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第42話 前砦に来た実務官

 灰環前砦グレイサーク・フロントの朝は、いつものように規則正しく始まった。

 地下の第三沈殿槽が機能を取り戻し、水脈の詰まりが抜けたことで、砦の周囲を流れる水音は澄んだものに変わっている。ユーク・フェルドは受付の石台で、昨夜のシルクスの巡回ログを記録帳に転記していた。


 カサリ、と。

 シルクスから、一人の入場者が山道を登ってきたという振動の波長が届く。


 足取りは軽い。だが、迷いがない。

 これまでここを訪れたどの採集者よりも、その歩行のテンポは正確で、規律正しさを感じさせるものだった。


 ユークは顔を上げず、ペンを動かしたまま事務的に声をかけた。


「おはようございます。灰環迷宮へようこそ。入場希望者の方は、そこの利用規則を確認した上で、この誓約書に署名を……」


「相変わらず、挨拶よりも先に仕事の話ですか。先輩」


 聞き慣れた、しかしここには決して存在するはずのない声。

 ユークのペンの先が、紙の上でピタリと止まった。


 ゆっくりと顔を上げると、そこには見覚えのある灰色の外套を羽織った女性が立っていた。神経質そうに位置を直された眼鏡。理知的な光を宿した瞳。そして、隙のない立ち姿。


「……ミレア?」


「お久しぶりです、ユーク・フェルド元先輩。王立迷宮監督院を追放されたと聞いて心配していましたが、まさかこんな僻地で、勝手に『迷宮管理者』を気取っていようとは」


 ユークは数秒の間、言葉を失った。

 再会を喜ぶべきか、監査官である彼女の来訪を警戒すべきか。脳内の優先順位が激しく火花を散らす。だが、数拍の沈黙の後、ユークが取った行動は、彼らしい「現場至上主義」の現れだった。


 彼は無言で、石台の上に新しい受付札とペンを差し出した。


「……ミレア。お前がここへ何をしに来たにせよ、今この瞬間の立場は『来訪者』だ。規約にサインをし、木札を受け取れ。例外は認めない」


 ミレアは一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。

 そして、ふっと、これまで見せたことのないような、小さく、どこか懐かしむような笑みを漏らした。


「……ふふ。本当に、ちっとも変わっていないのですね。状況よりも現場のルールが優先ですか。分かりました、従いましょう」


 ミレアは慣れた手付きでペンを走らせ、誓約書にサインした。

 彼女がアーチをくぐり、受付のすぐ横に配置されたルーメの欠片の前を通り過ぎた、その時だった。


『――ッ! キュ、キュルル!』


 ルーメが激しく体色を明滅させた。

 通常、正規の札を持つ利用者には青緑の光を返すが、今は不気味な紫色の光が混ざっている。


「ルーメ? どうした」


「……ああ、この子のせいですね。きっとこれに反応したのでしょう」


 ミレアが外套の内側から取り出したのは、王立迷宮監督院の監査官にのみ与えられる、高純度の魔石を埋め込んだ銀の印だった。


「この印には、監督院の管理下にある魔獣を統制するための特殊な波長が刻まれています。この『ルーメ』という子は、ひどく敏感なのですね。野生化した崩壊迷宮の個体にしては、あまりに質が良い」


 ユークは無言でルーメを宥め、ミレアから距離を置かせた。

 足元の石畳の下では、シルクスがいつでも糸を射出できるよう脚を構えている。姿は見えないが、天井の影にはフェズが潜み、外部から来たこの侵入者の「心理的隙」を冷徹に観察しているはずだ。


 ミレアはそれを察しているのか、いないのか。彼女は石台の周囲を歩き回り、ユークが構築した管理システムを、鑑定士のような鋭い目で見分し始めた。


「……前砦の記録板、利用札の波長管理、三分類の採集ルール。それに、あちらの沈殿槽の記録水瓶」


 彼女は一つ一つを指差し、手帳に何かを書き留めていく。


「……素晴らしい。監督院の中堅職員でも、ここまで現場の情報を可視化できている者は稀です。現場記録フィールド・ログとしては、満点と言っていいでしょう」


 ユークは少しだけ、誇らしいような気分になった。

 監督院で最も事務能力が高かったミレアに認められた。それは、自分の運用が間違っていないという証明のように思えた。


 しかし、ミレアの言葉には続きがあった。


「……ですが、先輩。これはあくまで『あなたにしか読めない現場メモ』です」


 ミレアは石台に置かれたユークの記録帳を、中指でトントンと叩いた。


「これでは、外には通りません。いえ、通せません」


 ユークは眉をひそめた。


「どういう意味だ。誰が見ても、利用者の動きと資源の流出、水脈の数値が分かるように整理してあるはずだ」


「組織や社会が求める『管理』とは、単に数字が並んでいることではありません」


 ミレアは冷徹な監査官の顔に戻り、言葉を重ねた。


「例えば、この迷宮で事故が起きた時、法的に誰が責任を負うのか。採集された資源の品質は、公的な公定鑑定をパスしているのか。あなたが徴収している『協力金』は、どのような会計基準で再投資されているのか。……ここにあるのは、あなたの独善的な『やり方』であって、公的な『制度』ではないのです」


 ユークは反論しようとしたが、言葉が出てこなかった。

 彼は迷宮を「回すこと」に全力を注いできた。崩落を止め、水を浄化し、資源を安全に採らせる。それこそが管理者の本分だと信じて疑わなかった。


 だが、ミレアが指摘しているのは、その「正しさ」を、自分を知らない第三者に法的に証明するための手段――すなわち『事務的防衛』の欠如だった。


「あなたがどれだけ素晴らしい成果を出していても、外部から見ればここは『不法占拠された危険な野良迷宮』でしかありません。もし明日、監督院が調査団を送ってきたら、彼らはこの素晴らしい沈殿槽を『違法建築』として取り壊し、あなたの魔獣たちを『危険な変異個体』として処分するでしょうね。……この記録帳には、それを止めるための法的な盾が、一枚も綴じられていないのだから」


 重い沈黙が、前砦を支配した。

 ユークは、自分の手がけた石造りの沈殿槽を見つめた。


 グランが必死に支え、モルトが身を削って浄化した水脈。それを「書類の不備」だけで壊される。その理不尽な恐怖が、初めて現実味を帯びてユークに襲いかかった。


「……ミレア。お前は、それを壊しに来たのか?」


「まさか。私は有給休暇の消化中ですよ」


 ミレアは眼鏡の位置を直し、少しだけ声を和らげた。


「ですが、かつての先輩がそんな無防備な真似をしているのを見て、見過ごすほどお人好しでもありません。……先輩、少し迷宮の中を見せていただけますか。あなたが何を信じて、この崩壊した生態系を組み直したのか。それを確認した上で、私が『報告書の書き方』を叩き込んであげます」


 ユークは迷った末、彼女を外縁の安全導線まで招き入れることにした。

 シルクスには距離を保って並走させ、フェズには幻惑を解かないよう命じる。


 二人は、ルーメの光が照らす青緑色の通路を歩いた。

 グランが固めた完璧な床。


 シルクスが守る見えない境界線。

 そして、モルトが残した美しい採集用の砂溜まり。


 ミレアは時折足を止め、壁の感触を確かめたり、光の揺らぎを観察したりしていた。


「……対外説明書、事故記録の様式、そして何より、利用者との『免責誓約書』。これらすべてを、迷宮の運用実績エビデンスとして再構築する必要がありますね」


 彼女は独り言のように呟きながら、手帳を埋めていく。

 現場を愛するユークと、その現場を社会の中に守ろうとするミレア。


 二人の立ち位置のズレが、皮肉にもこの迷宮の「完成」に欠けていた最後のピースを浮き彫りにしていた。


 第一次安全帯の終端。

 そこから先は、まだ修復が終わっていない、深い闇が続く未開域だ。


 ミレアはその境界線で足を止め、暗闇の奥を見つめたまま、最も核心に触れる問いを投げかけた。


「……最後に一つだけ、教えてください、先輩」


 彼女は振り返り、ユークをまっすぐに見据えた。

 その瞳には、かつての部下としての親しみではなく、王立迷宮監督院の監査官としての、冷徹なまでの「法」の重みが宿っていた。


「あなたは、この迷宮の運用を……いったい『誰の権限』で行っているのですか?」


 ユークは答えられなかった。

 王国の許可はない。監督院の命令もない。


 ただ、この場所に辿り着き、コアと対話し、現場を直さなければならないと判断した、ユーク個人の意志。

 だが、その個人の意志は、巨大な国家というシステムの前では、あまりに無力で、危ういものだった。


 再会した二人の間に、冷たい風が吹き抜ける。

 灰環迷宮の再生は、魔獣の運用という段階を越え、人間社会という最も厄介な「迷宮」との交渉へと、強制的に引きずり出されようとしていた。

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