第29話 危険導線の逸脱
灰環前砦の受付カウンターで静かに目を閉じていたユーク・フェルドの脳内に、鋭いノイズが走った。
『――ッ!』
シルクスの警戒糸が、明確な「逸脱」の振動を伝えてきたのだ。
第一次安全帯の最も奥深く、モルトが浄化を行っている岩棚の手前。青緑の光が示す安全導線をはみ出し、ルーメが赤紫の警告光を放つ『旧区画(進入禁止エリア)』へと、何者かの足が踏み込んだ波長。
「……踏み越えたか」
ユークは目を開け、小さく息を吐いた。
怒りはない。落胆もない。想定されていた最悪の事態が、予定通りに起きただけだ。
管理者の仕事は、エラーを起こした人間を罵倒することではない。起きたエラーがシステム全体を破壊する前に、局所的に収束させることだ。
ユークは即座に魔力パスを全開にし、迷宮内の全体状況を俯瞰した。
「初老の採集者と、中堅冒険者のパーティーはすでに帰還して山を下りている。今、迷宮内にいる人間は、あの馬鹿な若者三人組だけだ」
もし他にルールを守って探索している利用者がいれば、彼らをパニックに巻き込まないよう、さらに慎重な立ち回りが要求されただろう。だが、今は違う。
他の利用者がいないという事実が、ユークの採れる選択肢を広げていた。
「全体への退避警報(鐘の音)は鳴らさない。該当区画の異常を、全力で叩き潰して引き戻す」
ユークは受付カウンターを離れ、足音を殺して迷宮の入り口へ向かいながら、パスを通じて契約個体たちに矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「フェズ! 対象は禁止区画へ踏み込んだ若者三人だ。これ以上、絶対に奥へ行かせるな。奴らの目の前に『底なしの沼』か『魔獣の群れ』の幻影を落とせ。恐怖で足を止めさせるんだ」
禁止区画の奥は、有毒ガスが滞留し、地盤も極めて脆い。素人が数メートル進めば、帰らぬ人となる。
フェズの能力は、ここで最大のストッパーとなる。
『……キュウッ』
パスの向こうでフェズが応え、暗がりの中で幻の尾を揺らした。
旧区画へ足を踏み入れた若者たちは、すぐに自分たちの愚行に気づかされることになった。
「おい……なんか、急に息苦しくないか?」
「足が沈む! 泥だ、深い泥の沼になってる!」
彼らが欲に目が眩んで数歩進んだ先は、モルトの浄化が及んでいない、高濃度の魔力残滓と腐敗ガスが溜まる死の空間だった。青緑の光に守られた安全導線とは、空気の重さも匂いも全く違う。
そして彼らがパニックになりかけたその瞬間、前方の暗闇から、カサカサという無数の足音と、巨大な百足の群れが這い寄ってくる幻影が現れた。
「ひぃぃぃっ!? 魔獣だ! 巣だぞここ!」
「来るな、来るなっ!」
若者たちは剣を抜いて無茶苦茶に振り回したが、当然幻影には当たらない。だが、フェズの狙いは「彼らを奥へ進ませないこと」だ。幻影に怯えた彼らは、悲鳴を上げて後ずさりし始めた。
「よし、足は止まったな。だが、あのままパニックで暴れ回られれば、有毒な泥が安全導線まで飛び散る。グラン!」
ユークのタクトが、次の担当を指し示す。
彼はすでに迷宮内に踏み込み、知悉している旧保守導線のショートカットを駆け抜けていた。
「グラン! 奴らがいる空間の奥、水脈の亀裂を岩で塞げ! 本当に危険な奥地への物理的なルートを完全に遮断し、奴らを『入り口側』へ押し出す地形を作れ!」
ズズン……!
迷宮の奥深くで、重い地鳴りが響いた。グランが巨体を使って岩盤を操作し、旧区画の奥へと続く道を、音もなく、だが確実に巨大な岩で塞いだのだ。
これで、彼らがどれだけ錯乱して逃げ惑おうと、奥の致死エリアに滑り落ちる危険は物理的に消滅した。
「モルト! 奴らが踏み荒らして悪臭が強くなっているはずだ。境界線のギリギリまで近づいて、飛沫の泥とガスを吸い込め! 安全導線への汚染を防げ!」
モルトが岩棚から滑り降り、境界線の溝のすぐ手前で大きな口を開けた。
ズズズズッ!と、若者たちが泥を跳ね飛ばすことで発生した有害なガスと泥の飛沫が、モルトの強力な吸引力によって次々と胃袋へと収められていく。
ユークは息を殺したまま、彼らが逸脱した分岐点のすぐ近くの物陰まで到達していた。
「ルーメ。救助誘導の光を作るぞ」
ユークの指示で、迷宮内の照明が劇的に変化した。
若者たちを惑わせていた赤紫色の光がフッと消え、代わりに彼らの足元から、ユークのいる安全導線に向けて、一筋の『明るい青緑色の光』が滑走路のように真っ直ぐに伸びたのだ。
「うわあっ! どうなってるんだ!?」
「前は壁だ! 後ろに光が……!」
幻影に怯え、退路を見失いかけていた若者たちの目に、その青緑の光は「唯一の命綱」として強烈に焼き付いた。
ユークは物陰から立ち上がり、安全導線(青緑の光の中)の境界ギリギリに立った。
彼の手には剣はない。怒りの形相もない。ただ、極めて冷静で、通る声を張り上げた。
「動くな!!」
その一喝は、魔法の咆哮のように通路に響き渡り、パニックに陥っていた若者たちの動きをピタリと止めた。
「私は管理人だ! 剣を収めろ! そこに魔獣はいない、お前たちはガスの幻覚を見ているだけだ!」
ユークは怒鳴りつけるのではなく、明確な『事実』と『指示』だけを、怯える彼らの脳に直接叩き込むように言い放った。
「パニックになって泥を跳ね上げるな! 有毒ガスを吸い込むぞ! 落ち着いて自分の足元を見ろ。青緑の光が見えるな!」
「ひ、光……見えます!」
若者の一人が、涙声で叫び返した。
「その光の線から絶対に外れるな! 互いの手を掴め! 一人も離すな! 光を辿って、ゆっくりと私の方へ歩いてこい!」
ユークの絶対的な自信に満ちた指示は、暗闇で溺れかけていた彼らにとって、何よりもすがりつきたい浮き輪だった。
三人の若者は慌てて互いの手を強く握り合い、ルーメが照らし出す一筋の光の道を、泥に足を取られながらも必死に歩き始めた。
「そうだ、いいぞ。そのまま真っ直ぐだ」
ユークは彼らの歩みに合わせて声をかけ続けた。
だが、一番後ろを歩いていた少女が、泥の中の隠れた石に足をつまずかせ、大きくバランスを崩した。
「きゃあっ!」
倒れれば、顔から有毒な泥に突っ込む。
ユークは境界線から一歩も出ず、即座にパスを飛ばした。
「グラン!」
ゴツン!
少女が倒れ込む寸前、泥の下から硬い岩の柱が絶妙な角度で隆起し、彼女の体を柔らかく受け止めた。
「えっ……?」
「立ち止まるな! あと五歩だ!」
ユークの声に弾かれ、少女は再び立ち上がり、仲間たちに引かれるようにして歩みを進めた。
そして。
バチャッという泥の音とともに、三人の若者が、ユークの引いた『安全導線の境界溝』を転がり越えた。
グランが固めた、冷たくも絶対的に崩れない石の床の上。ルーメの穏やかな光に満ちた空間。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
「げほっ、ごほっ……!」
三人は青緑の光の中で、泥まみれになりながら泣きじゃくり、激しく咳き込んでいた。
全員生還。
傷一つない。仲間も欠けていない。
ユークは彼らを見下ろし、小さく息を吐いた。
フェズが幻で止め、グランが道を塞ぎ・支え、モルトが毒を吸い、ルーメが光で導き、シルクスが位置を共有し続けた。
五体の契約個体たちの総力運用による、完璧な救助劇だった。
「……怪我はないな」
ユークの静かな問いかけに、若者たちは顔を上げ、何度も何度も頷いた。
「立て。日没が近い。前砦に戻るぞ」
ユークはそれ以上何も言わず、彼らに背を向けて歩き出した。
若者たちは互いを支え合いながら、ユークの背中を、そして安全な光の道を、今度は一歩も逸れることなく必死についてきた。
迷宮のアーチを抜け、前砦の敷地に戻った時、空はすでに深い藍色に染まりきり、一番星が瞬き始めていた。
他の二組はとうに帰還を終え、誰もいない静寂だけが砦を包んでいる。
ユークは無言のまま受付カウンターの裏に回り、名簿を手にした。
そして、短い鉛筆で、三組目の若者たちの欄にチェックを入れた。
「三組目、帰還確認。これにて本日の試験開放を終了とする」
ユークは名簿を置き、泥だらけの若者たちを見据えた。
その瞳には、救助者としての温かみは一切ない。冷徹な、管理者の目だった。
「お前たちは、第三規則に違反し、進入禁止区画へ立ち入った。第七規則に則り、お前たち三名の、当迷宮への次回以降の立ち入りを永久に禁ずる」
無情な宣告。
せっかく見つけた「安全な狩場」からの永久追放だ。
だが、若者たちは反論しなかった。怒りも、不満の言葉も口にしなかった。
彼らは、あの赤い光の向こう側にあった「本物の死の恐怖」を肌で感じたのだ。そして、この管理人がいなければ、自分たちは間違いなくあの泥の中で息絶えていたことを理解していた。
最も前に出ていた若い男が、泥にまみれた両手で顔を覆い、ガタガタと震えながらポツリと呟いた。
「助かった……帰ってこられた」
それは、後悔でも恨み言でもなく、ただ生きていることへの純粋な安堵の涙だった。
ユークはその震える肩を静かに見つめながら、心の中で一つの確信を得ていた。
戦って勝ったわけではない。敵を滅ぼしたわけでもない。
だが、「帰ってこられる道」を作り、それを維持し抜いたこと。
それこそが、ユーク・フェルドという男が、この崩壊ダンジョンで示すべき最大の『価値』だった。




