第34話 採っていいもの、残すもの
「ほほう、こいつは驚いたな。ただの石っころかと思えば、そこそこの『低位鉱材』じゃねえか。それに……こっちの黒い苔は、間違いない、『灰苔』だ。止血剤のつなぎとして、ラスティアの薬師ギルドが高値で買い取る代物だぞ」
灰環前砦の広場に、ドーラン・ヘイズのしゃがれた声が響き渡った。
朝の冷たい風が吹き抜ける中、ユークが即席で組み上げた受付の石台の上には、昨日この迷宮を訪れた試験利用者が持ち帰ろうとしていた品々の一部が広げられていた。
彼らが採集したのは、モルトの浄化によって生み出された『灰鉱砂(魔力濾過砂)』だけではなかった。道中に転がっていた崩落の石屑と、壁面に張り付いていた黒っぽい苔を、彼らは少しばかり削り取って持ち帰っていたのだ。
ユークは利用者が帰還した際、それらが迷宮のインフラに悪影響を及ぼさないか確認するため、いったんサンプルとして預かっていた。そして今朝、物資の運搬に訪れた元冒険者の運び屋であるドーランに、その外部市場における価値の査定を頼んでいたのである。
「灰苔が高く売れる、ですか」
ユークは石台に置かれた黒っぽい苔の欠片を指先でつまみ上げた。わずかに湿り気を帯びており、かすかに土と魔力の混ざった独特の匂いがする。
「ああ。ラスティアの町なら、その一握りで銅貨数枚にはなる。灰鉱砂なんかよりよっぽど割のいい稼ぎだ。これなら、噂を聞きつけて採集者が押し寄せてくるぜ。何せ、この迷宮はルールさえ守れば死なないんだからな。安全に小金が稼げるとなれば、食いつめ者どもが目の色を変えて集まってくる」
ドーランはニヤリと笑って見せたが、ユークの顔に喜びの色は一切なかった。むしろ、その眉間には深いシワが刻み込まれ、ひどく難しい顔をして苔の欠片を睨みつけていた。
「……ダメです。灰苔の採集は、今後一切禁止にします。低位鉱材に関しても、壁面から崩れ落ちたものだけとし、岩盤に埋まっているものを掘り出す行為は厳禁とします」
「おいおい、なんでだ? 壁にいくらでも生えてるんだろう? 少しぐらい削ったってバチは当たらねえさ。せっかくの金づるを逃す手はないぜ」
「いくらでも生えているわけではありません。あれは、迷宮の湿度調整と、岩盤の結合を担っている重要な『建材』であり『臓器』です」
ユークはきっぱりと言い切り、ドーランに向けて迷宮の生態系に関する解説を始めた。
「この入口層は、かつての崩落によって水脈が乱れ、異常な湿気に包まれています。あの灰苔は、その過剰な水分と微小な魔力粒子を吸い上げ、自身の成長の糧とすることで、迷宮内の湿度を一定に保つ役割を果たしているんです。さらに、苔の根が岩肌に食い込むことで、脆くなった岩盤を繋ぎ止める天然の接着剤にもなっている。それを『金になるから』という理由で人間に根こそぎ剥ぎ取られれば、壁は水分を溜め込んで重くなり、いずれ必ず大規模な崩落を引き起こします」
迷宮の中にあるものは、ただ無意味に存在しているわけではない。すべてが何らかの役割を持ち、緻密なバランスの上で生態系を維持しているのだ。灰苔は単なる薬草ではなく、迷宮の血管を保護する包帯のようなもの。それを奪うことは、迷宮そのものを殺すことに他ならない。
「利用者は、価値があると思えば目の前にあるものを全部持ち帰ろうとします。彼らに悪意がなくても、それが迷宮の機能を壊すことになるとは想像もしない。……だからこそ、ルールが必要です。明確で、絶対に破らせない『採集制限』が」
ユークは懐から記録帳を取り出し、新しいページを開いて羽ペンを走らせた。
「利用者が守れるルールは、シンプルでなければなりません。複雑な条件をつけても、暗く疲労の溜まる迷宮の中では絶対に破綻します。疲れた人間は、必ず横着をする生き物ですから。だから、採集対象を三つに分類します」
一つ。『拾ってよいもの』。
二つ。『触るな(禁止事項)』。
三つ。『報告してから採るもの』。
ユークはペンを置き、ドーランの顔を見た。
「ドーランさん。人間が横着せずに『拾ってよいもの』だけを採集するように仕向けるには、どうすればいいと思いますか? 言葉で禁止するだけでは、見回りの目がない奥の区画で必ず違反者がでます」
「そりゃあ簡単だ。『一番楽に拾える場所』に、欲しいものを山積みにしておいてやることさ。人間ってのは、目の前に楽な餌があれば、わざわざ苦労して壁の苔を削ろうなんて思わなくなる。疲れてりゃなおさらだ」
「同感です。……なら、やることは決まっていますね。禁止区域への物理的な防衛線と、彼らの欲を満たすための『餌場』を構築します」
ユークは迷宮のアーチへ向き直り、深く息を吸い込むと、魔力パスを通じて内部に潜む契約個体たちに一斉に指示を飛ばした。
「モルト! お前が処理して生み出す『灰鉱砂』は、これからは水路の奥深くではなく、人間が歩く安全導線の中腹――彼らが復路で一番休みたくなる場所のすぐ横に排出溝を新設して、そこに溜めろ」
『……キュゥ』
岩陰で休んでいたモルトから、了承の鈍い波長が返ってくる。処理済みの副産物を一箇所にまとめることで、採集者の目をそこに釘付けにするのだ。
「グラン! お前は安全導線に散らばっている『低位鉱材』の石屑を集めろ。壁の強度に関わらない、完全に崩落した後のただのゴミだけでいい。それを、モルトの砂の隣に山にして置いておけ。人間がかがむ必要がないよう、腰の高さの台を作ってその上に乗せるんだ」
土木作業を担うグランが、奥の区画で太い前脚と強靭な顎を動かし始める。迷宮内の不要な石屑をかき集め、採集用のポイントを構築していく重低音が、微かに前砦まで響いてきた。
「ルーメ! その『拾ってよいもの』の場所だけを、一際明るく照らせ。採っていいものは光の中にある。それ以外の暗がりのものは『触るな』だ。人間の視覚に直接訴えかけろ」
暗がりからルーメの本体が動き、グランが作った石屑の山とモルトの砂溜まりを、青緑色の光でスポットライトのように照らし出した。
「そしてシルクス」
ユークは一番神経を使う防衛網の構築を命じた。
「壁に生えている灰苔と、水脈の近くの湿った砂。そこに人間の手が伸びた瞬間を検知しろ。触れられるギリギリ数ミリ手前に極細の警戒糸を張り巡らせろ。切れたら即座に俺に警告を寄越すんだ。人間が手を伸ばしにくいよう、足元にはフェズの幻惑で『腐臭のする泥沼』の幻を見せて近づかせないようにしろ」
壁の表面を覆うように、シルクスの見えない糸が緻密なセンサー網として張り直されていく。同時に、フェズの魔力が空間を歪め、禁止区域への心理的な抵抗感を作り出していく。
これで『拾ってよいもの』は光の下に集められ、『触るな』の領域は見えない糸と幻惑で守られた。
それでも、迷宮は生き物だ。予期せぬ珍しい鉱石や、見慣れぬ魔獣の落とし物が転がっていることがある。それこそが『報告してから採るもの』だ。未知のものを勝手に持ち出させないための、最後の安全弁である。
ユークは、書き上げた三分類のルールを新しい木板にナイフで深く刻み込み、受付カウンターの最も目立つ場所に立てかけた。
「……よし。これで、迷宮の維持機能を優先しつつ、利用者に『安全な利益』を提供できる。ルールはただの縛りではない。迷宮と利用者の両方を壊さないための、機能的な導線なんです」
作業の一部始終を見守っていたドーランは、腕を組んで感心したように深く頷いた。
「見事なもんだ。採集価値より、迷宮の維持を優先する。しかも、ただ禁止するだけじゃなく、採らせるためにわざわざ歩きやすい場所に『餌場』を作ってやるたぁな。人間の横着する心理を完全に逆手にとってやがる。これなら、欲の皮の突っ張った採集者も、文句を言わずにルールに従うだろうさ」
「規則は管理者の威張りではありませんから。守らせるための仕組みが現場に組み込まれていなければ、どんな立派な法もただの紙切れです」
ユークが手についた泥を払い落としていると、ドーランがふと思い出したように言った。
「そういや、ラスティアの町で、あんたの迷宮の噂を聞きつけて目の色を変えてる奴らがいるぜ。商人の連中だ」
「商人、ですか」
「ああ。低位とはいえ、安定して鉱砂と石材が手に入る安全な穴があるなら、一枚噛みたいって奴らさ。冒険者崩れを雇って乱獲させようって腹積もりの連中もいるだろう。そのうち、ここにも挨拶に来るかもしれねえな。気をつけることだ」
ドーランが帰り支度を整え、忠告を残して砦から街道へと下っていった後。
ユークは一人、受付カウンターで記録帳の整理を再開した。外縁区画に初めて明確な「採集ルール」が敷かれたことで、管理の基盤はまた一つ強固になった。誰も死なず、迷宮も壊れない。その絶妙な均衡点が、ようやく形になりつつあった。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
昼過ぎ、太陽が雲に隠れ始めた頃。街道の先から、灰環前砦の荒涼とした風景には全く似つかわしくない、一台の小綺麗な荷馬車がゆっくりと登ってきたのだ。
車輪にはラスティアの町の舗装路を走るための鉄帯が巻かれ、御者台には護衛と思しき革鎧の屈強な男が二人、油断なく周囲を睨みつけている。
馬車が広場に止まると、中から上等な絹を織り込んだ外套を羽織る、恰幅の良い中年の男が降り立った。男は商会主のベックと名乗り、愛想の良い、だが決して腹の底を見せない商人特有の笑みを浮かべて、ユーク・フェルドの立つ受付の石台へと歩み寄ってきた。
「やあやあ、君がこの迷宮の管理者殿かな? 私はラスティアで商会を営んでいる、ベックという者だ」
ベックは石台の上に置かれた『灰環迷宮・利用規則』の木板を一瞥し、鼻で短く笑った。
「話は聞いているよ。ここは安全で、素晴らしい『資源の宝庫』だそうじゃないか。どうだろう、うちの商会と専属契約を結ばないか? 採集の制限を外し、生産量をもっと増やしてくれれば、今の倍の値段で買い取らせてもらうがね」
ベックの背後にある荷馬車は、大量の荷物を積めるように空になっていた。
彼の目論見は明らかだ。この安全な廃墟から、売れるものを限界まで搾り取ろうというのだ。迷宮の生態系など知ったことではない。彼らの目には、ここが単なる『無限の鉱山』にしか映っていない。
ユークは、提示された破格の条件と、欲にまみれた商人の目を見据えながら、静かに息を吸い込んだ。
迷宮の安定は、早くも新たな「外部からの圧力」を引き寄せようとしていた。管理者の戦いは、迷宮内部の魔獣や崩落との闘いから、人間社会の欲望との闘いへと、確実にそのフェーズを移行させつつあった。




