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第39話 小さな違反が流れを壊す

 灰環前砦グレイサーク・フロントの受付カウンター。

 石台に叩きつけられた黒緑色の泥まみれの塊を前に、若い冒険者ペアはバツが悪そうに視線を泳がせていた。


「だからよ、管理人さん。そんなに目くじら立てるなよ。壁にはあの苔がびっしり生えてたんだぜ? 俺たちが持って帰るのは、ほんの手のひら二つ分だ。迷宮全体からすりゃあ、塵みたいなもんだろ」


「そうそう。それに、あの気持ち悪い虫が食うくらいなら、俺たちがラスティアの薬師ギルドに売って、有効活用した方が世のためだろ?」


 彼らに悪意はない。迷宮の崩壊を企んでいるわけでもない。ただ、「ちょっとくらいならバレないだろう」「少しの量なら影響はないだろう」という、人間のありふれた横着と欲がそこにあるだけだ。


 ユーク・フェルドは大きく息を吐き、苛立ちを飲み込んだ。

 ここで彼らを怒鳴りつけ、永久追放を言い渡すのは簡単だ。だが、それでは「なぜ採ってはいけないのか」という根本的な問題は解決しない。次にやって来た者も、同じように「少しだけなら」と壁を削るだろう。


「……お前たちには、迷宮の壁がただの石に見えるのだろうな」


 ユークは木札を回収し、彼らの背負い袋から没収した灰苔の束を拾い上げた。


「ついてこい。お前たちのその『ほんの少し』が、この迷宮で何を引き起こすか、見せてやる」


 ユークは冒険者二人を伴い、再び迷宮のアーチをくぐった。

 暗い安全導線を数十メートルほど進んだところで、ユークは足を止めた。魔力パスを通じてシルクスから受け取った「不正な手の動き」の記録地点だ。


 フェズの幻惑を一時的に解除すると、本来は虫たちの餌場となっている岩壁が姿を現した。


「ここだな。お前たちが苔を剥ぎ取った場所は」


 ユークが魔力灯で照らし出した壁面には、生々しくえぐり取られた跡があった。

 問題は、見た目の傷ではない。その「跡」から、周囲とは明らかに違う量の水滴がドクドクと染み出し、壁を濡らしていたのだ。


「いいか。灰苔はただの草じゃない。壁の奥から染み出す過剰な湿気を吸い取り、岩盤の結合を保つ『栓』の役割を果たしている。お前たちがその栓を抜いたせいで、この部分だけ局所的に湿度が上がり、壁の奥に水が溜まり始めている」


「そ、それがどうしたってんだ。ちょっと水が垂れてるだけじゃねえか」


「その結果が、これだ」


 ユークは杖の先で、壁の周囲を這い回る虫たち――灰殻虫の群れを指し示した。

 虫たちは、過剰に濡れた壁面を嫌がり、また自分たちが食べるはずだった「適度に育った苔」を奪われたことで行き場を失い、落ち着きなくカサカサと安全導線の方へと溢れ出そうとしていた。


『……キュ、キュゥウ……』


 その時、足元の暗がりから、ひどく弱々しい波長が響いた。

 導線を照らしていたルーメの光が、チカチカと明滅し、みるみるうちに光量を落としていく。周囲の通路が、不気味な暗闇に包まれ始めた。


「な、なんだ!? なんで急に暗くなるんだ!」


 冒険者たちが慌てて剣の柄に手をかける。


「ルーメが防衛本能で光を消しているんだ。居場所と餌を失った虫たちが、光を放つルーメの灯苔を食害しようと近づいているからな」


 ユークは冷徹な声で事実を突きつけた。


「お前たちが『ほんの少し』苔を剥がした。湿度が偏る。虫が移動する。そして、迷宮の道を照らす光が消える。……もしお前たちがもっと奥の深い階層でこれをやっていて、帰り道に突然すべての光が消え、魔物に囲まれたらどうする?」


 冒険者ペアは、自分たちの足元まで這い寄ってくる虫の音と、頼りだった青緑の光が消えていく恐怖に、完全に言葉を失っていた。


「お前たちの横着は、自分自身が歩く道を暗くし、足場を崩す行為だ。迷宮の生態系に『少しだけだから』という言い訳は通用しない」


 ユークの言葉が、冷たい迷宮の岩壁に反響した。

 二人の冒険者は真っ青な顔で立ち尽くし、ただ小さく頷くことしかできなかった。


「……分かったら、さっさと表に出な。あんたらの今日の稼ぎは、その背負ってる砂だけだ」


 背後から、しゃがれた声が響いた。

 いつの間にか様子を見に来ていたドーランだ。彼は煙管をふかしながら、怯える冒険者たちをアゴで外へと促した。二人は逃げるようにして砦の方へと駆け出していった。


 彼らの足音が消えた後。

 ユークはため息をつき、モルトに命じて剥がされた壁面の過剰な水分を舐め取らせ、ルーメの光をゆっくりと復旧させた。


「見事な説教だったな、管理人。これであの二人は、二度と壁の苔には触らねえだろうよ」


 ドーランが感心したように言うが、ユークの表情は晴れない。


「あの二人は、そうでしょうね。ですが、明日来る見知らぬ採集者は? その次に来る冒険者は? 彼ら全員に、毎日この現場検証を見せて回るわけにはいきません」


「違いない」


 ドーランは岩壁に寄りかかり、紫煙を細く吐き出した。


「人間ってのはな、管理人。どんなに恐ろしい理屈を教えられても、目の前に『金になるもの』がむき出しで転がっていれば、必ず誘惑に負ける。悪意がなくてもだ」


「どうしろと?」


「知らない奴に任せるなら、知らなくても守れる規則――いや、物理的に『破れない仕組み』にしろ。いくらフェズの幻惑で目を逸らさせようが、匂いか何かで気づく奴はいる。だから、最初から触れねえようにしちまえ」


 ユークはドーランの言葉を咀嚼した。

 確かに、これまでの防衛はシルクスの糸による「検知」とフェズの「幻惑」に頼りすぎていた。検知して怒るのでは遅い。幻惑を破られたら終わりだ。


「……物理的な防護。そして、横着な人間でも満足できる明確な餌場か」


 ユークは魔力パスを通じて、土木担当の契約個体を呼び寄せた。


「グラン。大仕事だ。やれるか?」


 暗がりから姿を現したグランが、低く力強い唸り声を上げた。


「この通路の脇、灰苔が群生している壁面の前に、崩落した石材を使って『柵』を作れ。完全に塞ぐと湿気がこもって苔が死ぬ。だから、数センチの隙間を開けた石の格子――ルーバー状に組み上げるんだ。空気と虫は通すが、人間の手やナイフは絶対に入らない深さと硬さでな」


 グランは琥珀色の目を光らせると、巨大な顎で岩盤を噛み砕き、見事な精度で石材を切り出し始めた。それを壁の前に積み上げ、自身の魔力を流し込んで強固に定着させていく。

 それは単なる壁ではない。迷宮の呼吸を妨げず、かつ人間の干渉を物理的に拒絶する、生態系の「保護ケース」だった。


「これなら、いくら欲深いやつでも石を砕かなきゃ苔には触れねえな」


「ええ。ですが、触れないと分かれば、今度は無理やり石を壊そうとする者も出るかもしれない。だから、ガス抜きも用意します」


 ユークはさらに、安全導線の途中の目立つ窪みに、木材で四角い枠を組んだ。

 そこに、モルトが排出した最高品質の灰鉱砂と、グランが削り出した低位鉱石の破片を、あらかじめ山盛りにして置いておくのだ。


「これが『本日の採集済み置き場』だ。採集許可証を持った者は、迷宮の奥や壁をほじくり返す必要はない。ここにあるものを、自分の袋に詰めて帰るだけでいい」


「ははっ、至れり尽くせりじゃねえか。冒険リスクの欠片もねえ」


「ここは外縁のインフラです。リスクなど不要。彼らには安全に資源を持ち帰ってもらい、その対価として維持費を落としてもらう。それがこの迷宮の回し方だ」


 柵によって禁忌を隠し、置き場によって欲を満たす。

 人間の「少しだけなら」という危険な横着を、システムそのものが優しく、かつ冷徹にへし折る仕組みが完成した。


 数日後。

 ラスティアの町の酒場では、灰環迷宮に関する新たな噂が冒険者や採集者たちの間で囁かれ始めていた。


「おい、聞いたか? 北の山にある灰環の穴。あそこの管理人、異常にうるさくて神経質らしいぞ」


「ああ。少しでも壁の苔を削ろうもんなら、どこからともなく監視の糸が切れて、光が消えて虫が湧いてくるって話だ。誤魔化しが一切効かねえんだとよ」


「だが……」


 ジョッキを傾けていた初老の採集者が、声をひそめて言った。


「あそこは、ルールさえ守れば『絶対に死なない』。俺の知り合いも、指定された砂を拾うだけで、一切魔物と戦わずに銀貨を稼いで帰ってきた。怪我人ゼロだ」


 管理人がうるさいが、安全。

 ルールを破れば厳しく弾かれるが、従えば確実な利益が出る。


 それはもはや「死の穴」の悪名ではない。一つの強固なルールを持った「生産施設」としての評価が、外界の人間たちの間に根を下ろし始めた証拠だった。


 だが、迷宮の奥で静かに脈打つ中枢コアは、人間の噂など意に介していない。

 外縁のシステムが強固になればなるほど、迷宮はその奥底で、次なる自己修復と「異物の排除」に向けた力を蓄えつつあった。


 回りはじめた外縁の歯車は、やがてさらに深い階層への扉を、ユークの前に強制的に開こうとしていた。

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