第40話 ラスティアの噂と監査官
迷宮都市ラスティア。その裏通りにある薬師ギルドの買い取り所では、ここ数日、奇妙な現象が起きていた。
品質の安定した『魔力濾過砂(灰鉱砂)』が、小口ではあるが、途切れることなく持ち込まれ始めていたのだ。
「……また灰環産の砂か。これで今日は四組目だぞ」
鑑定の眼鏡をかけたギルドの職員は、小瓶に詰められた灰色の砂を光に透かしながら、呆れたような、しかし感心したようなため息を漏らした。
「間違いなく上物だ。不純物が完璧に抜けていて、魔力の粒子も均一。いったいあの『死の穴』で何が起きているんだ? ちょっと前まで、あそこは足を踏み入れたら最後、有毒な泥に沈んで戻ってこられない悪魔の胃袋だと言われていたはずだが」
砂を持ち込んだ若い冒険者ペアは、銀貨を受け取りながら肩をすくめた。
「さあな。だが、水が戻ったってのは本当らしいぜ。ドブみたいな泥臭さもかなり減ってた」
「ただよ、管理人が異常にうるせえんだ。入り口に関所みたいな受付を作っててよ、『この紙にサインしろ』だの『この札を持たねえと光が消える』だの、少しでも壁の苔に触ろうもんなら虫が湧いてきて大目玉だ。あんな面倒くさい迷宮、他にねえよ」
「でもよ、あそこの言う通りに歩いてりゃ、怪我一つしねえのも事実だぜ。魔物と戦わずに金になるんだ、多少の小言は我慢するさ」
冒険者たちは笑い合いながら、酒を飲みに買い取り所を出て行った。
彼らの背中を見送るギルド職員の横で、待合用の長椅子に座って静かに書物に目を落としていた一人の女性が、ふと顔を上げた。
仕立ての良い灰色の外套。神経質そうに結ばれた唇と、理知的な光を宿す眼鏡。
王立迷宮監督院、保全運用部の監査官、ミレア。
彼女は本来、ラスティア周辺で新たに発見された小規模迷宮の環境アセスメント(事前調査)のためにこの町を訪れていた。だが、ここ数日、酒場でも宿でも、そしてこのギルドでも、彼女の耳に入ってくるのは「北の死の穴が稼げるようになった」という、胡散臭い噂ばかりだった。
(死の穴……数十年前の崩落で管理放棄され、未登録のまま放置されていた『灰環迷宮』のことですね)
ミレアは膝の上の手帳を開き、冒険者たちの会話から得た断片的な情報を書き留めていく。
水が戻った。泥臭さが減った。明確な利用規則。入退場札による管理。壁の建材(苔)の保護と、それに連動した防衛機構(虫や光の消失)。
迷宮の資源を人間が回収する際、大抵の管理者は「自己責任」という名の放任主義をとる。入り口で税だけを取り、中で誰が死のうが、誰が壁を壊そうが知ったことではない。そして問題が起きてから、討伐隊を派遣して力でねじ伏せるのが一般的なやり方だ。
だが、この灰環迷宮の「管理人」と名乗る者のやり方は、全く違う。
(事故が起きてから対処するのではなく、物理的なシステムで横着を縛り、事故が起きないように誘導している。人間の悪意ではなく『無知と疲労』を計算に入れた動線設計……)
ミレアの脳裏に、かつての上司の顔がよぎった。
迷宮の生態系を一つの巨大な機械のように捉え、魔獣の特性を歯車として組み込み、現場の最適化に異常なまでの執念を燃やしていた男。
組織の政治や書類の体裁には無頓着で、上層部と衝突を繰り返した末に、監督院を追放された『落第管理者』。
「……まさか、ね。いくらあの先輩でも、たった一人であの死の穴を復旧させるなんて、物理的に不可能よ」
ミレアは独り言のように呟きながら、手帳を閉じた。
だが、彼女の監査官としての勘は、間違いなく「ユーク・フェルドの気配」をそこから嗅ぎ取っていた。
* * *
同じ頃。
灰環前砦の受付カウンターでは、当のユーク・フェルドが、山積みの記録帳と格闘していた。
第三沈殿槽の詰まりを抜き、外水脈が正常化したことで、前砦での管理業務は新しい段階に入っていた。
「次の方。利用規則は確認しましたか。この誓約書にサインを。……よし」
ユークが手渡した『入退場札』を受け取った採集者が、迷宮のアーチへと歩いていく。
彼がアーチをくぐった瞬間、足元に配置されていたルーメの欠片が、淡い青緑色の光を放って通路を照らし出した。
『……キュルル。セイキ、カクニン』
ルーメはただ光っているだけではない。ユークが札に塗布した特殊な魔力波長を読み取り、偽造札や無札の侵入者が来れば、即座に警告の赤色へと光を切り替える「ゲート」の役割を果たしている。
そして、受付の石台の下。
暗がりの中で、シルクスが石畳の隙間に細長い脚を差し込み、微かな振動を拾い続けていた。
『……一人、入ル。靴、重イ。荷物、空。歩幅、一定』
シルクスが地中の振動から読み取った入場者の歩数、重量、そして軌跡のログが、魔力パスを通じて直接ユークの脳内へと送られてくる。
「一人入場、と。これで今日の定員は満了だ。シルクス、ログの記録を継続してくれ。もし帰りの歩幅が異常に狭かったり、引きずるような音が混ざったりしたら、怪我か過積載の可能性がある。その時はすぐに知らせろ」
ユークは記録帳にチェックを入れ、ようやく一息ついた。
ルーメの波長判定と、シルクスの振動ログ。この二つの防衛線によって、ユークが付きっきりで見張らなくても、利用者の動向をほぼ正確に把握できるようになった。
内部のシステムは、見事に回り始めている。
「……だが、書類仕事だけはどうにもならんな」
ユークは、自分の汚い字で書き殴られた記録帳を見つめ、深いため息をついた。
現場の動線や魔獣の配置は完璧に設計できる。だが、誰がいつ入ったか、協力金がいくら集まったかという「対外的な帳簿」の整理は、彼にとって最も苦手とする分野だった。
何より、この迷宮の運営は、現在の王国法に照らし合わせれば「グレーゾーン」である。
未登録の崩壊迷宮を勝手に占拠し、通行料を取り、資源を排出させているのだ。いずれこの噂が広まれば、地元の領主か監督院が、権利を主張して乗り込んでくるのは火を見るより明らかだった。
本来であれば、彼らが来る前に「有益な施設として自立している」ことを示すための、完璧な報告書や運用実績の書類を用意しておかなければならない。
「対外的な説明の準備……後回しにしすぎているな。だが、今はまだ現場の安定が最優先だ」
ユークは現実逃避するように記録帳を閉じ、再び迷宮の奥、次なる修繕計画へと意識を向けてしまった。
この「現場至上主義」による説明不足の放置こそが、かつて彼が監督院を追放された最大の理由であることを、彼はまだ自覚しきれていなかった。
* * *
ラスティアの町、監督院の出張所。
ミレアは借り受けた執務室の机で、白紙の報告書を前にペンを止めていた。
噂は十分に集まった。
未登録の迷宮で、何者かが不法に環境を管理し、資源を採掘させている。監査官としての彼女の責務は、直ちに本国へこの事実を通報し、調査隊、あるいは討伐隊の派遣を要請することだ。それが、規則である。
だが、ミレアの頭の中には、酒場で聞いた冒険者たちの言葉がリフレインしていた。
『怪我人ゼロだ』
『水が戻った』
数十年間、監督院の誰も手をつけられず、ただ腐っていくのを見守るしかなかった巨大な「死の穴」が、たった数週間で、人間を安全に受け入れる施設へと変貌しつつある。
もしそれが、本当にあの先輩の仕業だとしたら。
「……本国に通報すれば、脳筋の討伐部隊が送り込まれて、彼がせっかく組み上げた生態系のシステムを、泥靴で踏みにじってめちゃくちゃにするでしょうね」
ミレアはため息をつき、白紙の報告書を机の引き出しにしまった。
規則は規則だ。だが、現場を見ずに組織の論理だけで動けば、失われるものがあることも、彼女はユークの下で嫌というほど学んでいた。
自分が直接行って、確かめるしかない。それがただの不法占拠か、それとも、監督院すら成し得なかった「奇跡の再生」なのかを。
「……すみません、職員の方」
ミレアは部屋の外にいた出張所の若い事務員を呼び止めた。
「はい、ミレア監査官。何かご入用ですか?」
「王都の公文書館に手配をかけてください。かつて北の山で崩落し、閉鎖された『灰環迷宮』。その、当時の地質調査データと、閉鎖決定に至った古い記録の写しをすべて取り寄せたいのです。至急でお願いします」
「灰環迷宮、ですか? あんなただの廃墟の記録を、今さらどうして……」
「監査官としての、個人的な好奇心です。それと……」
ミレアは眼鏡の位置を中指でスッと押し上げ、冷徹な役人の顔に戻って言った。
「明日から数日、私は少し『視察』に出ます。行き先は内密に」
監督院側の接続候補が、ついに動き始めた。
現場の最適化しか頭にない落第管理者と、規律と書類を重んじる優秀な監査官。
二つの異なる歯車が、灰環前砦で再び交差しようとしていた。




