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第31話 外縁は踏まれて壊れる

 灰環前砦グレイサーク・フロントの朝は、山から吹き下ろす冷たい風と共に始まる。

 限定的な試験開放を始めてから数日が経過していた。一日三組まで、外縁区画のみ、日没前撤収。ユーク・フェルドが定めた厳格なルールは、初日に若者三人組を永久追放したことで強い抑止力となり、その後に訪れた採集者や冒険者たちは、概ね規則に従って行動していた。


 一見すれば、迷宮の運用は順調に回り始めているように思える。誰も死なず、誰も深追いせず、持ち帰りが許可された低位の鉱石や魔力濾過砂だけを拾って帰っていく。

 だが、現場を預かる管理者の朝は、決して安息の中にはない。


『――プツッ』


 砦の小部屋で短い睡眠から目覚めたばかりのユークの脳内に、シルクスの警戒糸が切断される微かな波長が響いた。


「……またか。昨日の帰還後から、これで三本目だ」


 ユークは寝袋から身を起こし、固まった首を回しながら呟いた。

 灰漁りのような悪意ある侵入者ではない。夜間は入り口を固めているし、シルクスの糸の切れ方も「乱暴に引きちぎられた」というよりは、「何かが擦れて摩耗して切れた」ような鈍い感触だった。


 ユークは灰色の外套を羽織り、記録帳を懐にねじ込むと、朝霧に包まれた前砦の広場を横切り、迷宮のアーチへと足を踏み入れた。


 迷宮の内部は、ルーメの放つ淡い青緑色の光によって、静かな『安全導線』が保たれている。


「シルクス」


 ユークが魔力パスを通じて呼びかけると、岩壁の影からカサカサとシルクスが這い出てきて、ユークの足元でピタリと止まった。


「糸が切れた場所を教えてくれ。侵入者じゃないのは分かっている。場所の確認だ」


 シルクスの案内に従い、ユークは安全導線を数十メートルほど進んだ。そこは、帰路において少しだけ上り坂になっている、緩やかなカーブの区画だった。


「……ここか」


 ユークは壁際にしゃがみ込み、魔力灯の光を当てた。

 シルクスが壁沿いに張っていた細い糸が、見事に擦り切れている。だが、それだけではない。糸が張られていた高さ――ちょうど人間の胸から腰にかけての岩壁に、ベッタリと泥の跡が擦り付けられていたのだ。


 さらに、そのすぐ下で安全を知らせるために配置していたルーメの欠片が、泥に塗れてひどく弱々しい光を放っていた。


『……キュゥ』


 パスを通じて、ルーメの不快感と、光量を落として異常を訴える波長が伝わってくる。


「なるほどな。ルールは破っていないが、こうなるわけか」


 ユークは壁の泥跡を指でなぞりながら、昨日の利用者たちの動きを推測した。

 彼らは行きは元気だ。安全導線のど真ん中を歩き、周囲を警戒する余裕もある。だが、採集を終え、背負い籠に重い鉱石や砂を詰めた『帰り道』はどうだ。


 疲労した足取りで緩やかな上り坂に差し掛かった時、人間は無意識に楽をしようとする。壁側に寄り、岩肌に手を突いて体重を預けながら歩くのだ。

 その結果、泥のついた手や背負い袋が壁に擦れ、シルクスの糸を切り、ルーメの灯苔を汚していく。


「悪意はない。ただ、疲れた人間が荷物を背負って歩けば、導線はこうして削られていく」


 ユークは泥に汚れたルーメの欠片を丁寧に拭い、少し高い位置――人間が手をつきにくい場所へと配置をずらした。


「ご苦労だったな、ルーメ。これからは手垢のつかない高さから照らしてくれ。シルクス、お前もだ。人間が寄りかかりそうな壁面には、最初から糸を張るな。少し内側に浮かせるか、足首より下の死角を狙え」


 シルクスは理解したように前脚を動かし、すぐに糸の張り直しに取り掛かった。


 だが、問題は壁だけではなかった。

 ユークがさらに数歩進み、グランが空洞を抜いて一段低く固めた『絶対に崩れないはずの床』に足を乗せた時、靴底から微かな違和感が伝わってきた。


「……沈んでいる?」


 ユークは足を止め、踵で床の端をトントンと叩いた。

 崩落の危険があるような空洞音ではない。だが、グランが数日前に完璧に水平に固めたはずの石板の継ぎ目が、ミリ単位でズレて、わずかに傾斜を生み出していた。


「グラン、起きているか」


 ユークがパスを送ると、近くの岩陰に同化していたグランがのっそりと動き出した。


「お前が固めた床が、もう悲鳴を上げ始めているぞ」


 グランは琥珀色の目を細め、ユークが指差した床のズレに太い前脚を乗せた。そして、フンと短く鼻を鳴らした。『全体が崩れるわけではない、表面の摩擦と偏りだ』という実務的な波長。


「俺もそう思う。だが、なぜここだけが沈むんだ?」


 ユークは床の上の足跡を観察した。

 迷宮の床には薄く泥が乗っているが、その泥が完全に踏み固められ、わだちのようになっているラインが一本だけある。


「……踏み込みの偏りか」


 安全導線の幅は、大人二人が並んで歩ける程度には確保してある。だが、人間という生き物は、何もない空間を均等に歩いたりはしない。特に荷物を背負って疲労している時は、最も歩きやすい、最短距離のライン――インコースのギリギリを一列になって歩く傾向がある。

 ユーク一人が歩いていた時は問題にならなかった。だが、一日数組とはいえ、荷物を背負った大人が毎日同じラインの同じ石を踏み続ければ、局所的な『踏圧』が許容量を超え、グランが固めた床であっても徐々にズレが生じてくるのだ。


「ただの空身で歩く道と、数十キロの荷を背負った人間が歩く道は、かかる負荷が全く違う。グラン、悪いがこの角の部分だけ、もう一度石を組み直してくれ。平らにするんじゃなく、最初から少し内側に傾斜をつけて、荷重が横に逃げるようにするんだ」


 グランは低い唸り声を上げると、顎を使って石板を外し、ユークの指示通りに踏圧を逃がすための微調整を始めた。


 壁が汚れ、床が沈む。

 だが、摩耗はそれだけにとどまらなかった。


 安全導線のすぐ横、モルトのためにユークが石を積んで作った『泥の処理水路』。

 ユークがそこを覗き込むと、流れている腐敗泥の表面に、不自然な黒い塊がいくつも混ざっているのが見えた。


「モルト」


 岩棚の上でまどろんでいたモルトが、のっそりと顔を上げた。その波長からは、いつも以上の不快感と、消化不良を起こしているような重苦しさが伝わってくる。


「お前、何を食った? ここは腐敗泥しか流れないように堰を作ったはずだが」


 ユークは杖の先で水路の中を掻き回した。

 泥の中から出てきたのは、外の街道の土や、油、そして人間が捨てたと思われる丸まった布の切れ端だった。


「……靴底の泥と、ゴミか」


 迷宮に入ってくる人間たちは、外の街道を歩いてくる。その靴底についた外界の土や油が、歩くたびに迷宮の床に落ちる。それが少しずつ水路に流れ込み、モルトが処理すべき泥の成分(濃度)を微妙に変えてしまっていたのだ。

 さらに、採集に夢中になった者が、邪魔になった布切れやゴミを「どうせ泥の沼だから」と無造作に水路に投げ捨てていた。


 モルトは有機物なら何でも消化できるが、外界の油や人工物が混ざれば、処理のペースはガタ落ちになる。


「最悪だな。俺が『食わせる順番』を完璧に管理しても、人間が入るだけで処理ラインに不純物が混ざる」


 ユークは杖でゴミを水路から掻き出しながら、深く息を吐き出した。


 壁が手垢で汚れ、床が踏み固められて沈み、浄化の流路に外界の不純物が混ざる。

 たった数日、ルールを守る数組の人間が入っただけで、迷宮のインフラは確実に『傷んで』いた。


「俺は勘違いしていたな」


 ユークは記録帳を取り出し、現状の図面にバツ印を書き込んだ。


「『安全だった道』が、そのまま『使い続けて安全な道』になるわけじゃない。人が入る、人が歩く、人が荷物を運ぶ。それだけで、迷宮は少しずつ摩耗していくんだ」


 彼が作ったのは「点検のための通路」だった。だが、今のこの迷宮に求められているのは、人間と物資が絶えず行き交う「耐久性のあるインフラ」だ。


「利用者をこれ以上増やす前に、導線を『耐久運用』へと切り替えないと、遠からずこの安全導線は崩壊する」


 ユークはペンを走らせた。

 ただ歩くだけの道では足りない。


 荷物を背負った者が休むための『退避用の窪み』。

 すれ違う時に壁に手をつかなくて済む『歩行用と荷運び用のレーン分け』。


 外界の泥を水路に落とさないための『泥落としの段差』。


「シルクス、グラン、モルト、ルーメ。悪いが、もう一仕事だ。俺たちが引いた線を、ただの線から『道路』に作り直すぞ」


 契約個体たちから、それぞれ実務的な了解の波長が返ってくる。

 彼らもまた、人間という不確定要素に対処しながら、自分たちの『仕事場』を最適化していく過程を学ぼうとしていた。


 数時間の微調整を終え、ユークが前砦の受付カウンターに戻った頃には、すっかり日が昇りきっていた。

 今日もまた、ラスティアから採集者や冒険者たちがやってくる時間だ。


 ユークはカウンターの横に立てた記録板と、その前に広がる広場の土を交互に見つめた。

 広場の土には、昨日ここを訪れた八人の足跡が、乱雑に交差して残っている。


 受付に向かう足跡。迷宮へ入る足跡。そして、帰ってきた時の足跡。


「……ん?」


 ユークは目を細めた。

 昨日、利用者が帰還した際、彼は全員が『ルール通りに安全導線を歩いて戻ってきた』と認識していた。シルクスの糸も、彼らが危険区画へ逸脱したという警告は出していなかった。


 だが、前砦の土に残された『実際の歩行ルートの足跡』は、ユークが意図した動線とは微妙にズレていた。

 報告エリアへ向かうはずの足跡が、なぜか荷置き場の木箱の裏をぐるりと回っていたり、受付を通らずに真っ直ぐ街道へ向かおうとした跡を慌てて修正したような軌跡があったりするのだ。


「……中は青緑の光で誘導できても、外の砦では、人間は俺の想定通りには歩いていない」


 迷宮の内部インフラを耐久運用に切り替えるだけでは足りない。

 この『灰環前砦』という人間と迷宮の接続点そのものを、もっと明確な機能を持った施設として作り直さなければ、いずれここで致命的な情報のズレや、荷物の盗難といった事故が起きる。


 ユークは、今日の最初の来訪者の姿が街道の先に見えるのを確認しながら、記録帳の新しいページを開いた。

 次なる課題は明確だ。


 ただの廃墟の入り口を、人を捌き、記録を管理する『本当の受付』へと変えること。

 管理者の現場改善は、まだ端緒についたばかりだった。

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