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第3話 最初の崩落

 メキョォォォォン……ッ!!


 迷宮の奥底から響いたその音は、ただの落石の音ではなかった。


 巨大な岩盤が、本来ならあり得ない方向からの圧力に耐えきれず、悲鳴を上げてへし折れる音だ。


 直後、ユーク・フェルドの頭上に広がるアーチ状の天井に、雷のような幾筋もの亀裂が走った。


 パラパラと落ちてきていた砂の雨が、一瞬にして暴力的なつぶての豪雨へと変わる。ソフトボール大の石の塊がユークの肩をかすめ、床の石板を粉砕した。


 轟音とともに、前方十数メートル先の天井が、完全にその質量を支えきれずに崩落を開始したのだ。


「チッ……!」


 ユークは反射的にライトの魔道具を庇うように胸元へ抱き込み、姿勢を低くした。


 視界は一瞬にしてもうもうと舞い上がる土煙に奪われ、ライトの光すら数十センチ先で乱反射して白い壁と化してしまう。鼓膜を圧迫する轟音と、足の裏から伝わる強烈な振動が、人間の本能に「ただちに光の射す入り口へ向かって走れ」と警鐘を鳴らしていた。


 だが、ユークの目はパニックに染まっていなかった。


 監督院で幾度となく事故報告書を読み込み、生存者と死亡者の行動の境界線を分析してきた彼の脳は、極限状態の中で恐ろしく冷たく回り始めていた。


(真っ直ぐ戻れば、崩落の波に背中から飲まれる。岩盤の割れ方は入り口に対して平行だ。崩落の『面』がこっちへ向かって倒れてくる!)


 背を向けて走るのは悪手だ。人間の足より、重力に引かれた岩の落下速度の方が圧倒的に早い。


 ならば横へ逸れるか。


 ユークは足裏の感覚に意識を集中させた。右側の床はわずかに傾斜しており、先ほど感じた『見えない水圧』の影響か、微かにしっとりとした滑りを感じる。あちらへ飛べば、着地で足を取られ、そのまま落ちてくる天井の下敷きになる。


 逃げ場はない。通常の冒険者であれば、ここで剣を抜いて落ちてくる岩を砕こうとするか、あるいは絶望して足を止める場面だ。


 だが、ユークは違った。


 彼は迷宮を「戦場」ではなく「人間が設計・管理していた施設」として見ている。


(灰環迷宮は複合型だ。鉱脈と水脈が隣接するこの構造なら、設計者は必ず局所的な水圧崩落を予測していたはずだ。逃げきれない事故が起きる前提なら、当時の保守作業員はどうやって身を守る?)


 作業員が即座に退避できる『安全地帯』が、絶対に近くにあるはずだ。


 ユークは土煙の中で目を細め、記憶の中の複合型ダンジョンの標準設計図と、今自分の立っている空間の構造を重ね合わせた。


(壁の結合部、アーチの根元……最も構造的に硬い場所。そこだ!)


 彼は前方左側、通路の壁面と床が交わる最も低い位置へ向かって、躊躇なく身体を投げ出した。


 一見すれば、ただの凹凸のない壁だ。だがユークの目には、その部分だけが周囲の自然岩ではなく、くすんだ鉄色の『耐圧補強土』でコーティングされているのが見えていた。


 ドサッ、と壁際へ滑り込んだ瞬間、ユークは両腕で頭を覆い、身体を極限まで丸めて小さな窪みに身をねじ込んだ。


 そこは、かつての保守作業員が、魔物の襲撃や小規模な崩落から身を隠すために造られた旧式の『保守用退避窪み』だった。大人が一人、辛うじて丸まって入れるだけの狭い空間。


 直後、世界が物理的な暴力に塗り潰された。


 ズドォォォォンッ!!


 ユークが数秒前まで立っていた空間に、数トンはある巨大な岩の塊が直撃し、床石ごと粉砕した。


 退避窪みのすぐ数センチ横を、死の質量が掠めていく。飛び散った鋭利な岩の破片がユークの分厚い外套を切り裂き、衝撃波が肺から空気を強制的に叩き出した。


「ガッ……ゴホッ、ゲホッ……!」


 どれほどの時間が経ったのか。


 永遠にも思えた崩落の轟音が、やがて不気味な地鳴りへと変わり、少しずつ静まっていった。


 ユークは激しく咳き込みながら、砂まみれになった顔を上げた。外套の襟で口元を覆い、なんとか呼吸を確保する。


 身体を動かしてみる。右肩と左足に鈍い打撲の痛みはあるが、骨は折れていない。ライトの魔道具も無事だ。


 彼は退避窪みから這い出し、光量を絞ったライトで周囲の状況を確認した。


 そこにあるのは、完全に原型を留めていない瓦礫の山だった。


 通路の奥へ続く道は、折り重なった巨大な岩盤によって完全に塞がれている。退避窪みに飛び込んでいなければ、間違いなくあの岩と岩の間に挟まれて肉塊になっていただろう。


 ユークは腰から測量用の叩き棒を引き抜き、目の前に落ちてきた巨大な岩の断面を慎重に突き始めた。


 パニックにはならない。彼が今すべきことは、ただの「事故」を「現象」として正確に読み解くことだ。


「……なるほどな。ただの老朽化じゃない」


 ライトに照らされた岩の裏側――本来なら天井の奥深くに隠れていたはずの接着面を見て、ユークは確信を得た。


 そこには、水分をたっぷりと吸って黒く変色した泥状の苔が、分厚くへばりついていたのだ。


 入り口層のこの区画は、本来カラカラに乾いた『鉱脈型』のエリアだ。天井の裏に、これほどの水気があるはずがない。


「水脈層の隔壁がどこかで破れて、行き場を失った水が壁の裏側へ浸透したんだ。岩が水を吸って重くなり、同時に裏側からの水圧に耐えきれなくなって、内側から『押し出される』ようにして崩落した」


 ユークは叩き棒についた湿った泥を指先で拭い、匂いを嗅いだ。


 カビと、古い鉄の匂い。間違いない。この崩落は、単なる地盤の緩みではなく、迷宮の循環機能が完全に狂った結果として引き起こされた『水脈側からの物理的攻撃』だ。


 もし、この迷宮に正常な『索敵』の機能が残っていればどうだったか。


 本来なら、壁の裏に異常な水圧がかかった時点で、微細な振動を感知する蜘蛛型の使役魔物や、魔力流の乱れを視覚化する観測球が、迷宮の管理者に対して警告を発していたはずなのだ。


 だが、入り口の広場で見た通り、観測球は泥に埋もれ、壁を這う虫は餓死していた。


 迷宮の目と耳となるべき『仕事』を持つ魔物たちが死に絶えていたからこそ、これほどの大規模な崩落の予兆が、誰にも気づかれないまま臨界点に達してしまったのだ。


「索敵が死んだ施設は、見えない場所から腐って落ちる。教科書通りの最悪な展開だ」


 ユークは小さく悪態をつき、今度は背後――入り口方面へと振り返った。


 瓦礫の山は奥の通路を塞いだだけでなく、入り口側への退路にも大きく覆い被さっていた。


 天井と瓦礫の間に、人が這って通れる程度の隙間は辛うじて残っている。今すぐあそこを潜り抜ければ、迷宮の外へ逃げ出すことは可能かもしれない。


 だが、ユークはその隙間を冷徹な目で見上げた。


 隙間の周囲の岩盤は、アーチ構造の支えを失い、いまにも落ちてきそうなほど不安定に噛み合っている。


「……戻れるが、安全じゃないな」


 瓦礫の上を這い進めば、その体重移動だけで絶妙なバランスが崩れ、頭上の残った岩盤が落ちてくる『二次災害(二次崩落)』の可能性が極めて高い。九割以上の確率で、隙間の中で生き埋めになる。


 それに、この崩落は迷宮全体が抱える機能不全の、ほんの一部が表面化したに過ぎない。ここで逃げ帰っても、遠からずこの入り口層全体が決壊し、溜まりに溜まった致死性の汚染が外界へ溢れ出すのは目に見えている。


 詰みか。


 そう思考が傾きかけた、その時だった。


 ――ズボボボ……ヂュル……ヂュルルル……。


 崩落の土煙が少しずつ晴れていく中、瓦礫の山の奥、あるいは下の方から、奇妙な音が響き始めた。


 それは、水が流れるような澄んだ音ではない。もっと粘り気のある、重くて、どす黒い何かが、岩と岩の隙間を押し広げながら迫ってくるような音だ。


「……水、じゃない」


 ユークは叩き棒を構え直し、じっと瓦礫の隙間を見つめた。


 音とともに、強烈な異臭が漂い始める。


 先ほど嗅いだ古い鉄の匂いなど比ではない。生物の死骸、腐敗した苔、そして迷宮の奥底で澱みきった魔力の残滓。それらが混ざり合い、発酵したような、むせ返るような腐臭だ。


 瓦礫の隙間から、ブクブクと音を立てて、灰黒色のドロドロとした液体が這い出してきた。


 それはただの泥水ではない。迷宮の自浄作用が死に絶えたことで、地下に溜まり続けた汚染物質が、崩落によって生じた隙間を縫って、入り口層へ向かって逆流を開始したのだ。


「泥が、上ってくる……」


 退路は脆く、進む道は塞がれ、そして足元からは致死性の汚泥が這い寄ってくる。


 見捨てられた迷宮が牙を剥く『三重事故』の連鎖が、ユークを完全に包み込もうとしていた。

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