動きが乱れた。

 フェズの幻惑はシンプルだ。複雑な幻覚ではなく、「少しずつ方向感覚をずらす」。暗所では出口の方角が三十度ずれるだけで人間は迷う。


 先頭の男が「引き返そう」と言い始めた頃、三人の位置はちょうど外縁区画入口層の手前まで誘導されていた。

 倒木が一本、横たわっている。


 前回、彼らが追い返された場所だ。

 三人がそれに気づいた。


「……戻ってる」


「どういうことだ。俺たち、ぐるぐると——」


「出ろ。今夜はだめだ」


 先頭の男が判断した。

 三人が撤退方向に向き直った、その時だった。


 一番後ろの男が、右足を踏み外した。

 床の亀裂ではない。壁際の古い観測口だ。


 水脈観測口——迷宮の深部水脈の水位を測るために掘られた旧式の縦穴で、直径四十センチほど、深さは三メートル以上ある。蓋をしていたはずの石板が、前回の侵入者が踏み荒らした際にずれていた。ユークはその修繕を翌日に回していた。


 男の体が傾いた。


「っ——」


 短い声が上がった。

 ユークは既に動いていた。


 フェズへ一語だけ指示を飛ばす。


『止めろ』


 フェズが男の進行方向に幻影の壁を出した。本物の壁ではない。だが、男は壁があると認識して反射的に腕で受け止めようとした。それがわずかな時間を作った。

 その間にグランが動いた。


 壁の内側から、重い振動が一つ。外縁区画の床の一部がせり上がり、観測口の縁に沿って石材の縁ができた。グランが内部から押し上げた岩の塊だ。完全に塞いではいない。男の足が引っかかる縁ができただけだ。

 それで足りた。


 男は観測口の縁に足をかけて、体が止まった。

 尻が落ちた状態で、両腕を石の縁にかけて宙吊り。穴に落ちてはいない。


 ルーメが真っ赤に点灯した。

 観測口の周囲を鮮明な赤で照らし出す。あそこは危険だと、今更ながら全員に知らせる光だ。


 三人が硬直した。

 ユークは迂回路の出口側から前砦の方向へ回り込んでいた。声を出す。


「動くな」


 低く、はっきりとした声で言った。

 三人がユークを見た。


「その穴に落ちたら、深さ三メートル以上ある。助けには行くが、骨は折れると思え。落ちる前に止まれ」


 ユークは助けを求めているわけでも、怒鳴りつけているわけでもなかった。ただ現状を説明した。


「穴の縁に足がかかっている。今すぐ左足を前に出して立て。右足は引きずって穴から出せ。俺は動かない」


 男は一瞬躊躇した後、指示通りに体を動かした。足が観測口から抜けた。

 立ち上がった男は、膝が震えていた。


 三人の顔は青かった。

 ユークは観測口を一度見て、記録帳に短くメモした。「観測口の石板ずれ——翌日修繕」。これは今夜対処しておくべき事項だった。後回しにした自分のミスだと判断した。


「前砦まで来い。話がある」


 三人は抵抗しなかった。


  *


 前砦に戻った時、ミレアが記録帳を開いていた。

 三人が椅子に座った。ユークが向かいに立つ。ルーメが明るさを戻した。


 ミレアは三人を一瞥してから、記録帳に「侵入者三名を確保。うち一名が水脈観測口に落下しかけたが自力脱出。負傷なし」と記した。


「名前と所属を聞く」


 ユークが言った。

 先頭の男が少し沈黙してから、名前を言った。他の二人も続いた。住まいはラスティアの外縁の安宿地区だった。


「前回も来たか」


 男は少しの間考えてから、頷いた。


「前回は恐怖で帰した。今回は道具を持ってきた。次の手を考えた上での侵入だ」


 ユークは感情的な責め方をしなかった。


「お前たちが踏み込んだ場所は、水脈の循環に直結している区画だ。今夜転落しかけた観測口は、この迷宮の水深を測るための施設だ。壊せばクルン村の井戸に影響が出る。その意味が分かるか」


 男は答えなかった。


「採れるものを採って帰る気だったのは分かる。だが、お前たちが踏み荒らす場所は、資源が採れる場所である前に、水と土砂を管理している場所だ」


 言葉は短く、一段ずつ告げた。


「今夜はこのまま帰せ」とミレアが小声で言った。ユークへ向けた言葉だ。


「記録はある。名前も聞いた。今夜は解放する代わりに、明日の朝もう一度来てもらう。観測口の石板を元の位置に戻す作業をしてもらう」


 男が顔を上げた。


「拘束はしない。来なくてもいい。ただし来なければ、今夜の記録はラスティアの自警組合に渡す。選択肢はお前たちにある」


 三人は目を合わせた。

 しばらくして、先頭の男が「……分かった」と言った。


 ユークは「出口は正面だ」とだけ言って、三人を前砦から出した。


  *


 彼らの足音が遠ざかった後、前砦に二人が残った。

 ルーメが穏やかな色に戻った。


「三人捕まえて、一人逃げた」


 ユークが言った。

 ミレアが少し間を置いた。


「気づいていた?」


「最初から四人だった。最後の一人は最初から後方で見張り役をしていた。フェズが入口まで誘導した時に、前砦の方向とは別に走る足音がシルクスから来た」


「追わなかった理由は」


「三人の対処が先だった。それと——」


 ユークは椅子を引いて座った。


「逃げた一人に、ラスティアで何を言うかを選ばせた方が長期的に得だ。捕まえて口を塞いでも、噂は止まらない。どうせ流れるなら、夜中に迷宮で迷って穴に落ちかけた話の方が、『隠し資源がある』という話より印象が強く残る」


 ミレアはペンを動かした。記録していた。


「計算?」


「半分は。半分は間に合わなかっただけだ」


「正直だな」


「お前の前で嘘をついても、記録に残る」


 ミレアは小さく笑った。監督院時代と同じ笑い方だった。


「観測口の石板は、今夜直した方がよかったのでは」


「そうだ。俺のミスだ」


「記録に書く?」


「書いてくれ。再発防止のために必要な項目だ」


 ミレアがペンを走らせた。


「灰環前砦運用記録——施設点検の不備として記載します。観測口の石板のずれを翌日に先送りしたことで、今夜の転落事案が発生しやすい状態になっていた」


「そのまま書いていい」


 ユークは外に目を向けた。

 逃げた一人は今頃、夜道を走っている。明日か明後日には、ラスティアの酒場か安宿でこの夜の話をするだろう。


 何を言うかは分からない。

 ただ、「夜中に迷い込んで何も採れなかった」という話になるか、「隠し資源がある穴に潜り込んだが、管理している誰かに捕まった」という話になるか——後者の方が、次に来る人間の質を少し変えるとユークは思った。


 無知な灰漁りより、目的を持った人間の方が、交渉できる分だけ扱いやすい。

 とは言え、それは楽観でもある。


「明日、観測口の修繕と石板の固定をグランに頼む。それと、迂回路の入口に標識を一本立てる。『前砦受付を通過せずに入ることを禁ずる』と書いたやつだ」


「形式を整えれば記録に使える。明日、私が書式を作る」


「頼む」


 ミレアは帳面を閉じた。


「……ユーク、一つ聞いていい?」


「何だ」


「あの三人、明日本当に来ると思う?」


 ユークは少しの間考えた。


「来る確率は五割くらいだ」


「低くない?」


「来なかったら、記録が一枚残るだけだ。来た方が、俺には得だ。あいつらに壊れた観測口の石板を直させれば、少なくとも自分たちが壊した施設の重さが分かる。それが次回の抑止になる」


「来たとして、ちゃんと働くか分からない」


「来ない可能性も、働かない可能性も全部含めて、今夜の俺にできる最善だった」


 ミレアはしばらく黙っていた。

 それから、帳面を再び開いて一行を付け加えた。


「『翌朝、侵入者三名に観測口の修繕作業を要請。出頭の有無は未確認』——これで記録上は今夜の処理が完結します」


「ありがとう」


「礼はいい。ただ、一点確認させて。今夜の逃げた一人——ラスティアで何を言うかは分からない。もし『隠し資源がある』という話が広まれば、次はもっと目的のはっきりした人間が来る可能性がある」


「分かっている」


「その時に対応できる準備が要る」


 ユークはルーメを見た。


 今夜、ルーメは観測口の周囲を赤く照らした。あの光がなければ、男は穴に落ちていたかもしれない。

 施設は育っている。でも、育ち方には抜けがある。今夜の抜けは観測口の石板だった。次の抜けが何かは、まだ分からない。


「次の抜けが何かを、先に塞ぐ。それが今夜からの仕事だ」


 ミレアは帳面を閉じた。

 前砦の外で、夜風が静かに吹いた。

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