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第36話 濁りの戻る日

 山を下る街道を、息を切らして駆け上がってきた少年の悲痛な叫びが、夕暮れの灰環前砦グレイサーク・フロントに響き渡った。


「管理人さん! ユークさん、大変だ!」


 ユーク・フェルドは、新設したばかりの協力金箱の鍵を締めようとしていた手を止め、少年の顔をまっすぐに見据えた。

 少年は、以前に外水脈の調査で立ち寄ったクルン村のリクだった。肩で激しく息をしながら、受付の石台に必死でしがみついている。


「村の、井戸が……! 綺麗になったはずの井戸の水が、また泥で真っ黒に濁り始めたんだ! それに、村の裏手の山で……不気味な音がするって、みんなが怖がってて!」


 ユークの表情が、一瞬で険しい実務家のそれへと変わった。

 一度は解決したはずの問題が、さらに深刻な形でぶり返した。それは、前回の処置が一時的な対症療法に過ぎなかったか、あるいは、入口層の回復によって「別の場所」に新たな負荷がかかったことを意味している。


「……分かった。すぐに向かう。リク、案内を頼めるか」


 ユークは迷宮のアーチの奥で待機している契約個体たちに、魔力パスを通じて『待機と警戒の継続』を命じた。

 本来なら、専門的な知見を持つ魔獣たちを同行させたいところだが、彼らを迷宮の魔力圏外、特に人間の村へ連れ出すことはできない。未登録の野良魔獣は、それだけで討伐対象になりかねないからだ。


「ドーランさん、申し訳ありませんが、受付の監視をお願いできますか。協力金箱はシルクスとフェズが守っています。不審な動きがあれば警告が出るはずです」


「ああ、任せろ。村の方は気になるだろうが、こっちは俺が睨みを効かせておいてやるよ」


 広場の隅で荷物の整理をしていたドーランが、重々しく頷いた。

 ユークは必要最小限の機材――ガラスの採水瓶、記録帳、そして魔力灯を鞄に詰め、リクと共に夜の帳が下りつつある山道を駆け下りた。


 一時間ほどで到着したクルン村は、重苦しい静寂と、あちこちで焚かれる松明の煙に包まれていた。

 村の中心にある共同井戸の周りには、不安げな表情を浮かべた村人たちが集まっていた。


「おい、管理人を連れてきたぞ!」


 リクの声に、村人たちが一斉に道を空ける。

 井戸の縁に歩み寄ったユークに対し、村の長老が焦燥を隠しきれない声で詰め寄った。


「どういうことだい、管理人さん。あんたが来てから水が澄んで、これで一安心だと喜んでいたのに……今度は前よりひどい。真っ黒な泥だけじゃない、底の方から『ズズッ、ズズッ』と地面が震えるような音が聞こえてくるんだ。このままじゃ井戸が崩れちまうんじゃないか?」


 ユークは長老の言葉を遮らず、まずは井戸から汲み上げられた桶の中身を覗き込んだ。

 桶の底には、重く淀んだ灰色の泥が溜まっている。


「……以前とは、違うな」


 ユークは手袋を脱ぎ、その濁った水に直接指を浸した。

 以前、村を襲っていた汚泥は、迷宮内で蓄積し、瘴気を帯びて腐敗した「死の泥」だった。鼻を突く腐敗臭があり、魔力的にも毒性が強かった。


 だが、今、指先に触れているのは、もっと冷たく、そして「無機質」な泥だ。


「匂いを嗅いでみてください。腐敗臭はしません。これは、腐った泥ではなく、細かく砕かれた岩の粉……鉱泥スライムだ。それも、かなり古い時代の」


 ユークは濁り水を少量掬い、魔力灯の光に透かした。

 光の通り方が不均一だ。単なる泥水なら光は遮られるだけだが、この水は光を屈折させ、微かな虹色の光沢を放っている。


「長老、この濁りが出る時間帯は決まっていますか?」


「え? ああ、そういえば……朝方、みんなが使い始める頃に一番ひどく濁る。昼過ぎには少し落ち着くんだが、また次の日の朝には真っ黒だ」


「周期性がある、ということですね」


 ユークは数本の採水瓶に慎重にサンプルを詰め、しっかりと封をした。

 現場での観察から導き出された仮説は一つ。


 迷宮の入口層(上流)が浄化され、水流の勢いが増したことで、それまで水路の「どこか」に堆積して動かなくなっていた古い鉱泥が、水圧に耐えきれず押し流され始めている。

 そして朝方に濁りが強くなるのは、夜間の気温低下による水密度の変化か、あるいは「上流」で何らかの周期的な魔力放出が行われている影響だろう。


「原因の断定には、迷宮側での精密な分析が必要です。リク、山での『不気味な音』はどのあたりで聞こえる?」


「あの……村の裏手の、大きな岩壁があるあたりだよ。そこから、地面の下を何かが這い回るような音がするんだ」


 ユークは少年に案内させ、村の裏手へと向かった。

 切り立った岩壁の下で耳を澄ますと、確かに聞こえる。

 地中の奥底で、巨大な質量が無理やり狭い場所を通り抜けようとする、重く、くぐもった摩擦音。


『ズズッ……ズズゥン……』


 ユークは岩壁に手を当て、振動の周期を測った。


「……水流の音じゃない。これは『詰まり』を押し出そうとする、バイパスの作動音だ」


 かつて王立迷宮監督院が管理していた大規模迷宮には、必ず予備の水路や沈殿槽が存在した。

 迷宮が崩壊し、管理を離れたことでそれらは忘れ去られ、土砂に埋もれたはずだ。だが、ユークたちの手によって入口層の機能が一部回復したことで、眠っていた古い「自動管理システム」が、必死に汚泥を排出しようと不全な動作を繰り返しているのではないか。


「長老、リク。この水、今は飲んではいけません。濾過しても無駄です。だが、必ず解決します。私はこれから迷宮に戻り、この濁りを元から断ちます」


 不安がる村人たちを後にし、ユークは夜の街道を急いだ。

 歩きながら、頭の中で図面を広げる。

 灰環迷宮の構造、クルン村の井戸の位置、そして先ほど聞いた振動の方向。


(入口層から村の井戸までの距離、そして高低差。……あの振動の音源が前砦の近くまで続いているなら、必ず『点検口』があるはずだ)


 砦に戻ったユークは、休む間もなく契約個体たちを呼び出した。

 深夜の広場に、青緑の光を放つルーメ、巨体のモルト、そして壁から音もなく降りてきたシルクスが集まる。


「ルーメ、この水に光を当てろ。波長の変化から、鉱泥の含有率を割り出すんだ」


 ルーメがゼリー状の体から発する光を、持ち帰った瓶の濁り水に透過させる。

 光が水を通り抜けた瞬間、ルーメの体色が不規則に明滅し、濁った黄緑色へと変化した。


『……キュルル、キュゥ』


 波長が乱れている。単なる土砂ではなく、明らかに迷宮の「管理物質」が混ざっている証拠だ。


「モルト。お前の仕事だ。この沈殿物を『食って』みろ。味で成分を判別できるか?」


 ユークが小瓶の底に溜まった泥を差し出すと、モルトは巨大な口でそれをゆっくりと呑み込んだ。

 数秒後、モルトの巨体が微かに震え、重苦しい波長がパスを通じて返ってくる。


『……キュ、ウゥ……。フルイ……カタマリ。重イ……』


「やはりか。入口層の泥じゃない。第3層から第4層あたりで使われる、古い耐魔防護壁の残骸――鉱石泥だ」


 深い階層の物質が、なぜ村の井戸にまで流れてきているのか。

 それは、外水脈枝に「古い排水路」が合流していることを意味している。


「シルクス! 広場の中央で、地中の音を拾え。村で聞いたあの振動と同じ周期の音が、この真下を通っていないか?」


 シルクスは指示に従い、石畳の隙間に細長い脚を差し込んだ。

 そのまま静止すること、数十秒。

 やがてシルクスは、特定の場所――ユークが受付を設置した石台から数メートル離れた、一見何の変哲もない崩れかけた石畳の上で、激しく前脚を叩いた。


『――トトトントン、トトトントン!』


「ここか」


 ユークはそこへ駆け寄り、魔力灯の光を地面に叩きつけた。

 ただの石畳に見える。だが、シルクスが指し示した場所だけ、石の継ぎ目に不自然な隙間があり、周囲よりも心なしか地面が低くなっている。


「グラン! この下の石板を剥がせ。ただし、乱暴に壊すな。下に空洞があるはずだ」


 重い足音と共に現れたグランが、太い前脚の爪を石の隙間に突き立てた。

 ミシミシという嫌な音が広場に響き、何十年も動かされていなかった巨大な石板が、ゆっくりと持ち上げられていく。


 そこから立ち上ったのは、カビと強烈な鉱石の匂いだ。


「これは……」


 剥がされた石板の下には、暗く深い縦穴が口を開けていた。

 石造りの壁面は頑丈に補強され、側面の鉄梯子は無惨に錆びついている。だが、その穴の奥からは、リクの村で聞いたのと同じ「ズズッ、ズズゥン」という周期的な振動と、激しい水音が轟き始めていた。


 ユークは梯子の縁に手をかけ、懐のプレートを照らした。

 泥に塗れていたが、そこには確かに王立迷宮監督院の旧紋章が刻印されている。


『外水脈枝・第三沈殿槽および緊急排水路・管理扉』


「……見つけたぞ。砦はただの入り口じゃなかったんだ」


 この場所は、迷宮からあふれ出した余剰な水を浄化し、外界へ流すための「ろ過施設」の点検口だったのだ。

 迷宮の崩壊によって沈殿槽が泥で埋まり、バイパス機能が停止していた。そこへユークが上流(入口層)を直したことで、行き場を失った大量の水と古い汚泥が、不全な動作を続けるこの沈殿槽で押し問答を繰り返し、その結果として村の井戸を汚していたのだ。


「ここを直さなければ、村の水は一生濁り続ける。……グラン、シルクス、ルーメ。夜明けまでに、この地下の状況を確認するぞ」


 ユークは腰のベルトを締め直し、錆びた梯子へと足をかけた。

 地上では人間たちが平穏を取り戻しつつあるが、その足元には、まだ誰も知らない「迷宮の病巣」が口を開けて待っていた。


 濁りの正体は見えた。だが、それは同時に、これまで手をつけていなかった「旧施設の地下遺構」という、新たな困難への招待状でもあった。

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