第37話 砦の下の旧排水路
夜の冷気が、剥き出しになった地下への縦穴から、ひどく湿ったカビの匂いと共に立ち上っていた。
灰環前砦の広場。つい先ほどまでただの平坦な石畳だと思われていた場所は、グランの強靭な顎と前脚によってこじ開けられ、漆黒の口を開けている。
ユーク・フェルドは、その暗い空洞の縁に立ち、手にした魔力灯の光を慎重に投げ入れた。
数メートル下の底を照らし出す光の中に浮かび上がったのは、無惨に赤錆の浮いた鉄梯子と、かつて王立迷宮監督院が設置したであろう、堅牢な石造りの基部だった。暗闇の奥からは、ズズッ、ズズゥンという、重い泥が無理やり押し出されようとする不気味な振動音が絶え間なく響いてくる。
「……なるほどな。ずっと俺たちの足元にあったわけだ」
ユークは梯子の入り口付近、岩肌に打ち付けられていた泥まみれの金属プレートを指で強く拭った。そこには、監督院の旧紋章と共に『外水脈枝・第三沈殿槽および緊急排水路』という文字が深く刻み込まれていた。
「ドーランさん。この前砦の古びた構造……単なる見張り所にしては、不自然なほど基部が頑丈に作られているとは以前から思っていましたが、ようやく合点がいきました。ここはただの出入り口ではなく、迷宮と外界を繋ぐ水脈の『点検口』を兼ねた、環境管理施設だったんです」
命綱となる太い麻縄を広場の柱に結びつけ、強度を確かめていたドーランが、感心したように太い息を吐いた。
「道理で、辺境の廃墟にしちゃあ石材が上等だと思ったぜ。迷宮から溢れ出した猛毒の泥が、直接ふもとの村に流れ込まねえように、ここで一旦『濾過』して溜め込んでいたってわけか」
「ええ。ですが、迷宮が崩壊し、管理が途絶えて数十年。そのフィルターが完全に目詰まりを起こし、逆に毒を溜め込む巨大な『腫瘍』に変わっている。俺が入口層の水脈を少し通してしまったせいで、上流からの水圧が行き場を失い、この腫瘍を破裂させようとしているんです。それが、村の井戸の濁りと振動の正体だ」
ユークは腰の作業ベルトをきつく締め直し、いくつもの道具袋と、魔獣たちのための魔力触媒を固定した。
地下の沈殿槽は極めて狭い。契約個体すべてを一度に入れることはできないし、人間が複数降りるのも危険だ。
「俺が下へ行きます。グラン、まずは先に入ってくれ。構造全体が水圧と経年劣化でひどく脆くなっている。お前の仕事は、俺たちが泥を掻き出しても上の広場が陥没しないよう、天井と壁を『噛んで』支えることだ」
『……グゥ』
低い振動音と共に、グランが巨体を揺らしながら縦穴へと降りていく。土木作業のスペシャリストである彼は、ただ力で岩を支えるのではない。自身の魔力を岩盤の亀裂に浸透させ、物理的に構造を同化・強化することができるのだ。
グランが地下に降り立ち、四肢を張って壁面に定着したのを確認してから、ユークはドーランに命綱を預けて梯子を下りた。
赤錆びた鉄梯子は、体重をかけるたびにギシギシと嫌な音を立てた。
足が底に着いた瞬間、膝下までが重く冷たい泥に埋まった。ひどい悪臭だ。
魔力灯の光を周囲の壁に当てると、そこには目を覆いたくなるような惨状が広がっていた。本来なら水が流れるはずの巨大な石管は、完全に泥で塞がれている。しかも、その泥は均一ではなかった。何重もの「地層」のように、異なる色と質の堆積物が重なり合っているのだ。
「これは……想像以上に酷いな」
ユークは杖の先で、壁のように立ちはだかる泥の断面を軽く削ってみた。
表面には、最近の崩落で流れてきた黒く柔らかい『汚泥』がへばりついている。だが、その奥には、数十年かけて沈殿し、もはや粘土のようにガチガチに固まった灰色や緑色の『鉱泥』が層を成していた。この何重もの層が沈殿槽の全ての排水孔を塞ぎ、逃げ場を失った水が無理やり別の岩の亀裂を突き抜けて、クルン村の井戸へと向かっているのだ。
「ルーメ、光を回せ。泥の濃度と、魔力の偏りを視覚化してくれ」
ユークの肩に乗っていたルーメが、ゼリー状の体を震わせて周囲を青緑色の光で照らし出した。
光は泥の層に乱反射し、成分の透過率によって異なる色合いを浮かび上がらせる。ある場所では不気味な赤紫色に、ある場所では濁った黄土色に、そしてある場所は光を完全に拒絶する漆黒に透けた。
「紫の部分は高濃度の重金属を含んだ鉱石泥。黄土色は有機的な腐敗物か。……これだけの量が詰まっているとなると、力任せに吹き飛ばすのは自殺行為だ」
ユークは泥の中で足場を固めながら、地上に向かって声を張り上げた。
「ドーランさん! 上がっていますか!」
「ああ! 綱に緩みはねえぞ! そっちの様子はどうだ!」
「最悪です! 泥が何層にもなって硬化しています! もしこれを一気に崩せば、急激な水圧の変化でこの沈殿槽自体が押し潰されるか、下流の村に向かって致命的な鉄砲水が飛び出します!」
閉鎖空間における流体管理の鉄則。詰まりを一気に抜いてはいけない。
ユークは地下に降りてきたモルトを呼び寄せた。狭い沈殿槽の中で、モルトの巨大な体はかなりの圧迫感を生むが、有機物も無機物も消化できる彼の浄化能力がなければ、この汚泥の壁はどうしようもない。
「モルト。いいか、絶対に一気に全部食べるなよ」
ユークは壁の『黄色い層』――比較的柔らかく、腐敗物が中心となっている層を杖で指し示した。
「紫の重金属層や、硬い黒の層は残せ。この黄色の層だけを、薄く、少しずつ削り取って浄化するんだ。一度に全部の泥を処理しようとすれば、お前の腹がパンクするだけじゃない。急激に容積が空くことで水圧のバランスが崩れ、俺たちごとこの空間が自壊する。……沈殿、分流、処理。その順番を絶対に守るぞ」
『……キュゥ……。ワカッタ。ウス、ク』
モルトがその粘液に包まれた太い舌を伸ばし、指示された層だけを器用に舐めとっていく。
ズズッ、ズズッという、泥をすする湿った音が地下空間に響く。
一見すれば、途方もなく気の遠くなるような作業だ。巨大な泥の壁に対し、数センチずつ溝を掘っていくようなもの。だが、ユークは焦らなかった。現場の安全とは、こうした退屈で神経をすり減らす作業の積み重ねの上にしか成り立たないからだ。
「ドーランさん! 上部の石畳の隙間に、楔を打ち込んでおいてください! グランが下から壁を押し広げる際、支点にする場所を作ります!」
「おうよ! 任せときな!」
地上と地下。
管理者の冷徹な状況判断、ベテラン運び屋の確かな物理的支援、そして魔獣たちの特化された能力が、見えない糸で繋がったように一つの目的に向かって噛み合っていく。
泥まみれの作業開始から、数時間が経過した。
モルトが「腐敗の層」を一定量処理し、壁面に浅い溝を作り出したことで、泥の奥に埋もれていた古い『排水バルブ』の輪郭がようやく見えてきた。
ユークは肩まで泥に浸かりながら、その巨大な金属製のハンドルに両手をかける。渾身の力を込めて引くが、数十年の錆と泥に固着したバルブは、当然のごとくびくともしない。
「グラン、ここだ。右の前脚で、このハンドルの付け根を『最小の振動』で叩け。叩き割るんじゃない、金属の固着を解くんだ」
『……グゥ』
グランの太い脚が、精密機械のような正確さでハンドルの基部を叩く。
カン、カン、というくぐもった乾いた音が岩盤を伝わり、やがてゴリリ……という重い手応えがユークの手に伝わった。
「よし、動く! モルト、ここから少し離れろ! 分流を開始する!」
ユークが歯を食いしばりながらハンドルをゆっくりと回すと、長年閉ざされていたバイパス路のゲートが、重々しい音を立てて解放された。
これまで村の井戸へと向かう岩の亀裂に無理やり押し込まれていた汚水が、ゴボゴボというすさまじい音と共に、本来の巨大な排水ルートへと流れ込んでいく。
もちろん、これで迷宮の毒が全て消え去ったわけではない。
クルン村の井戸を汚していた鉱泥を、今度は迷宮の『本来の排水系』に流し直しただけだ。だが、この沈殿槽が本来の機能を取り戻したことで、泥はここで一旦底に沈み、上澄みの澄んだ水だけがオーバーフローして下流の川へと流れていくようになる。村への直接的な汚染ルートは、これで完全に絶たれた。
ユークは泥だらけの手で懐の記録帳を取り出し、即座に図面を書き加えた。
前砦の地下、第三沈殿槽。ここを新たに『水脈観測および処理区』として定義する。
ここを拠点にすれば、迷宮の奥深くへ足を踏み入れなくても、流れ込んでくる水質や泥の成分を調べることで、深部で起きている異常をある程度察知できる。
「……ふぅ。これで第一段階は完了だ。見事な仕事だったぞ、お前たち」
ユークは泥まみれの顔を腕で拭い、息をついて天井を見上げた。
グランの物理的な支柱、モルトの精密な浄化、そしてルーメのスペクトル分析。
かつて監督院が巨大な魔法装置や数十人の技術者を動員して行っていた大規模な環境管理を、彼はたった数体の魔獣との連携によって、より緻密かつ安全に再現してみせたのだ。
「ドーランさん! 引き上げをお願いします! 地下の『詰まり』は、ひとまず抜けました!」
命綱に引かれ、ユークが地上へ戻ってきた時、夜明け前の薄紫色の光が、砦の広場をぼんやりと照らし始めていた。
地下からは、先ほどまでの重苦しい泥の音ではなく、サラサラという、これまでこの場所では聞いたことのなかった「健やかな水音」が響いていた。
「やったな、管理人。こんだけ綺麗な音が鳴ってるなら、村の井戸もすぐに澄んでくるはずだ。大した大立ち回りだったぜ」
「ええ、ありがとうございます。……ですが、これはまだ、迷宮の『外側』に溜まっていたゴミを掃除したに過ぎません」
ユークは疲労に重い体を石台に預けながら、迷宮のアーチ――その暗い口の奥をじっと見つめた。
水が正しく流れ、環境が変わる。
それは迷宮が再生へ向かっている証であると同時に、迷宮の生態系にとっては「劇的な変化」を意味する。
その時だった。
迷宮の深部、外縁区画のさらに奥――人間がまだ立ち入ることを許されていない未開域から、魔力パスを通じてシルクスが、これまでにないほど鋭く、切迫した警告を発した。
『――ッ! キタ。動イタ。イッパイ、動イタ!』
ユークの脳内を走る、強烈なノイズ。
それは、外水脈の流れが正常化したことで、長年乾燥して「死んでいた」と思われていたある区画に大量の水が届き、その湿気を合図にして目を覚ました『何か』の気配だった。
カサリ、カサササッ。
ギチ、ギチギチギチ……。
地下水路の奥深くから響いてくる、硬い甲殻が壁を這う無数の足音。
そして、何十年ぶりかの獲物を求めるような、甲高い翅の擦れる音が、微かな空気の振動となって砦まで届いた。
「……虫型か。水脈の詰まりを直したことで、奴らの『眠っていた巣』にまで水を行き渡らせ、刺激してしまったか」
ユークは休めるはずだった杖を再び強く握り直した。
環境改善の代償として現れる、迷宮自身の新たな拒絶反応。
管理者が次に直面すべきは、人間の欲でも施設の老朽化でもなく、正しい循環を取り戻したことで目覚めてしまった、迷宮本来の強固な「免疫系」だった。




