第33話 戻り道の重さ
灰環前砦の朝。
ユーク・フェルドは、受付カウンターの石台に張り付くようにして、親指の先ほどの『湿った灰色の砂』を睨みつけていた。
昨日、利用者が帰った後に発見した、正体不明の砂。
モルトが処理して排出溝に溜まる『魔力濾過砂』とは明らかに違う。濾過砂は乾いていてサラサラしているが、これは水分をたっぷり含み、微かなカビの匂いすら混ざっている。迷宮内で今も『生きている』砂だ。
「……これが付着していたのは、受付台の見本の横だ。俺の靴底から落ちたものではない。昨日ここを訪れた採集者が、背負い籠を下ろすか、報告の手続きをする際にこぼしていったとしか考えられない」
ユークは記録帳を開き、昨日の利用状況を振り返った。
初老の採集者二人組は、確かに濾過砂と低位鉄鉱石を持ち帰った。彼らは「指定の場所から採った」と報告していたし、ユークもそう信じていた。
だが、この湿った砂の存在は、その報告が完全には正しくなかった可能性を示唆している。
「彼らは嘘をついたのか? いや……違うな」
ユークは記録帳を閉じ、迷宮の入り口へと視線を向けた。
人間の悪意を疑う前に、現場の構造を疑う。それが管理者の鉄則だ。
「確かめてみるか。ドーランの指摘で『道』の傾斜は直したが、まだ何か見落としている欠陥があるはずだ」
ユークは砦の隅にあった大きめの背負い籠に、瓦礫の石を限界まで詰め込んだ。重量にして三十キロ以上。冒険者や採集者が、一日の終わりに背負って帰る『成果』の重さのシミュレーションだ。
ズシリと肩に食い込む革帯の痛みを感じながら、ユークは迷宮のアーチをくぐった。
内部はルーメの淡い青緑色の光に満たされ、静寂を保っていた。
グランが踏圧を計算して組み直した床は、重い荷物を背負って歩いても、体が左右に流れることはない。足元は極めて安定していた。
「行きは問題ない。帰りも、足場そのものは改善された。だが……」
ユークは第一次安全帯の中間地点まで進み、そこで踵を返して『復路』のシミュレーションを開始した。
入り口に向かって、緩やかな上り坂を歩く。
一歩、また一歩と進むにつれ、背中の重石が体力を容赦なく削り取っていく。息が上がり、視線が自然と下がっていく。周囲の壁や天井を警戒する余裕などなくなり、ただただ「次の一歩をどこに置くか」だけに意識が集中し始める。
「……なるほど。疲労すると、人間は『前』しか見なくなる」
ユークがそう実感した直後だった。
『――ッ』
魔力パスを通じて、シルクスから微弱だが切迫した警告音が響いた。
「シルクス、どうした?」
ユークが立ち止まって壁際を見ると、彼の背負い籠の角が、岩壁に張られたシルクスの警戒糸のギリギリ数ミリ手前まで迫っていた。
足場が平らでも、重い荷物を背負って上り坂を歩けば、人間は無意識に上半身を振ってバランスを取ろうとする。その反動で、背中の巨大な籠が左右の壁に大きく振れ、あわや糸を切断しかけていたのだ。
「危なかった。……空身で歩く時の肩幅と、荷物を背負った時の横幅は全く別物だ。俺が設定した『安全導線の幅』は、荷運びの揺れ幅を計算に入れきれていなかった」
さらにユークは、もう一つの致命的な欠陥に気づいた。
彼は自分の背後に、もう一人『架空の同行者』がいることを想定して振り返った。
パーティーを組んだ冒険者たちは、狭い通路では一列になって歩く。もし、前の人間がこの巨大な背負い袋を担いでいた場合、後ろを歩く人間の視界はどうなるか。
「……見えない」
ユークは顔をしかめた。
ルーメの青緑色の光は、人間が手をつかないよう、壁の腰から胸の高さにかけて配置してある。
だが、その高さの光は、前を歩く人間の『巨大な荷物』によって完全に遮られてしまうのだ。
後続の人間からは、ルーメの安全な光も、危険を知らせる赤紫の光も、前の人間の背中に隠れて一切見えなくなる。頼りになるのは、前の人間の足取りだけ。
もしその状態で、前の人間がつまずいたり、危険区画の境界線に差し掛かったりしても、後続者は光による警告を受け取れないまま、巻き込まれて死ぬ。
「ドーランの言う通りだ。ここは入り口じゃなく、帰りに事故る道だ」
ユークは背負い籠を下ろし、即座に修正のタクトを振るった。
「ルーメ! 今の壁の光はそのままでいい。だが、追加で『床面』の隅にも小さな欠片を配置してくれ。前の人間の荷物がどれだけ大きくても、足元にスリット状の光があれば、後続者にも道筋が見えるはずだ」
暗がりからルーメの本体が姿を現し、ゼリー状の体を震わせて小さな欠片を分離させ、床と壁の接点――絶対に足で踏まれない隅のラインに沿って、フットライトのように光を這わせていった。
「シルクス! お前の糸も、壁の表面に張るのはやめろ。岩の窪みや、亀裂の奥深くにアンカーを撃ち込んで、荷物がこすれても絶対に届かない『奥のライン』に隠せ」
シルクスが素早く動き、壁の表面すれすれにあった糸を回収し、岩盤の凹凸を利用してより深く、物理的な干渉を受けない位置へとセンサー網を再構築していく。
「グラン、お前もだ」
ユークは土砂の影にいる土木担当を呼び寄せた。
「壁の角を削って道を広くするのは限界がある。人間が壁に寄りかかったり、荷物をこすったりしないように、壁の足元に数センチの『段差(逃げ)』を作れ。足がその段差に当たれば、自然と壁から距離を取って歩くようになる」
グランが太い前脚で床の端を押し込み、壁際に沿って縁石のような微細な段差を作り上げていく。
視界の確保、センサーの隠蔽、歩行ラインの物理的な誘導。
疲労した人間が『何も考えずに歩いても事故らない』ための、徹底的なフェイルセーフの構築だった。
作業を終え、ユークはふと壁際の一角に目を留めた。
グランに縁石を作らせたすぐ横。水脈の湿気がうっすらと染み出している岩肌の表面に、不自然な削り痕が残っていた。
「……これは」
ユークは魔力灯を近づけ、その削り痕を調べた。
岩の表面に生えていたはずの黒っぽい苔――迷宮の湿度を調整する『灰苔』が、ナイフのようなもので無残に剥ぎ取られている。そして、その周囲にあった湿った砂壁も、ガリガリとえぐり取られたような跡があった。
ユークの脳裏で、受付台に残されていた『湿った砂』の謎が、完全に一本の線で繋がった。
「そうか。あの初老の採集者たちは、嘘をついたわけじゃない。ただ、『帰り道の重さ』に負けたんだ」
ユークは削り痕を指でなぞりながら、昨日の彼らの心理をトレースした。
彼らは行きは元気だった。ユークが指定したモルトの排出溝まで歩き、真面目に濾過砂を集めようとしただろう。
だが、迷宮の奥で作業をするうちに疲労が溜まる。背負い籠はまだ一杯になっていないが、これ以上重い荷物を持って、この長く蛇行した帰り道を歩くのはしんどい。
その時、帰り道の途中で、壁に生えている『売れそうな苔』や、水脈の近くの『濾過砂に似た湿った砂』が目に入った。
『わざわざ奥まで戻らなくても、この壁の砂と苔を削り取って籠の隙間を埋めれば、ノルマは達成できる。似たようなものだから、管理人も文句は言わないだろう』。
悪意の略奪ではない。疲労が生み出した、ほんの些細な「横着」だ。
だが、その横着こそが迷宮の生態系を壊す。
「灰苔は、ただの薬草じゃない。この入口層の過剰な湿気を吸い取り、岩盤の強度を保つための重要なパーツだ。これを剥ぎ取られれば、壁は水分を抱え込んで脆くなり、いずれ再び崩落を引き起こす」
モルトが処理した乾いた砂と、壁を構成している湿った砂の違いも同じだ。壁の砂を抉れば、迷宮の血管を傷つけるのと同じことだ。
ユークは立ち上がり、深く息を吸い込んだ。
「『戻り道の重さ』は、肉体だけじゃない。ルールを守ろうとする人間の『モラル』や『注意力』をも削り取るんだな」
人間は、楽な道があればそちらへ流れる。監視の目が届かず、疲労がピークに達した帰り道こそが、最もルール違反が起きやすい魔の区間なのだ。
「甘かった。見本を置いて『これ以外は採るな』と言葉で制約しただけでは、現場の人間は守り切れない」
ユークは記録帳を取り出し、新たな課題を強く書き殴った。
採っていいものと、残さなければならないもの。
その区別を、人間のモラルや記憶力に依存してはいけない。物理的に「採れる状態」にしてあるから、彼らは横着をするのだ。
「触ってはいけないものは、触れないように隠すか、物理的な障壁を設ける。そして、採っていいものは、彼らが最も『拾いやすい形』で提供してやらなければならない」
管理者の視点が、さらに一段階深く、人間という生き物の本質へと潜り込んでいく。
ユークは剥ぎ取られた灰苔の跡を見つめながら、次なる防衛のタクトを構えた。
「モルト、ルーメ、シルクス。生態系を守るための『見えない檻』を作るぞ」
利用者を罰するためではない。彼らに無自覚な罪を犯させないための、優しくも冷徹なシステムの改修が始まろうとしていた。




