第41話 古い記録の空白
王立迷宮監督院、王都本部。
華やかな大通りに面した豪奢な石造りの建物とは対照的に、その地下深くにある『第五文書保存庫』は、墓所のような静寂と、古びた羊皮紙が放つ独特の埃っぽい匂いに支配されていた。
天井の魔力灯は出力が絞られ、幾千もの背表紙が並ぶ棚の奥までは光が届かない。ここは「終わった案件」が、二度と日の目を見ることなく風化していくのを待つ場所だった。
「……あった。これか」
棚の最下段、カビの斑点が浮き出た厚手の革綴じに、エルリオは手を伸ばした。
指先をなぞれば、煤けた金文字が微かに指先に触れる。
『指定番号七〇二:灰環迷宮・閉鎖および管理放棄に関する最終報告書』
エルリオは、生態維持課に配属されて二年の若手職員だ。かつてこの課には、誰よりも現場を歩き、誰よりも魔獣の排泄物や土壌の成分変化に詳しかった風変わりな先輩がいた。
ユーク・フェルド。
彼が「落第」の烙印を押されて監督院を追放されたあの日、エルリオは彼の去り際の背中をただ見送ることしかできなかった。その後釜に座ったのは、現場の報告書すら満足に読まず、予算の数字だけをこねくり回す討伐上がりの中堅幹部だった。
(ミレアさん、急にこんな古い記録を調べてどうするつもりなんだろう……)
エルリオの懐には、ラスティアへ視察に出ているミレア監査官からの、ごく個人的な照会状が入っていた。
『灰環迷宮の閉鎖判断前後の、全観測データの再送を求む。公式報告書ではなく、可能な限り生データに近いものを』
監督院の監査官ともなれば、本来なら正式な手続きで書類を請求できるはずだ。それをあえて個人的な照会という形にしたのは、この調査が組織にとって「歓迎されないもの」であることをミレアが察しているからだろう。
エルリオは保存庫の片隅にある閲覧用の机に報告書を広げた。
ページをめくれば、三十年前の記録が蘇る。当時は迷宮の一部で大規模な崩落が起き、主要な資源採掘ルートが遮断された時期だった。
「……おかしいな」
エルリオは、報告書の中盤、水脈の流路図と魔力濃度の推移表で手を止めた。
閉鎖の決定打となったのは、水脈の枯渇と、それに伴う魔獣たちの暴走、および有毒汚泥の逆流とされている。報告書の記述は流麗で、いかにも「もはや再生は不可能である」という結論へ向かって無駄なく構成されていた。
だが、その結論を裏付けるはずの「生データ」の添え付けが、不自然なほど薄い。
特に、迷宮の外縁に設置されていたはずの『外水脈第三観測井』のデータが、閉鎖直前の三ヶ月分だけすっぽりと抜け落ちている。
「数字が黙っていないところを見ろ、エルリオ」
不意に、脳裏にユークの声が響いた。
ユークはいつも、新人のエルリオにそう教えていた。
「誰かが綺麗にまとめた報告書は、その誰かの都合でできている。だが、捨てられたメモや、未整理の端切れに残された数字は、書き手の意図を裏切ることがある。そこが、現場の真実の入り口だ」
エルリオは最終報告書のファイルを閉じ、さらに棚の奥、関連資料の段ボール箱をかき回した。
そこは「報告書に添付するには汚すぎる」と判断された、当時の担当者たちの走り書きや、現場の汚泥に汚れたままの観測票が投げ込まれている吹き溜まりだ。
小一時間、煤にまみれて箱を漁り続けた末、エルリオは束ねられた一連の紙片を見つけ出した。
『外水脈枝・第三および第四観測井 日次観測データ(未整理)』
それは、閉鎖を決定した上層部が「価値なし」として整理を放棄した、現場の最後の叫びだった。
エルリオは震える手で、その殴り書きの数字を追った。
「……枯渇、していない」
報告書では「水流停止」とされていた時期も、外縁の観測井では微かな、だが一定の流速が記録されていた。
むしろ、特定の場所で急激に水位が上がっている。
これは、水脈が失われたのではなく、どこかで「詰まった」ことによる逆流現象だ。
(もし当時、この詰まりを抜く判断をしていれば、迷宮は閉鎖せずに済んだはずだ。それなのに、なぜ……)
「エルリオ。何をしている」
背後からかけられた冷たい声に、エルリオの肩がびくりと跳ねた。
振り返ると、そこには丸まった体躯に贅肉を蓄えた中年男――生態維持課の課長代理、ゼグリスが立っていた。かつてユークの現場報告を「予算の無駄」と切り捨てた張本人である。
「……あ、ゼグリス課長代理。過去の崩落案件の傾向を調べていまして」
「灰環迷宮か。そんな、とっくに墓石を置いたような死に案件を掘り返してどうする。時間の無駄だ」
ゼグリスはエルリオの机の上の汚れた紙片を、不潔なものを見るような目で一瞥した。
「いいか、エルリオ。記録というのはな、組織の決定を正当化するためにある。既に閉鎖と決まった場所の、整理もされていないゴミデータを眺めたところで、給料は上がらんぞ。それよりも、今期の予算要求のための、見栄えの良い魔獣駆除実績の表を作れ」
「ですが、課長代理。この生データを見る限り、当時の水脈判断には明白な空白があります。外水脈枝は、旧図面で想定されていたよりもずっと広く、深い階層まで繋がっていた可能性があるんです。もしこれが事実なら、今もなお地下で……」
「黙れ。それは『無かったこと』になった案件だ」
ゼグリスの声が、地下の静寂に鋭く響いた。
「当時の調査官が『再生不能』と判断し、監督院がそれを認めた。それが唯一の正解だ。今さら端役の職員がその判断を汚すような真似をしてみろ。組織の信頼に関わる。……分かったら、そのゴミを箱に戻して、さっさと執務室へ戻れ」
ゼグリスはエルリオに背を向け、悠然と去っていった。
保存庫に残されたエルリオは、強く拳を握りしめた。
数字は黙っていない。
この生データは、当時の監督院が「面倒な修復作業」を避けるために、あるいは崩落の責任問題を隠蔽するために、再生の可能性を意図的に無視したことを叫んでいる。
そして、エルリオは確信していた。
もし今、あのユーク・フェルドがこの現場に立っていたら、彼は間違いなくこの「空白」の正体を見つけ出し、泥にまみれて水脈を穿っているはずだ。
(ユーク先輩なら、上司に何を言われようと、目の前の現場を優先した。……僕に、同じことはできないかもしれない。でも、この数字を『無かったこと』にはさせない)
エルリオはゼグリスが去ったのを確認し、素早く魔法の複写機を稼働させた。
未整理の観測データ、当時の非公式な地質メモ、そして、旧図面に記されていなかった「隠れた流路」の推測図。
それらを一まとめにし、エルリオは一通の封筒を作った。
宛先は、ラスティアのミレア監査官。
これは正式な課の報告書ではない。エルリオ個人の「覚書」という形をとった、極めて危険な内部情報だ。
「……ミレアさん。ユーク先輩は、たぶん生きています。そして、この空白の場所を、今まさに直しているはずだ」
エルリオは封筒を強く押しつぶすようにして封をした。
彼が送ったのは、単なる過去の記録ではない。
迷宮の深部へと続く、失われた水脈の「鍵」そのものだった。
* * *
翌日。
ラスティアの安宿で、エルリオからの極秘の覚書を受け取ったミレアは、その内容を読み終えると、窓の外に広がる北の山並みを見上げた。
そこには、灰環迷宮を包む深い霧が、朝日に照らされて白く輝いている。
手元の覚書には、エルリオの震えるような筆跡でこう記されていた。
『外水脈枝は、旧図面よりも遥かに西――現在の前砦の直下を通過し、未知の「第五沈殿槽」へ繋がっている可能性があります。もし上流が改善されていれば、そこに凄まじい水圧がかかっているはずです』
「……あの人は、やっぱりそういう一番厄介な場所から手を付けているのね」
ミレアは覚書を火鉢に投げ入れ、灰になるのを見届けた。
彼女は既に、旅の支度を終えている。
監督院の監査官としての立場ではなく、かつてユークの背中を追っていた一人の後輩として、確かめなければならないことがあった。
「行きましょう。数字が何を言っているのか、この目で見るために」
ミレアは冷たい朝の空気の中、一人で宿を出た。
向かう先は、かつて死の穴と呼ばれた場所。
今、新たな「循環」が始まりつつある、灰環前砦だった。




