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第30話 死なない入口

 灰環前砦グレイサーク・フロントの受付カウンターで、ユーク・フェルドは小さなランプの明かりを頼りに、皮装丁の記録帳と名簿を照らし合わせていた。

 深夜の冷たい風が吹き抜けていくが、彼の頭の中は澄み渡る冷水のようにクリアだった。


「……初回試験開放、終了。入場者八名、生還者八名。死亡・行方不明者ゼロ」


 短い鉛筆で、名簿の端にその結果を書き込む。

 たった八人。王立迷宮監督院が管理するような、大規模で活気のある迷宮であれば、一時間で出入りする人数にも満たないささやかな数字だ。


 だが、あの「完全停止」の烙印を押され、天井の崩落と有毒な泥に支配されていた死の穴から、一人の犠牲者も出さずに全員を生還させたという事実は、ユークにとって何よりも重い、確かな『成果』だった。


 ユークは記録帳のページをめくり、今日一日の課題と結果を実務的に整理していく。


 初老の採集者二人組と、中堅冒険者の三人組が持ち帰った採取量は、お世辞にも多いとは言えない。安全導線の脇で拾った低位の鉄鉱石と、指定の排出溝から掬い上げた魔力濾過砂が少し。金額に換算すれば、数日分の粗末な食費になるかどうかという程度だ。

 だが、彼らは「危険がなく、確実に稼げる」という点に価値を見出していた。大儲けはできなくとも、怪我をせずに帰れる『手堅い狩場』としての需要は、間違いなく存在する。迷宮というインフラを社会に提供し続ける上で、この「手堅さ」こそが最も安定した基盤となる。


 そして、問題を起こした若者三人組。

 彼らは第三規則を破り、進入禁止区画へ立ち入った。ユークの即断と五体の契約個体の総力運用によって救助されたが、第七規則に則り、次回以降の立ち入りは永久に禁じられた。


「彼らを冷酷に切り捨てたわけじゃない。だが、ルールを破れば二度とここを使えないという『実績』を作れたのは、運用上大きな意味を持つ」


 ルールは、掲げるだけではただの看板にすぎない。破られた時にどう対処するかで、その強度が決まるのだ。

 彼らがラスティアの町へ帰り、「ルールを破って死にかけた」「助けてはもらったが、出入り禁止になった」と語れば、それはどんな厳重な警告文よりも強力な『抑止力』として機能するはずだ。


「成果は上々だ。危険箇所の更新もできたし、グランに旧区画の奥を物理的に塞がせたことで、入口層の機密性はさらに上がった。導線の安全担保は、昨日よりも一段階向上している」


 ユークは記録帳をパタンと閉じ、固まった肩をほぐすように大きく伸びをした。


 その頃。

 山を下った先の迷宮都市ラスティアでは、小さな、だが確かな波紋が広がり始めていた。


 夜も深い安酒場の片隅。

 泥だらけの服を着た若者三人が、青ざめた顔でエールの入った木製ジョッキを握りしめているのを、他のテーブルの冒険者たちが物珍しそうに眺めていた。


「おいおい、なんだいそのザマは。どこの新緑迷宮でゴブリンの群れにでも追いかけ回されたんだ?」


 からかうような声に、若者の一人が激しく首を横に振った。


「違う……。灰環だ。灰環迷宮に行ってきたんだ」


 その名が出た瞬間、周囲の冒険者たちが鼻で笑った。


「馬鹿野郎、あんな枯れた死の穴に入ったのか。そりゃ泥だらけにもなる罠だ」


「いや、違うんだ! あそこは、ただの放置された穴じゃない! 入り口には管理人がいて、ちゃんとした道が通ってるんだ!」


 若者が大声で主張すると、周囲がわずかにざわついた。


「……道が通ってる? あんな崩落だらけの場所でか?」


「ああ。青くて綺麗な光がずっと続いてて、そこを歩けば絶対に安全なんだ。……でも、俺たちは欲を出して、赤い光が点滅してる奥に入っちまった。そうしたら、得体の知れない魔獣の気配に囲まれて、後ろを振り返ったら道が壁になって……本当に死ぬかと思ったんだ」


 若者の声は、思い出すだけでも恐ろしいと言わんばかりに震えていた。


「あそこは、ルールを守れば生きて帰れる。でも、破れば地獄だ。……俺たちはもう、二度とあそこには入れてもらえない……」


 その光景を、少し離れたテーブルから、中堅冒険者の三人組と、あの初老の採集者たちが静かに見ていた。


「あの若造ども、やっぱりやらかしたか」


「管理人の言った通りだな。赤い光の奥は正真正銘の死地だ。……だが、青い光の道は確かに安定していた。それに、泥の臭いも昔ほどじゃなかった」


 中堅冒険者の一人が、仲間に向かって低く囁いた。


「大穴狙いには向かねえが、新人の訓練や、路銀が尽きかけた時の『確実に生きて稼げる場所』としては、かなり優秀な現場だぜ、あそこは」


「ああ。管理人の目があるうちは、同業者狙いの悪党やタチの悪い盗賊も寄り付かねえだろうしな。野良の迷宮より、よっぽど安心して背中を預けられる」


 灰環迷宮は、もう完全なハズレではない。

 ルールさえ守れば、確実に生還できる管理された迷宮。


 そんな新しい認識が、ラスティアの底辺から少しずつ、確実に浸透し始めていた。


 一方、山を挟んで反対側にあるクルン村。

 夜明け前の薄暗い広場で、村の女たちが恐る恐る共同井戸に桶を下ろしていた。


 引き上げられた桶の中には、数日前までのドロドロの灰色の泥水ではなく、底の方にわずかな砂が沈んでいるだけの、冷たく透明な水が入っていた。


「ああ……今日も澄んでいるわ」


「夕暮れと明け方だけは、本当に水が綺麗になるのね。あの旅人の言う通りだわ」


 村人たちは深い安堵の息をつき、手際よく上澄みを汲み上げていく。

 まだ日中は泥が混ざるため、完全な解決には至っていない。だが、安全な飲み水が確保できる時間帯ができたことで、村から「廃村」の二文字は確実に遠ざかっていた。


「迷宮の機嫌が良くなったのかしらね」


「誰かが、山の中で荒ぶる水神様を鎮めてくれたのかもしれないわね」


 迷宮内の泥処理ラインの稼働と、ユークの指示した「汲む時間帯の運用」が完璧に噛み合った結果だとは、彼らは知る由もない。だが、村の生活基盤と迷宮を繋ぐ水脈には、確かな『改善の兆し』が見え始めていた。


 夜明けの気配が近づく頃。

 ユークは前砦の受付カウンターを離れ、迷宮の内部へと足を向けた。


 入り口のアーチをくぐると、ルーメが放つ淡い青緑色の光が、安全導線を静かに照らし出していた。

 ユークはその光の道を、ゆっくりと歩いていく。


「シルクス」


 パスを通じて呼びかけると、天井の影からシルクスがカサカサと這い出てきて、ユークの肩に飛び乗った。

 糸の張り具合は完璧だ。昨夜のパニックによる余計な振動も、すでに綺麗に処理され、新しいセンサー網が構築されている。


「グラン、モルト」


 安全導線の中間地点。崩落の土砂を見事に受け流す支柱の陰で、グランが岩のように静止している。そのすぐ横の水路では、モルトが昨日の処理を終えて穏やかな寝息を立てていた。

 彼らが作り上げた堅牢な床と、浄化された空気。それがこの導線の『生還の保証』そのものだ。


「フェズ」


 パスを送ると、暗闇の奥で揺らめく幻の尾が、フワリと一度だけ応えてみせた。

 姿は見せないが、彼がそこにいるというだけで、不測の事態に対する最大のバックアップとなる。昨日、若者たちを止めた幻影の見事な手際を、ユークは改めて高く評価していた。


 ユークは彼ら一体一体に、深く温かい労いの波長を送った。


 一人と五体。

 戦闘力だけで見れば、ラスティアの三流冒険者パーティーにも劣るかもしれない。


 だが、彼らが持つ『役割』を噛み合わせ、正しく配置し、運用した時、この崩壊した迷宮は、人間を生かして帰すだけの『機能』を取り戻した。


「ここはもう、入ったら死ぬだけの穴じゃない」


 ユークは安全導線の終点、旧保守導線への入り口となる石板の扉の前に立った。

 重い石板を押し開き、狭く無愛想な管理通路を抜けて、迷宮の心臓部へと向かう。


 ひしゃげた防壁の残骸を越え、中枢コアのドーム空間へ足を踏み入れた。


 空間の中央に鎮座する巨大な水晶体は、相変わらずひび割れ、下半分は灰色の沈殿物に埋もれたままだ。

 だが、ユークが初めてここに来た時のように、空間全体を震わせるような軋み音や、血のような赤い警告光は発していない。


 淡く、静かな緑色の光が、規則正しい脈動となって水晶の奥で明滅している。それは、致命傷を負った巨獣が、峠を越えて静かな眠りについたような安らかな光だった。


 ユークは黒曜石の盤面の前に立ち、そっと手を触れた。


「報告だ。初回試験開放、事故なしで終了。入口層のインフラは、人間の利用に耐えうることが証明された」


 ユークの魔力と波長を受け取り、盤面の文字が事務的なスピードで切り替わっていく。


『情報受領』

『入口層・第一区画、安定率上昇』

『魔力循環パス、一部回復』

『外水脈枝、圧力低下傾向を維持』


 コアは、人格を持たない巨大な演算装置だ。労いの言葉をかけられることも、賞賛されることもない。ただ、物理的な数値の改善だけが、ユークの行った運用の正しさを証明していた。


「だが、これで終わりじゃない。まだ始まったばかりだ」


 ユークは盤面を見つめながら、自らに言い聞かせるように呟いた。

 試験開放は成功したが、あくまで限定的なものだ。これを『常設の迷宮』として運用し続けるためには、さらに多くの課題が山積している。


 人間が継続して利用すれば、安全導線も少しずつ摩耗する。

 外水脈枝の泥の詰まりは、いずれ本格的なバイパス工事を行って完全に圧力を抜かなければ、クルン村の井戸問題は根本解決しない。


 安全帯を少しずつ『外縁区画の奥』へと拡張し、より質の高い副産物を採集できるポイントを作らなければ、維持費を稼ぐことも、利用者の数を増やすこともできない。

 そして何より、利用者が増えれば、それに伴って『ルールを破るイレギュラーな人間』や、『利権を狙う組織』といった外圧も強くなっていく。


「課題だらけだ。だが……手も足も出ない絶望じゃない」


 ユークは盤面から手を離し、小さく息を吐いた。

 王立迷宮監督院を追放され、すべてを失ったと思って辿り着いたこの場所。


 だが今、彼の手の中には、彼を信じて動いてくれる五体の魔獣と、自分の頭脳で作り上げた『回る現場』がある。


 盤面の光が、最後に一度だけ強く瞬き、画面の中央に短い一語を浮かび上がらせた。


『継続』


「ああ、継続だ」


 ユークはドーム空間を背にし、再び現場へと続く通路を歩き始めた。


 死なない入口は完成した。

 ここからは、この迷宮を「戻れるだけの拠点」から、人間社会と循環し、価値を生み出す「使える施設」へと育て上げていく段階だ。


 落第魔獣管理者ユーク・フェルドの、崩壊ダンジョン再生の物語。

 その長く泥臭い戦いの第一章が、静かな達成感とともに幕を閉じた。

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