第32話 灰環前砦の受付台
「……管理人。あんた、自分で重い荷物を背負って、あの道を歩いてみたことがあるか?」
「行きは問題ねえ。だが、帰りがダメだ。重い荷物を背負って疲労した脚で緩やかな上り坂を歩くと、人間の体は無意識に重力を楽な方へ逃がそうとする。……あの角の道、荷を背負って戻ると、遠心力で体が『左』へ流れるぞ」
元冒険者の運び屋、ドーラン・ヘイズの指摘は、迷宮管理の素人であるユークの盲点を鋭くえぐっていた。
グランに指示して踏圧を分散させるために微細な傾斜をつけたコーナー。空身で歩く分には全く気づかなかったが、確かに人間は疲労し、重い荷物を背負えば、歩行のバランスは劇的に変わる。
「……試させてください」
ユークはドーランに頼み込み、彼の背負っていたズッシリと重い石屑入りの背負い袋を借り受けた。
三十キロは優に超えるであろう重量が、肩と腰に食い込む。ユークはそのまま迷宮のアーチをくぐり、青緑の光が照らす安全導線を奥へと進み、そして折り返して「復路」を歩き始めた。
行きは問題なかった。
だが、ドーランが指摘した上り坂のカーブに差し掛かった時、ユークはハッと息を呑んだ。
背中の重みと、坂を登るための踏み込み。それがグランの作った微かな内側への傾斜と合わさった瞬間、ユークの体はまるで目に見えない手に引かれるように、自然と左の岩壁側へと引き寄せられたのだ。
「おっと……」
バランスを崩しそうになり、思わず左手を出して壁に手をつこうとする。
その手のひらの数センチ先には、シルクスが張り直したばかりの極細の警戒糸があった。もしここに手をついていれば、糸は切れ、ユークの泥だらけの手袋が壁を汚し、最悪の場合は壁際の泥の水路に足を踏み外していただろう。
「道ってのは『往路』で図るもんじゃねえ。『疲労した復路』を基準に設計しなきゃ、本物とは呼べねえ」
背後からついてきたドーランの言葉が、改めて重く響いた。
「私の完全な設計ミスです。……グラン!」
ユークは背負い袋を下ろし、魔力パスを通じて土木作業を担う契約個体を呼び出した。
ゴソリと崩落の土砂の影から現れたグランに、ユークは即座に修正の指示を出す。
「このカーブの傾斜、踏圧を逃がす発想は良かったが、人間の歩行特性と噛み合っていない。傾斜をフラットに戻せ。その代わり、角の内側を少し削って『歩行用』と『荷運び用(復路)』でレーンが重ならないように道幅を広げるんだ」
グランは短い唸り声で応じると、強靭な顎と前脚を使って、昨日組んだばかりの石の床を素早く解体し、再構築し始めた。
さらにユークは、周囲を見渡して付け加える。
「それだけじゃない。人間は疲れたら壁に寄りかかりたくなる。だったら、寄りかかってもインフラが壊れない場所……『荷置き台』と『待避の窪み』を要所に作る必要がある」
ユークはグランに指示し、安全導線の数十メートルごとに、壁の一部を浅く抉って腰掛けられる程度の平らな石の台を設けさせた。
「シルクス、お前の糸も微調整だ。荷置き台の周辺には絶対に糸を張るな。人間が休む場所は、完全にセンサーの死角にしておく。その代わり、台から導線を外れようとする動きだけを拾えるように配置を変えろ」
「ルーメ、荷置き台の足元に光を一つ追加してくれ。休む場所が暗いと、人間は不安になる」
ユークの淀みない指示と、モンスターたちの流れるような連携作業。
それを見ていたドーランは、腕を組みながら感心したように息を吐いた。
「……普通、一度完成したと思った道を他人にケチつけられりゃあ、腹を立てるか言い訳をするもんだ。だが、あんたは一瞬で非を認めて、即座に現場を最適化しやがった」
「私は戦士でも英雄でもありませんから。現場の不具合を放置すれば、結局自分が痛い目を見るだけだと骨身に染みているんです」
ユークは泥で汚れた手を払い、新しくできた荷置き台の強度を確認した。
「これでどうです? これなら、重い荷物を背負って戻ってきても、壁に手をつく前にここで息を整えられる」
「ああ、完璧だ。これなら新人冒険者でも荷崩れを起こさずに帰ってこられるだろうさ」
ドーランは満足げに頷いた。
迷宮内の物理的な導線の再修正を終え、二人は外の灰環前砦へと戻ってきた。
時刻はすでに昼前。薄曇りの空の下、ユークが砦の入り口に組み上げた石と木材の『受付カウンター』が、静かに彼らを待っていた。
ユークはカウンターの裏に回り、先ほどドーランとテストを行った入退場管理のシステム――木札と誓約書、そしてフェズの幻惑を利用したゲート――について、改めてその意義を整理していた。
「ドーランさん。先ほど、あなたが『記録しない現場は、事故った時に全員が嘘をつく』と仰いましたね」
「ああ、言ったな。迷宮ってのは欲と恐怖の吹き溜まりだ。命が惜しけりゃ平気で嘘をつくし、他人のせいにする」
「その通りです。だからこそ、この前砦は単なる『雨風を凌ぐ休憩所』であってはならないんです」
ユークはカウンターの上の『灰環迷宮・利用規則』と書かれた木板を叩いた。
「冒険者や採集者たちは、迷宮の中で様々なものを抱え込みます。疲労、恐怖、過剰な欲望、そして拾った素材。それらをそのまま外界(町)へ持ち出させたり、逆に外界の都合や悪意をそのまま迷宮内に持ち込ませたりしてはいけない」
ユークは削り出した木札を綺麗に並べ、名簿の紙を整えた。
「ここは、迷宮へ入る前に人間の都合や嘘を落とし、帰る時に迷宮の異常を報告させるための『濾過装置』です。誰がいつ入り、何を持ち帰ったか。それを記録し、誓約させ、物理的な札で管理する。……この受付台は、迷宮の生態系と人間社会の間に引かれた、絶対に越えられない『境界線』でなければならない」
ドーランはユークの言葉を黙って聞いていたが、やがて顔をほころばせて低く笑った。
「……大した裏方根性だ。王立迷宮監督院の役人どもは、迷宮からいかに税を搾り取るかしか考えてねえが、あんたは『現場を壊さずに回す』ことだけを考えてやがる」
「私は監督院をクビになった落伍者ですよ」
「見る目のねえ組織だ。……いいぜ、管理人。あんたの作ったこの受付台と、その先の道、俺は信用する」
ドーランは背負い袋を担ぎ直した。
「今日は様子見のつもりだったが、いいもんを見せてもらった。俺がラスティアの酒場に戻ったら、少しばかり『灰環の穴は、ルールさえ守れば確実に生きて帰れる優良物件だ』って宣伝しておいてやるよ」
「それは助かります。ですが、あまり大勢来られても一日三組の制限は曲げられませんからね」
「分かってるさ。……じゃあな、管理人。また近いうちに、本物の荷運びの仕事で寄らせてもらう」
ドーランは軽く手を上げると、引きずる右脚を庇いながらも力強い足取りで、山を下る街道へと去っていった。
外部の現場を知るプロフェッショナルからの、確かな承認。
それはユークにとって、何よりも頼もしい後ろ盾となった。
「さて……」
ドーランの背中が見えなくなったのを確認し、ユークは小さく息を吐いた。
受付のシステムは整った。フェズの幻惑ゲートも機能し、内部の導線も復路を計算に入れた耐久仕様にアップデートされた。
これでようやく、人間を安定して受け入れるための準備が整ったと言える。
ユークは受付カウンターの周囲を掃除し、拾い集めた見本用の『低位鉱石』と『魔力濾過砂の小瓶』の配置を直そうとした。
「ん?」
ユークの手が止まった。
石の台の上に置かれた小瓶の横。そこには、ユークが置いた覚えのない『湿った灰色の砂』が、ほんのわずかだがベッタリと付着していたのだ。
指で掬い取って匂いを嗅ぐ。
腐敗臭はない。だが、微かな魔力の粒子が混ざった、モルトの排泄した『魔力濾過砂』に極めて近い成分。しかし、小瓶に入れたものとは明らかに湿り気が違い、粒も粗い。
「……これは、俺が用意した見本じゃない。どこから付いた?」
ユークは眉をひそめた。
今朝、砦の周辺を掃除した時にはこんなものはなかった。ドーランが来た時か? いや、彼は受付台に荷物を置いていない。
ならば、昨日ここを訪れた『三組の試験利用者』の誰かが残していったものか。
「昨日、採集者と冒険者の二組は確かに濾過砂を持ち帰った。だが、彼らが採取したのは俺が指定した排出溝からのはずだ。排出溝の砂はもっと乾燥している。こんな湿った砂は……」
ユークの脳裏に、嫌な予感がよぎった。
彼らが持ち帰った砂は、本当にユークが許可した場所から採集されたものだったのか?
それとも、安全導線を歩きながら、ルールで禁じられている『壁の隙間』や『水路の底』から、直接泥混じりの砂をほじくり出して持ち帰ったのではないか?
「……もしそうだとしたら、問題だ」
迷宮の資源は、どこからでも自由に採っていいわけではない。
モルトが処理し終えて排出溝に溜まった砂は「不要な副産物」だが、水路の底や壁を構成している砂は、迷宮の魔力循環や物理的な強度を保つための「建材」なのだ。
それを知らずに剥ぎ取っていけば、いずれ壁は崩れ、水路は決壊する。
「ルールで『これだけを採れ』と見本を見せた。だが、人間の目には『似たような砂ならどこから採っても同じだろう』と見えてしまうのか」
ユークは湿った砂を指先で揉み潰しながら、深い溜息を漏らした。
受付のシステムは完成した。人間を捌くことはできる。
だが、迷宮の資源を『使わせる』ための、致命的な認識のズレ。
「採っていいものと、残さなければならないもの。その境界線を、言葉や見本だけでなく、現場の物理的な仕組みとして構築しなければ……この迷宮はいずれ、善意の採集者たちに食い潰される」
管理者の戦いに終わりはない。
ユークは記録帳の新しいページを開き、次なる運用の課題を書き込んだ。




