第35話 維持費という値段
灰環前砦の受付カウンター。その石台の上に、商人のベックは仰々しく革の手袋を脱いで置いた。
彼の背後には、空の荷馬車と二人の護衛が控えている。ベックは先ほどから、ユークが提示している『低位鉱材』と『灰鉱砂(魔力濾過砂)』のサンプルを、値踏みするような、あるいは嘲笑うような目で見つめていた。
「いやはや、管理者殿。確かに質は悪くない。だがね、商売というのは『相場』というものがある。これだけの量を安定して供給できるというなら、私としても相応の額を提示したいところだが……何分、ここは辺境の『死の穴』だ。運び出す手間と護衛の賃金を考えれば、提示できるのはこの程度だな」
ベックが指を三本立てた。
「砂一袋につき、銅貨三枚。これでも、ラスティアの市場価格を考えれば破格の提示だよ」
ユークは眉をひそめた。監督院時代、彼は予算の執行や資材の調達は行っていたが、迷宮資源を「商品」として市場に卸した経験は乏しい。銅貨三枚という数字が、果たして妥当なのか、それとも不当に低いのか、即座に判断がつかなかった。
もしこれが相場だというなら、今の慎重な試験開放のペースでは、迷宮の修繕に必要な資材代すら賄えない。
「……それは、あまりに安すぎませんか? この砂はモルトが浄化した不純物のない高品質なものです。それに、安全導線の維持には多大な手間がかかっている」
「おっと、管理者殿。手間、と言われてもね」
ベックは肩をすくめ、わざとらしく嘆息した。
「買い手からすれば、それはただの『砂』だ。君がどれだけ苦労して魔獣を配置しようが、道を固めようが、砂自体の価値が跳ね上がるわけじゃない。それとも何かね? この穴には、他では手に入らない特別な魔石や秘宝でもあるのかい? ないだろう? ならば、値段を決めるのは希少性ではなく、利便性だ。不便な場所にある砂は、砂でしかない」
ユークは反論の言葉を探したが、ベックの理詰めの言葉に喉が詰まった。
管理者の視点では、迷宮の維持管理コスト(人件費としての魔獣の魔力、資材、自身の労働)を含めた価格を考えたくなる。だが、市場という戦場においては、そんな内部事情は一切考慮されない。
「おいおい、ベックの旦那。相変わらず、舌の回ることで」
横から、野太い声が割り込んできた。
広場の隅で馬の世話をしていたドーラン・ヘイズが、泥のついた手を払いながら近づいてきた。彼はユークの隣に並び、ベックを鋭い目で見据えた。
「ドーランか。運び屋の君が、なぜここに?」
「ここの管理人に、少しばかり恩があってな。……旦那、今の話、聞き捨てならねえな。『ただの砂』だと? 笑わせるんじゃねえ。あんたがこれまで扱ってきた迷宮資源の中で、採集者が『一人も欠けずに、しかも疲労すら最小限で』持ち帰ってきたものがどれだけある?」
ドーランは石台をドンと叩いた。
「いいか、ベック。この砂の値段は、素材としての価値だけじゃねえ。この迷宮に入り、迷わず、襲われず、荷崩れも起こさずに戻ってこられる『安全な道』の利用料が含まれてるんだ。あんたが雇った三流の採集者が、途中で崩落に巻き込まれたり、魔獣に食われたりして荷物を丸ごと紛失するリスクを、この管理人が肩代わりしてやってるんだぜ。その保険料を考えれば、銅貨三枚なんてのは、詐欺に等しいふっかけだ」
ベックの表情が、わずかに引きつった。
「……フン。安全だ何だと、そんな目に見えないものに金を払う商人がどこにいる」
「ここにいなけりゃ、俺が他を当たってやるよ。ラスティアの若手商人で、安全な仕入れルートを喉から手が出るほど欲しがってる奴をな。……管理人、こいつの提示は無視していい。砂一袋につき、銀貨二枚。それが『灰環迷宮』のブランド代込みの適正価格だ」
銀貨二枚。ベックの提示の六倍以上の価格だ。
ベックは忌々しそうにドーランを睨みつけると、舌打ちを一つして背を向けた。
「……話にならん。管理者殿、少し頭を冷やしたまえ。そんな高値を維持していては、誰も寄り付かなくなるぞ。また後日、考えが変わったら連絡してくれたまえ」
ベックは吐き捨てるように言うと、荷馬車に乗り込み、砦を去っていった。
静かになった砦の広場で、ユークは深く息を吐き、ドーランに向き直った。
「……助かりました、ドーランさん。まさか、そこまで買い叩かれていたとは」
「気にするな。あんたは現場の専門家だが、商売のあくどさには疎すぎる。だがな、管理人。ベックの野郎が言ったことにも、一つだけ真実がある」
ドーランは、ユークが即席で作った『維持費箱』の、空っぽの底を指差した。
「今のまま『無料』で開放を続けてりゃ、いつかはこの迷宮の方が干上がるぜ。……あんた、気づいてるか? 砦の倉庫に置いてあった、修繕用の釘や、魔獣たちの寝床に敷く布、それに灯り用の油。あれ、もう底をつきかけてるだろ」
ユークはハッとして、自分の記録帳の在庫管理ページを見返した。
確かに、ドーランの指摘通りだ。
試験開放を始めてからというもの、人間が歩くたびに床は削れ、壁は汚れ、浄化槽の不純物は増えた。その都度、ユークは私財を投じ、あるいはドーランから物資を買い取って、場当たり的に補修を繰り返してきた。
魔獣たちは魔力さえあれば動ける。だが、彼らが活動するための物理的な道具や、ユーク自身の食料、そして薬品といった消耗品は、確実に減り続けている。
「これまでは『試験』だったから、持ち出しでも良かった。だが、これからは違う。……管理運営には、金がかかるんだ」
ユークは石台を見つめた。
利用料を取る。それは、監督院時代には「国家の予算」で解決していた問題だ。利用者に直接金を請求することに、ユークのどこかで『収奪』に近い抵抗感があった。
だが、現実は残酷だ。金がなければ釘一本買えず、釘がなければ道は壊れ、いずれまた誰も入れない死の穴に戻る。
「……金を取るのは、奪うためじゃない。この安全を『維持』するための、負担の分担だ」
ユークは決断した。彼は石台の横に、頑丈な木材で組んだ小さな箱を据え付けた。
そして、入り口の規則板に新たな一文を書き加える。
『灰環迷宮・安全協力金。入場一回につき、銅貨五枚。採集成功時、成果の二割を管理費として納入すること』
「よし。これで、最低限の消耗品代は回せるようになるはずだ。……だが、これだけじゃ足りないな」
ユークは空の協力金箱を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
「金を取る以上、それに見合う『確実な仕事』を提供しなきゃならない」
ユークは魔力パスを通じて、各区画に配置した魔獣たちに新たな指令を下した。
「ルーメ! お前は受付で渡す『利用札』の確認を徹底しろ。札を持っていない者、あるいは偽物の札を持ち込んだ者がアーチをくぐろうとしたら、その足元を『真っ赤な警告光』で照らせ。誰が見ても不法侵入だとわかるようにな」
『……キュゥ!』
ルーメが石台の隙間で発光し、了承の意思を示す。
「シルクス! お前の警戒糸を、協力金箱の周囲にも張り巡らせろ。不当に箱を開けようとしたり、持ち去ろうとする不審な動きをミリ単位で検知するんだ」
シルクスの細い糸が、目に見えない防御網として箱を包み込んでいく。
「そしてフェズ。お前の幻惑を、この箱の周囲に重ねろ。もし俺や契約個体以外の者が、悪意を持って箱に手を伸ばしたら……その手が箱ではなく、自分の懐か、あるいは目の前の虚空を掴むように、感覚を迷わせろ」
空間が微かに揺らぎ、協力金箱の周囲に「手が出しにくい」独特の圧迫感が生まれた。
物理的な検知、光による警告、そして知覚を狂わせる防護。
ただの木箱が、魔獣たちの連携によって、一転して「絶対に盗めない金庫」へと変貌を遂げた。
「……これで、維持費の回収と防犯の仕組みは整った」
ユークは記録帳に『運用フェーズ2:有料化による自立運営』と書き込んだ。
迷宮はただそこにあるだけでは死んでいく。人間が利用し、その対価として得た富を迷宮の修復に再投資する。その循環があって初めて、灰環迷宮は真に「生きている場所」になれるのだ。
「いい度胸だ。これなら、俺も安心して荷運びの代金を請求できるぜ」
ドーランは満足げに笑うと、空になった協力金箱に、景気付けと言わんばかりに銅貨を一枚放り込んだ。
チャリン、という硬質な音が、静かな砦の広場に響く。
それは、この崩壊した迷宮が、経済という名の血を通わせ始めた最初の産声だった。
その日の夕暮れ。
新たなルールの告知を終え、ユークが砦の入り口で一息ついていた時のことだった。
山を下る街道から、一人の少年が息を切らして駆け上がってくるのが見えた。
彼は迷宮の利用者ではない。以前、ユークが水脈の調査で立ち寄った『クルン村』の少年の顔だった。
「管理人さん! ユークさん、大変だ!」
少年は受付の石台にしがみつくようにして、喘ぎながら叫んだ。
「村の、井戸が……! 綺麗になったはずの井戸の水が、また泥で真っ黒に濁り始めたんだ! それに、村の裏手の山で……変な音がするって、皆が怖がってて!」
ユークの表情が、一瞬で険しいものに変わった。
入口層の浄化(モルトの仕事)と、外水脈枝のバイパス工事によって、クルン村の水質は改善していたはずだ。それが再び悪化したということは、想定外の事態――迷宮のさらに深い場所で、新たな『崩壊』か『詰まり』が発生したことを意味している。
「……分かった。すぐに向かう」
ユークは協力金箱の鍵を締め、記録帳を強く握りしめた。
ようやく始まった「循環」。だが、迷宮という巨大な病体は、容易にはその再生を許してはくれない。
維持費という手段を手に入れた管理者の前に、次なる危急の現場がその姿を現そうとしていた。




